旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

大正6年 ・ 大正11年 ・ 大正14年

大正14年(1925年)

   1月1日〜雜司谷墓參〜

快晴の空午後にいたりて曇る。風なく暖なり。年賀の客は一人も來らず。午下雜司谷墓參。歸途關口音羽を歩む。音羽の町西側取りひろげらる。

   1月15日〜片岡といふ仲買〜

午前兜町片岡といふ仲買の店を訪ひ、主人に面會して東京電燈會社の株百株ほどを買ふ。去年三菱銀行の貯金壹萬圓を越へたれば利殖のため株を買ふことになしたるなり。仲賣(ママ)片岡は磊落なる相場師肌の男にて、余の小説を愛讀せり。曾て築地僑居のころ相識りしなり。

   7月2日〜柳田國男氏の來るに會ふ〜

松莚子直助權兵衞の役夕五時頃より出場との事なり。共に木挽町に徃き七時頃獨風月堂に至る。偶然柳田國男氏の來るに會ふ。此夜月明に風涼し。

   9月19日〜秋暑甚し〜

雨霽れて再暑し。大正八年秋築地の露地に住みし時、彼岸に至るも秋暑甚しく、コレラ病流行せしことあり。今年の秋暑また斯くのごとし。

   10月21日〜巡査關口某〜

快晴。百舌鳴き石蕗花ひらき、菊花馥郁たり。美男かつらの實既に赤し。市兵衞町曲角交番の巡査關口某來りて短冊を請ふ。この巡査五年前余の麻布に來りてより一年に兩三度短冊を持來りて句を請ふ。商估にあらざれば請はるゝまゝに駄句を書して與ふ。

   12月13日〜八重次の夢

昨夜就床の後胃の消化不良の故にや、腹鳴りて眠ること能はず、硝子窓薄明くなりしころ漸く睡につきしに、忽舊妓八重次に逢ひたる夢を見たり。およそ夢といふもの覺むると共に思出さむとするも得ざるが常なるを、昨夜の夢のみいかなる故にや、寤めたる後もありありと心に殘りたり。かの女靜なる庭を前にしたる中二階の如き家の窓に倚りゐたるを、われ木の間がくれに見て忍び寄り、頻に舊情を暖めむと迫りしかど、聽くべき様子もなかりし故悄然として立去りぬ。余かの妓と馴れそめし昔といへども、さまで心を奪はれゐたるにはあらざりしを、況んや別れてより十餘年を過ぎたるに、突然かくの如き夢を見んとは、誠に思ひもかけぬことなり。八重次震災の後羽根澤のあたりにシュウ(※「イ」+「就」)居なせる由人より聞きしが、今はいづこに住めるや、それさへ定かには知らざるなり。重ね重ね笑ふべき夢なりけり。

   12月20日〜紅葉山人

晩餐の卓上一座の談話たまたま紅葉山人のことに及びし時、小波先生の曰、紅葉山人の實父は赤羽織と綽名せられし柳橋の幇間にて、彫刻を善くせし谷齋といふ者なるは、既に世人の知る所なれど、其實母はいかなるものなるや詳ならず。思ふに藝者なるべし。山人は生るゝと共に祖父母の許に引取られ、實父谷齋に引逢はされしは成人の後なり。祖父は寒暖計の管に水銀を流し込むことを内職となしゐたる程なれば、山人の學費は某所税關の役人なりし其叔父の仕送りしものなり。山人は幇間谷齋の私生兒なることを深く愧ぢ、劇場相撲塲等に行くことを好まざりしと云ふ。人生の一悲慘事といふべし。予窃に思ふに、若山人にして自らその出生のことにつき、憚る所なく憂悶の情を筆にしたらむには、恐らくは其小説に劣らざる不朽の文字を世に傳へしなるべし。

   12月21日〜櫻川町の女

夜初更を過ぎし頃、忽然門扉を敲くものあり。出でゝ見るに、過日銀座にて偶然見たりし櫻川町の女にて、今宵は流行の洋裝をなしたり。女子紅粉を施し夜竊に獨居の人を訪ふ。其意問はずして明なり。爐邊に導き葡萄酒を暖めキュイラツソオを加味して飲む。陶然醉を催し樂しみ窮りなし。醉中忽然として佛蘭西漫遊のむかしを想出したるは、葡萄酒の故にあらず、洋裝の女子其衣を脱して椅子の上に架け、絹の靴足袋をぬぎすてむとするの状、宛然ドガ画中の景に似たるものありしが爲ならずや。歸路の自働車代を合算して十五圓を與ふ。一刻の治夢寤むれば痕なしと雖、偶然二十年のむかしを囘想し得たる事を思へば、其價亦廉なるかな。

   12月28日〜櫻川町の女

食後虎の門理髪店に徃き、櫻川町なる女の家に立寄り、歳暮の心附をなし、漫歩江戸見坂を登りて歸宅す。

   12月29日〜櫻川町の女

薄暮櫻川町の女訪來りければ山形ホテル食堂にて晩餐をともにす。滿月の光に夜は晝の如く風なくして暖なり。女の誘ふがまゝに淺草公園に赴く。ペンキ塗の雷門新に出來、仲店は舊の如く新築せられたり。此夜公園内到處人出少くして靜なり。

   12月31日〜櫻川町の女

快晴。寒風午後に至りて歇む。日暮里病院の歸途櫻川町の女を訪ふ。折好く洗場より歸來りしところなり。銀座通除夕の賑ひを見むと、女の勸むるがまゝまづ銀座食堂に入りて飲む。この店の主人はもと麹町山王社内に在りし酒樓星岡茶寮を營みし者なりとか聞けり。震災後舊の如く營業すれど主人は別人なりと云ふ。

(中 略)

倶に爐邊に茶を喫し、雜談する程もなく除夜の鐘聞えはじめしかば、女は予が新春を賀し、再會を約して、獨り明月を踏みて歸れり。予今年六七月の頃より執筆の氣力遽に消磨し、心鬱々として樂しまず。淫蕩懶惰の日を送りて遂に年を越しぬ。この日記にその日その日の醜行をありのまゝに記録せしは、心中慚愧に堪えざるものから、せめて他日のいましめにせむとてなり。

大正15年(1926年)

   1月1日〜雜司ケ谷墓地

晝餔の後、靈南阪下より自働車を買ひ雜司ケ谷墓地に徃きて先考の墓を拜す。墓前の蝋梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。歸路歩みて池袋の驛に抵る。沿道商廛旅館酒肆櫛比するさま市内に異ならず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりと云ふ。

   1月2日〜先考腦溢血にて卒倒〜

先考腦溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の數に入りし叔父大島氏訪ひ來られ、款語して立歸られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、其枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとて兩の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。數日前より狎れ妓八重次を伴ひ箱根塔之澤に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝歸宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、障子細目に引きあけてと云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて歸ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。

   1月8日〜新橋の酒亭〜

新橋の酒亭に登れば、一夕の酒價近時は少くとも三四拾圓を下らざるなり。是戯言にあらず。新橋の地は元來世に時めく者の豪遊する處なれば、十年前思ひのまゝに賣文の錢を獲たりし時と雖、こゝに遊ぶは、予の好まざりし所。況や近時は文士山本菊池里見の徒の豪遊を恣にするを聞くに於てをや。

   1月12日〜女の名はお冨

娘お冨は未の年にて今年三十二なれど二十七八に見ゆ。十八の時或人に嫁し、子まで設けしが不縁となり、其後次第に身を持崩し、果ては自ら好んで私娼となり、築地邊の待合などへ出入する中、大地震の際憲政會の壯士福田某に欺かれ、一年ばかり同棲しゐたりしが、去年の二月頃辛じて其家を逃れ出で、父の許に歸りてゐたりしかど、衣服化ジョ(※「米」+「女」)の費に乏しきまゝ、一時身をおとせし濁江の淵瀬はよく知るものから、再び私娼の周旋宿あちこちと渡り歩く中、行くりなく予と相知るに至りしなり。この女父が豪奢を極めし頃不自由なく生立ちし故、様子氣質ともどもに淺間しき濁江の女とは見えざるも、あながちわが慾目にはあらざるべし。痩立の背はすらりとして柳の如く、眼はぱつちりとして鈴張りしやうなり。鼻筋見事に通りし色白の細面、何となく凄艶なるさま、予が若かりし頃巴里の巷にて折々見たりし女に似たり。先年新富町にて見たりし妓お澄に似て一段品好くしたる面立なり。予の今日まで狎れシタ(※「日」+「匿」)しみし女の中にては、お澄とこのお冨の面ざしほど氣に入りたるはなきぞかし。八重次は美人なりとの噂もありしかど、越後の女なれば江戸風の意氣なるところに乏しく、白鳩銀子は今様の豐艶なる美人なりしかど、肩いかりて姿は肥大に過ぎたるを憾となせり。一昨年震災後、家に召使ひしお榮といふも人々美形なりといひしが、表情に乏しく人形を見るが如き心地したり。然るにお冨は年既に三十を越え、久しく淪落の淵に沈みて、その容色將に衰へむとする風情、不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ予が眼には、ダーム、オー、カメリヤもかくやとばかり思はるゝなり。去年十二月のはじめに初めて逢ひしその日より情交忽膠の如く、こなたより訪はぬ日は必かなたより訪ひ來りて、これと語り合ふべき話もなきに、唯長き冬の夜のふけやすきを恨むさま、宛ら二十前後の戀仲にも似たりと思へば、さすがに心耻しく顔のあからむ心地するなり。人間いくつになりても色慾斷ちかだ(ママ)きものと、つくづくわれながら呆れ果てたり。

   1月13日〜お冨の家に赴く〜

晴れて暖なり。ホ(※「日」+「甫」)時お冨の家に赴き夕餉すませて後倶に銀座を歩む。此夜商舗多くは休業の札を下げて店を閉し、散歩の人影亦稀なり。

   1月14日〜お冨一宿せり〜

薄暮お冨夕餉の肴にとて銀座食堂の折詰を携へて來る。寒氣甚しければお冨予が書齋に一宿せり。

   1月15日〜お冨の家に至る〜

此日曇りしかど風なくて暖なり。お冨と晝餉を食して後その家に至り、夜に入りて歸宅す。

   1月16日〜お冨の家移轉〜

お冨の家櫻川町より江戸見阪下明舟町に移轉せし由。初更の頃行きて訪ふ。

   1月19日〜お冨來て宿す〜

昨夜よりお冨來て宿す。今日は午後に至らば歸るべしとて、晝餉もそこそこに歸りの支度する程に、曇りし空一際暗くなりて、風吹き出で雨降り出しければ、天鵞絨のコート再びぬぎて、其のまゝ此夜も亦わが家に宿しぬ。予女に向ひ生涯心配なきやうにすべければ、此のまゝ永くわが家にとゞまる心はなきやと試に問ひてみたりしに、世話女房になりて水仕事するは女のつとめなれば更に厭ふところにはあらねど、一ツ家に起伏すればいかほど睦しき仲にても、一ト月とはたゝぬ中男の鼻につきて末は邪見にせらるゝものなれば、矢張今の如く別の家にすまひ、互に顔を見る時甘きこと言ふて下さるが何よりも嬉しきかぎりなりといふ。予先日よりつらつらこの女の性質を窺ふに、衣食住の贅澤を欲する心更になく、芝居はむかしの狂言は見てもわからぬ故、さそはれても行きたくはなしと言ひ、又新聞や雜誌などは画を見るばかりにて讀みしことなき由。婦人公論と云ふ雜誌の名も知らず、演藝画報と云ふものゝ世にあるや否やも知らざるなり。是虚栄心と知識慾とに驅らるゝ當世の婦人とは全く別種の女なり。されど好きな男に絶えず愛せられむことを冀ひ、折々はわざと心にもなき我儘なる事など言ひかけて、癡話口説に夜を明すことを無上のたのしみとなす所、まさに佛蘭西戀愛劇のポルト、リツシユが戯曲中の女とも言ふべく、江戸時代の女には見る可からざる性情なるべし。そは兎に角、予はお冨が當世流行の出版物を手にせず、又興行物に對して其善惡に係らず全く無頓着なる所、何よりも嬉しき次第なれば、其の請ふがまゝに月々世話することにしたり。

   1月20日〜お冨を送る〜

風歇み晴れて暖なり。午後お冨を送りて其家に至り、門口にて別れ、氷川神社のあたりより三河臺の邊を歩みて歸る。

   1月21日〜お冨の家にいたる〜

終日執筆。薄暮お冨の家にいたり夕餉を食し、八時頃倶に家に歸り來り蚤く臥床に入る。寒月晝の如し。

   1月22日〜孤眠の清絶〜

正午お冨の歸るを送り、虎の門より三菱銀行に赴き、二時頃家に獨る。書齋睡房を掃除して沐浴すれば、日は忽暮れかゝりぬ。老媼の運來る夕餉を食し、燈下また舊稿をさつて医刪訂す。

(中 略)

予數年前築地移居の頃には、折々鰥居の寂しさに堪えざることありしが、震災の頃よりは年も漸く老來りし故にや、卻て孤眠の清絶なるを喜ぶやうになりぬ。その頃家に蓄へし小星お榮に暇やりしも、孤眠の清絶を喜びしが故に外ならず。

獨居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の樂しみも亦容易に廢すべからず。勉學もおもしろく、放蕩も亦愉快なりとは、さてさて樂しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。蜀山人が擁書漫筆の叙に、清人石(※「厂」+「龍」)天の語を引き、人生に三樂あり、一には讀書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都て是無き處。といひしもことわりなり。

   1月23日〜お冨來る〜

夜初更のころお冨來りて門を敲く。出でゝ問扇を開くに、皎々たる寒月の中に立ちたる阿嬌の風姿、凄絶さながらに嫦娥の下界に來りしが如し。予恍惚殆自失せんとす。

   1月24日〜お冨來る〜

天氣澄霽。午後巖谷生田の二子電話にて歌舞伎座觀劇を促されしかど、お冨來りし故辭したり。ホ(※「日」+「甫」)時銀座に徃きお冨の家にて夕餉を食して歸る。

   1月26日〜お富を携へ銀座を歩む〜

お富を携へ夕餉の後銀座を歩む。

   1月29日〜江戸見阪を下る〜

お富の家にて夕餉をなさむとて黄昏門を出で江戸見阪を下る。明月地を離るゝこと二三尺。暮靄を帶びたる都市の全景眼底に輻輳す。覺えず杖をとゞめて觀望す。夜暖なること治の如し。

   2月1日〜お冨來りて看病す〜

快晴。正午松莚子電話にて晝餉を倶にすべしと言越されしが、腹痛甚しく下痢を催し徃くこと能はず。終日湯婆子を抱いて臥す。夜に至り稍快方に向ひ稍粥一二碗をすゝる。初更お冨來りて看病す。

   2月6日〜お冨と銀座を散歩す〜

夜お冨と銀座を散歩す。

   2月9日〜お冨と銀座に飯す〜

夜お冨と銀座に飯す。

   2月13日〜書店の主人〜

銀座通り惠須喜茂といふ洋風飲食店にてお冨と夕餉を食す。震災前新橋堂書店の在りし處なり。書店の主人野村氏は3階に居住し、階下の店を飲食店に賃貸をなせるなり。雜誌新刊書類を置くよりも遥に収益ありと云ふ。

   2月21日〜お冨と共に歸る〜

日暮江戸見阪下お冨の家に立寄り、數寄屋橋に近き侘蕃(タバン)とよぶ洋食店三一子ひゐきなる由にて、晩餐をなす。料理は附近のライオン又は精新(ママ)軒などより優りたり。銀座を歩み築地に出で、予が徃年舊居のほとりなる狐といふ菓子屋の喫茶室に入りて憩ふ。小山内薫田嶋淳の二氏築地小劇場より來りて笑語する事一時間ばかり。車を倩ひお冨と共に歸る。

   2月27日〜お冨の家に立寄る〜

午後演舞塲に赴き、お冨の家に立寄り夕餉を食して歸る。

   3月8日〜お冨と銀座を歩む〜

午後お冨と銀座を歩み淺草公園に至り金田に餔す。

   3月18日〜お冨來る〜

風寒し。お冨來る。

   3月29日〜お冨來る〜

夜お冨來る。

   5月28日〜百花園

芍薬、うつ木、野薔薇の花今を盛りと咲き亂れたり。園主その祖鞠塢が自画像に文晁抱一の題句せし一舳、蜀山人題歌蠣潭画紅梅一幅。鵬齋の尺簡其他を示す。

   6月16日〜兒嶋惟兼

沼波瓊音氏その近業護法神兒嶋惟兼の一書を惠贈せらる。兒嶋惟兼は徃年大津にて、巡査某觀光の露國皇太子を傷けし時、其事件の判決を擔當したる判事なり。當時吾政府は露國に對して謝罪のため、巡査某を死刑に處せむことを欲せしに、兒嶋判事法律の條文は妄に枉ぐ可からずとて、犯人を無期徒刑に處するの判決をなしたり。沼波氏は兒嶋判事の氣節を景仰し、其詳傳を著したるなり。

   7月12日〜湯島天神

雨。午下に晴る。烏森より高架線にて上野に徃く。秋葉ケ原に停車場あり。之をアキハバラ驛と呼ぶ。鐵道省の役人には田舎漢多しと見えたり。高田の馬場もタカダと濁りて訓む。廣小路より湯島に登り、天神の境内額堂の旁に昔風の休茶屋ありしかば、澀茶を喫し、本郷通の古書肆を見歩き、日暮家に歸る。

   10月24日〜太訝の婢お久

太訝の婢お久來る。年は二十五六なり。もと藥研堀邊に住みし商家の娘にて、十七八の頃株屋に嫁ぎしが不縁となり、其後は處々のカツフヱーを渡り歩き、老母を養へる由、當人の述懐なり。

   10月26日〜お久を家に送る〜

歸途葵山林和の二氏と銀座太訝に飲み、婢お久を四谷の家に送り一茶して歸る。

   10月31日〜お久に逢ふ〜

歸途太訝の婢お久に逢ふ。この日晴れて風寒し。

   11月3日〜お久一宿す〜

此夜氣候順調。風寒からず。銀座通り人出多し。お久來りて一宿す。

   11月5日〜お久お榮お小夜〜

銀座出て太訝に憩ふ。林和成彌在り。婢お久お榮お小夜を拉し汁粉屋梅月に徃き、四谷見附にて三女と別れ、家に歸る。

   11月6日〜秋聲の新夫人〜

日暮葵山人酒館太訝より電話をかけ來りしかば行きて會ふ。巌谷撫象、丸岡某、中村成彌前後して來り會す。徳田秋聲新妻門生等を携へて來るを見る。秋聲子の新夫人はもと画工の竹久夢二の妻にて淫蕩の噂かくれなき美人なり。秋聲子が繼妻を迎へし事は其作れる小説を見れば明なり。二三個月前のことなる。葵山君の語るまゝを記す。

   11月20日〜酒肆(カツフヱー)なるもの〜

夜太訝に飯す。成彌、長十郎、英兒、撫象、葵山の四(ママ)子前後相踵いで來る。夜半酒肆燈を滅し、戸を鎖さむとする時、英兒は婢お葉お糸の二女を拉し、成彌はお小夜を拉し、予はお久を携へ、裏通の汁粉屋梅月に憩ひ、各自好む所の婢を自働車に載せて去る。是この酒肆の婢に戯れ巫山一夜の夢を買はむとする者の好んでなす所なり。抑現今市中に流行する酒肆(カツフヱー)なるものゝ状況を見るに巴里カツフヱーに似て其の實は決して然らざる處、恰吾社會百般の事西洋文明を模倣せんとして到底よくすること能はざるものと相似たり。酒肆の婢は日々通勤すれども、給料を受けず、客の纏頭にて衣食の道を立つ。されば窃に賣色を以て業となすは言ふを俟たざる所なれども、世の風評新聞記者の脅迫を恐れて、容易に醉客の誘ひに應ぜざるが如き態度をなす。歸途手を携へて自働車に乘ることを諾するが如きは、蓋し無二の好遇にして、醉客の竊に喜びとなす所なりと云ふ。

   11月21日〜お久を伴ひて家に歸る〜

晴れて暖なり。夜酒肆太訝に赴見るに近藤經一夫婦、生田葵山、市川小太夫等在り。巌谷撫象、中村成彌亦來る。お久を伴ひて家に歸る。

   11月22日〜正午お久去る〜

よく晴れたり。正午お久去る。

   11月23日〜老婆告げて曰く〜

朝九時過牛乳を煮んとて臺所に降り行きしに、老婆告げて曰く、一昨夜おいでになりし御婦人、今朝六時頃突然おいでになり、七時過までお目覚めになるを待ち居られしが、雨も激しく降り出せしかば自働車を申付けお歸りになりしと。夜太訝に行く。お久に逢ひしが今朝の事は此方より避けて問はず。

   12月2日〜太訝のお久なり〜

夜初更、突然家の中に人の跫音す。室の戸をひらき見るに太訝のお久なり。御女中さんも誰も居ないのと問ふ。余答へて曰く、僕は寐てゐるからわからない。下に誰もゐなければ家には誰も居ないのさと。お久携來りし香橙林檎を切りて薦む。先刻より渇を覺えて堪えがたき折なりしかば、香橙をコツプに入れ、熱湯を注ぎて飲む。汗流れ出で心氣俄に快くなりぬ。お久四谷なる朋輩の家に赴きて一泊すべき約あればとて、三更自働車を命じて去りぬ。

   12月22日〜銀座の情事〜

太訝に登りて見るに、成彌、邦枝、日高等居合せたり。吉井、梅嶋、瀬戸等來る。瀬戸突然予の傍に坐し、怒罵して曰く、足下何ぞ妄にわが情婦お久を奪ひたりやと。言語陋劣聽くに忍びざるものあり。吉井伯來て瀬戸生に代り、其無禮を謝し之を拉し去れり。蓋し婢お久なる者曾て尾張町獅子閣に在りし時より瀬戸と情交あり、又菊池の門生酒井某なる者とも今猶慇懃を通ずといふ。余始之を知らず、既にして知る事を得たれども又如何ともすべからず、遂に今日に及べるなり。省れば瀬戸酒井兩生の怨恨さぞかしと同情に堪えざるなり。此夜お久亂醉し頻に余の家に來り宿せむことを請ひしが、二生の心事を推察し、獨艶福を恣にすることを欲せざれば別れて去る。秋來銀座の情事もとより其場の酔醉に過ぎざれども、その殺風景なること此夜至つて遂に忍可らざるものあるに至れり。嗤ふべく、又歎息すべきなり。寒月皎々たり。

   12月25日〜聖上崩御の公報〜

太訝の婢お慶來る。昨夜深更聖上崩御の公報出で、銀座通の商舗今朝より休業。太訝は夕刻より戸を閉したるにより、お慶邦枝子に逢はむとて來りしなりと云ふ。余昨夜より家を出でず、又新聞を見ざるを以て、こゝに始めて諒闇の事を知る。山形ホテル食堂に到り葡萄酒を汲み晩餐をなす。

   12月28日〜支那賭博麻雀〜

丸岡巖谷の二氏この頃毎夜駿河臺に集り支那賭博麻雀に耽る由なり。近年博奕文士の間に流行す。久米正雄、谷崎潤、里見淳(ママ)菊池寛の輩最之を善くすと云ふ。

   12月30日〜歳暮の祝儀〜

薄暮太訝に徃きて飯す。お久操に歳暮の祝儀を與ふ。

『斷腸亭日乘』A

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