旅のあれこれ


震 災 ・ 戦 災

空折々掻曇りて細雨烟の來るが如し。日將に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し嚶鳴館遺草を讀みゐたりしが、架上の書帙頭上に落來るに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を辨せず。兒女鷄犬の聲頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが爲なり。予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排いて庭に出でたり。數分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそる吾家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。稍安堵の思をなす。


 越谷市西新井の西教院山門は関東大震災により倒壊。60数年後に復元された。

 足立区千住の安養院本堂は震災で倒壊、翌年に再建。

 江東区清澄の深川別邸は関東大震災で洋館と日本館はいずれも焼失。

 江東区富岡の富岡八幡宮は関東大震災で焼失。昭和8年(1933年)12月に復興建築として完成。

 東京都江東区の長慶寺にあった芭蕉時雨塚は関東大震災で罹災。再建されたが戦災で再び失われ、現在では台座の一部が残っているだけ。

 東京都江東区にあった泉養寺の「芭蕉塚」は関東大震災で半ば崩壊。昭和2年(1927年)、千葉県市川市に移転。

 墨田区両国の相生尋常小学校(現:両国小学校)は関東大震災により校舎全壊・焼失。

 台東区西浅草の浅草本願寺は空襲により被災。本堂内部は全焼したが、外郭は鉄筋コンクリートのため残った。

 台東区西浅草の称往院は関東大震災により昭和2年(1927年)、世田谷区北烏山に移転した。

 明治23年(1890年)、浅草凌雲閣竣工。12階建てで当時の日本で最も高い建築物であった。大正12年(1923年)、関東大震災で半壊し解体された。

 台東区柳橋と中央区東日本橋に架かる柳橋は関東大震災で落ちてしまい、昭和4年(1929年)に復興。

 中央区湊の鐵砲洲稲荷神社は震災により被害をうけ、昭和10年(1935年)より復興、整備された。

 中央区明石町の聖路加国際病院は火災で建物を失う。空襲の被害はまぬがれた。

 中央区築地の築地本願寺は関東大震災で崩壊。昭和9年(1934年)、現在の古代インド仏教様式の建物に再建。

 中央区日本橋蛎殻町の水天宮は被災したが、御神体は「新大橋」に避難し難を逃れたそうだ。

 豊島区南池袋の法明寺は関東大震災で倒壊。

 文京区本郷の安田講堂は工事中断。大正14年(1925年)7月6日、竣工。東京大空襲による被害から免れた。

 文京区湯島の湯島聖堂は入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡。昭和10年(1935年)4月4日、復原。戦災は免れた。

 千代田区外神田の神田明神は焼失、昭和9年(1934年)に再建。耐火構造の為、戦災を免れた。

 千代田区神田駿河台の文化学院は焼失。与謝野晶子の『新新訳源氏物語』の原稿も焼失。戦災に遭わなかった。

 千代田区皇居外苑の桜田門は関東大震災で門が壊れた。

 品川区北品川にあった高源院は関東大震災で大きな被害を受ける。昭和14年(1939年)、世田谷区北烏山に移転。板垣退助の墓はそのまま残された。

 横浜市緑区長津田町の大石神社は関東大震災により石造本殿が崩壊した。

 明治30年(1897年)、伊藤博文は金沢文庫を称名寺大宝院跡に再建したが、関東大震災で失われた。

 神奈川県小田原市の小田原かごせい本店は関東大震災時に被害を受け、大正13年(1924年)に再築した。戦災には遭わなかったようだ。

大地をば愛するものの悲しみを嘲める九月朔日の天

休みなく地震して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街

きはだちて真白きことの哀れなりわが学院の焼跡の灰

焼けはてし彼処此処にも立ちまさり心悲しき学院の跡

十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰

『瑠璃光』

 大正12年(1923年)9月2日、第2次山本権兵衛内閣。後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁。

震災イチョウ


文部省構内のイチョウは奇跡的に生き残りました。

大正14年(1925年)、一ツ橋完成。

昭和4年(1929年)12月、柳橋完成。

 東照宮五重塔は関東大震災でも倒壊せず、戊辰戦争や第2次大戦でも焼失を免れた。

 関東大震災後、東京近郊へ移り住む人々が急増し、馬込一帯も次々に宅地化された。

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