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泉岳寺〜四十七士墓所〜

港区高輪の泉岳寺に行ってみた。


曹洞宗の寺院である。

慶長17年(1612年)、徳川家康外桜田に創立。

寛永18年(1641年)、「寛永の大火」によって焼失。

現在地に移転。

泉岳寺中門


天保7年(1836年)、再建。

総欅造りだそうだ。

泉岳寺山門


天保3年(1832年)、再建。

大石内蔵助良雄銅像


連判状を手にしているそうだ。

大正10年(1921年)12月14日、除幕。

   雪のあした、学弟どもの目黒へ行くに

帰りには高輪過ぎて良雄等の墓も訪ひ来よ今朝の白雪   落合直文

 元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士は高家吉良義央の屋敷に討ち入りをした。

萬松山泉岳寺


本尊は釈迦如来。

旧本堂は空襲により焼失。

昭和28年(1953年)12月14日、本堂落成。

四十七士墓所の門


 浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものだそうだ。

 其角は赤穂浪士討ち入り前夜、四十七士の一人大高源五と会い、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるるその宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる。

 元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士自刃。

    泉岳寺義士の墓参りして

鶯の目はからし酢の涙かな
   其角


 安永9年(1780年)4月15日、蝶夢は品川を立つ時に泉岳寺に案内された。

宿のあるじ見送りて、高縄の泉岳寺を案内するに、古墳の壘々たるあはれに、世のすゑとも覚へぬ節義の人の名どもよむに、泪ぞ先だちける。


 天明8年(1788年)4月16日、蝶夢は再び泉岳寺に墓参。

芝泉岳寺の四十七士墓へ参。

   忠誠院刃空浄剣居士 大石内蔵輔義雄 行年四十五

と有。余略。


 嘉永7年(1854年)4月11日、吉田松陰下田からには江戸伝馬町の獄に送られた。高輪泉岳寺の門前を通り、ここに埋葬されている赤穂義士に想いを馳せて、「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌を詠んでいるそうだ。

 昭和11年(1936年)4月15日、種田山頭火は泉岳寺を訪れている。

 四月十五日 花ぐもり。

朝湯朝酒とは有難すぎる、身にあまる冥加である。

二人でぶらぶら歩く、Iさんのお宅で御馳走になる、天ぷら蕎麦、冷酒、池上本門寺、よい森、松がよい。

高輪泉岳寺、香烟がたえない。


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