石田波郷
石田波郷『江東歳時記』を歩く
深川清澄庭園で
木瓜(ぼけ)褪せて庭園春をふかめけり
深川二ツ目の通り、区役所前で電車を下りると、1万5千坪の清澄庭園の塀がある。
これに沿ってゆくと西北のすみに入口がある。入園料大人20円。花時だが、桜のない庭園は閑静だ。大きな泉池、築山、涼亭。大三菱の宗主岩崎弥太郎が明治11年造園を始め、24年に弟弥之助が完成した。明治風雲時代の藩閥政府と豪商の浮沈の関係を背景に思い出しながらながめると別に驚く程の規模ではない。関東大震災の破壊をまぬかれることはできなかったが、ここに逃げこんで助かった町民は多勢に上った。比較的損傷の少なかった東半分が大正13年6月東京市に贈られ、今日に至っている。
『江東歳時記』(深川清澄庭園で) |
石田波郷が読売新聞江東版に『江東歳時記』を連載したのは昭和32年3月19日から翌年2月3日まで。その後、江東区は大きく変わっている。 「深川二ツ目の通り」は清澄通り。「区役所」は東陽町に移転して、現在は江東区深川江戸資料館になっている。「電車」は都営地下鉄大江戸線に。 |
明治11年(1878年)、岩崎彌太郎は六義園、茅町本邸とともに深川別邸を購入。 |
涼亭は岩崎家が明治42年(1909年)国賓として来日した英国のキッチナー元帥歓迎のためこの庭園に建築したものです。その後大正13年10月1日庭園とともに当時の東京市に寄附され、爾来集会場として利用されてきましたが、すでに70有余年の歳月を経たため、このたび改築されたものであります。
昭和61年3月 |
大正10年(1921年)、深川別邸東南隅の約3,000坪を改造して「清澄遊園」として市民に公開。 大正11年(1922年)10月31日、永井荷風は清澄庭園に憩う。 |
午後深川公園より淺野セメント工塲の裏手を歩み、此頃開放せられし岩崎男爵別邸の庭園に憩ひ薄暮に至るを俟ち明治座前の八新に徃く。松莚子招宴の約ありたればなり。歸途半輪の月明なり。 |
大正12年(1923年)9月1日、深川別邸は関東大震災で洋館と日本館はいずれも焼失。 |