旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地〜ゆかりの女性

『斷腸亭日乘』@AB

本名は壯吉。号は金阜山人、斷腸亭。

 明治12年(1879年)12月3日、永井久一郎と恒(つね)の長男として東京市小石川区金富町(現:文京区春日2丁目)に生れる。金富町に住んだことから「金阜散人」と号した。

 明治24年(1891年)、神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学。

 明治33年(1900年)、巌谷小波が主催していた文学サロン木曜会のメンバーとなる。

 明治35年(1902年)5月、牛込区大久保余丁町(現:新宿区余丁町)に転居。

 明治43年(1910年)2月、森鴎外、上田敏の推薦により、慶應義塾大学文学科教授に就任。

 大正元年(1912年)9月、本郷湯島の材木商斎藤政吉の次女ヨネと結婚。

 大正2年(1913年)1月2日、父永井久一郎(号:禾原)没。雑司ヶ谷墓地に葬られた。

 大正2年(1913年)2月、妻ヨネと離婚。

 大正3年(1914年)、新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍、末弟威三郎は除籍届して分家。

 大正4年(1915年)2月、八重次と離婚。

 大正5年(1916年)3月、胃腸疾患のため、慶應義塾教授を辞任。

 大正5年(1916年)5月、大久保余丁町の本邸に帰り、一室を断腸亭と名づけ起居。

 大正7年(1918年)12月、大久保余丁町の邸宅を売却し、京橋区(現:中央区)築地二丁目に移転。

 大正8年(1919年)6月10日、笠森阿仙碑文を草す。

 大正9年(1920年)5月23日、築地から麻布区(現:港区)市兵衛町の「偏奇館」に移転。

この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに來らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。

 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災

 大正12年(1923年)9月11日、今村お榮偏奇館に帯留する。

 大正11年(1922年)10月4日、永井荷風は吉井勇島原の角屋で飲む。

午後吉井君と島原の角屋に飲む。夜九時半の汽車にて歸京の途につく。此夜月またよし。

 昭和2年(1927年)12月15日、『自傳』

 昭和7年(1932年)2月2日、富賀岡八幡宮の芭蕉句碑の碑文を写し取る。

本殿の傍に發句を刻したる碑三基あり、目にかゝる雲やしはしの渡鳥芭蕉小柴暉雄書文化二乙丑年初秋建之舎雄草風以下俳人の名多く刻したり こゝらにそ鳥居ありたき汐干道七十三翁五明橋石文 などの文字見ゆ、本殿の後に池あり、池のかなたに冨士を築き講中の石碑二三基あり、又淺間神社之碑あり社殿はなし 鳥居前の舊道を半町ほど行けば直に放水路の堤防に至る。

 昭和20年(1945年)3月9日、空襲で「偏奇館」焼亡。

天気快晴、夜半空襲あり、翌曉四時わが偏奇館曉亡す、火は初長垂(なだれ)坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。

 昭和20年(1945年)9月15日、熱海和田浜の杵屋五叟宅に寄寓。

 昭和21年(1946年)1月16日、市川市大字菅野(現:菅野4丁目)の大島一雄方に移り住む。

 昭和34年(1959年)4月30日、死去。雑司ヶ谷霊園に墓碑がある。

   永井荷風先生、逝く。……先生の若き日を語
   れとあり。

ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに

『流寓抄以後』

弘福寺

(東京都墨田区)

芭蕉の句碑

富賀岡八幡宮(東京都江東区)

女木塚

大島稲荷神社(東京都江東区)

笠森阿仙の碑

大円寺(東京都台東区)

永井家の暮域

雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)

鴎外記念館

(東京都文京区)

永井荷風生育地

(東京都文京区)

蓮久寺

(東京都文京区)

偏奇館跡

(東京都港区)

禅林寺

(東京都三鷹市)

弘法寺

(千葉県市川市)

熊野神社

碓氷峠(群馬県安中市)

碓氷峠〜妙義山〜

(長野県北佐久郡軽井沢町)

芭蕉の句碑

軽井沢ショー記念礼拝堂(長野県北佐久郡軽井沢町)

三千院〜往生極楽院〜

(京都府京都市)

知恩院

島原(京都府京都市)

角 屋

島原(京都府京都市)

醍醐寺

(京都府京都市)

月照寺

(兵庫県明石市)

明石城

(兵庫県明石市)

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