旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

昭和2年 ・ 昭和6年 ・ 昭和11年 ・ 昭和16年

昭和2年(1927年)

   4月18日〜銀行の破産〜

此夕號外賣臺灣銀行閉店の事を報ず、三月以來銀行の破産する者甚多し、余が現住せる宅地の所有主は廣部銀行なるが是も六月閉店せるなり、生田葵山君村井銀行へ貯金ある由の處此銀行も既に破産せりと云ふ、

   7月9日〜森先生の墓〜

自働車にてボク(※サンズイ+「墨」)弘福寺に赴き森先生の墓を掃ふ、是日先生の忌日なり、墓前に手向けたる花に大なる名刺さがりてありし故之を見るに慶應義塾大學部教授文化學院教授與謝野寛とあり、先師の恩を忘れず眞心より其墓を拜せむとならば人知れず香華を手向け置くも可なるべし。肩書付の名刺を附け置くは賣名の心去らざるが故なり、老狐の奸策さてもさても惡むべきなり、

   7月24日〜芥川龍之介

歸途電車の中にてたまたま鄰席の乘客東京日々新聞の夕刊紙を携え讀めるを窺ひ見るに、小説家芥川龍之介自殺の記事あり、神經衰弱症に罹り毒藥を服せしと云ふ、行年三十六歳なりと云ふ、余芥川氏とは交無し、曾て震災前新富座の棧敷にて偶然席を同じくせしことあるのみ、さればその爲人は言ふに及ばず自殺の因縁も知ること能はざるなり、余は唯心ひそかに余が三十六七歳の比のことを追想しよくも今日まで無事に生きのびしものよと不可思議なる心地せざるを得ざるなり、

   8月11日〜輕井澤へ〜

高崎を發するに一帶の河流あり、河原廣く水少し、西方の丘阜漸く近く、山腹皆耕されて田圃となれるを見る。鍬圃は既に盡きて稻田となれり。稻葉青々として波の如し、再び河を渡る、石多くして水激す、山も亦迫り來つて風早くも溪谷の涼味を帶びたり、磯部驛を過ぐ、驟雨沛然として灑ぎ來る、既にして雨少しく歇むや天邊忽一奇峰の突起するを見る、妙義山の南角なるべし、列車松井田驛を過るや雨霽れて雲間に妙義山の全景を望み得たり、横川驛を出でゝより(ママ)を通過すること幾囘なるを知らず、漸くにして輕井澤の停車場に着す、雨霏々として歇まず、

   8月18日〜碓氷峠へ〜

食後自働車を買ひ臼(ママ)井峠に登る、町のはづれに溪流あり、橋畔一老樹のもとに古碑あり、馬をさへながむる雪のあした哉 句碑翁 なる文字を見る、橋を渡れば一路羊膓として林間を攀づ、尾崎愕(ママ)堂が莊園の門前を過ぐ、莊園の廣さ六千坪なりと自働車運轉手の語る所なり、山徑を登り行くに休茶屋あり、見晴亭といふ、猶登り行くこと二十分はが(ママ)りにして峠のいたゞきに達す、左の方に熊野權現の古祠あり、華表殿堂古色蒼然たり、皇族下馬の高札を立てたり、禮拜して後尸祝に請うて厄除けの護符を購ふ、祠前細徑を隔てゝ平坦の地あり、見晴の台と稱す、洋人二三名樹下に茶を煮て食事をなせり、臺の上に立ちて眺望するに峰巒重々として眼下に起伏し、鶯の聲遠近に反響す、前方に一帶の連山あり見晴の臺と相對す、連山の後方に當り嶄然たる奇峯其状犬牙の如きもの雲間に出没す、其形よりして妙義山なるを知る、

   8月20日〜輕井澤を出る〜

(※「日」+「甫」)時茶を喫し將にホテルを出發せむとする時、北澤氏新橋の阿嬌こずゑを携へて來る、笑語すること少時にして車來りしかば東京の面會を約して停車場に赴く、熊の平横川の二驛を過る時空晴れて夕陽明かなりしかば、妙義の全景を心のゆくまゝに望み得たり、磯部驛にて全く暮れたり、

   8月24日〜再び輕井澤へ〜

殘暑忍ぶべからず、山中の清凉を思ふこと恰も蕩子の前夜別れたる情婦を思慕するものに似たり、再びスートケースを提げて倉皇として上野停車場に赴くに、圖らずも日活會社の北澤氏愛妓を伴ひて來るに會ふ、同じく苦熱に堪えずして北行すべしと云ふ、倶に失笑して列車に乘る、高崎驛を過る頃炎熱最甚しかりしが、倉加(ママ)を過ぎ松井田驛に抵り近く妙義山を仰ぐや、流汗忽去り嵐氣人をして蘇生の思をなさしむ、余數年前までは痩せ細りし身の、さして苦熱に呻吟することなかりしが、今年に至り遂に世間一般の人の如く避暑をなすに到りぬ、是亦衰老の爲す所なるべし。或は震災後市中の熱閙從前の東京よりも甚しくなれる爲か、是日空澄み渡りて山影の鮮なること三日前歸途につきし日にもまさりたり、當時徃復の途上雲にかくれて見えざりし赤城榛名の諸山も今日はよく望まれたり、鐵道沿線の壟圃には粟熟し稻には花さき赤蜻蜒(ママ)むらがりて飛べり、秋色變轉の速なること驚くべし、

   8月25日〜北澤氏急死〜

ホテルに歸り來るに北澤氏今曉急病遽に發し、土着の醫師を招ぎ注射をなし一時靜穩なりしが、今また醫師が來りて再診中なりとの事に驚きて其室に抵り見るに、面色既に土の如く猶温味はありしかど呼吸は絶えゐたり、聖路加病院の池田國手も來りしかど既に施すべき術なしといふ、妓こずゑ殆爲すべき所を知らず、余百方之を慰撫し先電報を諸方に發す、晩間に至り北澤家の人人次第に集り來り、深夜亡骸を自働車にて運び去れり、この際北澤氏の細君と愛妓との應接稍ともすれば圓滑ならず、居合すもの心を勞すること尠なからず、久米正雄氏日活會社々員某々氏等深更ホテルに到着す、一同遺骸を見送らむとて庭に出るに、細雨霏々、四顧暗澹として滿目の光景太だ愴然たり、

   8月28日〜輕井澤を發す〜

正午輕井澤を發し薄暮歸家、是日殘暑燬くが如し、

   9月4日〜麹町の妓阿歌〜

病床に在り、晩間麹町の妓阿歌病を問ひ來る、

   9月12日〜妓籍を脱す〜

驟雨を太牙樓に避く、歸途窃に阿歌を見る、阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借をなす、

   9月17日〜お歌年二十一〜

夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれりといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時分に身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の惡風にはさして染まざる所あり、新聞雜誌などはあまり讀まず、活動寫眞も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるゝ世帶持の上手なる女の如し、余既に老いたれば今は圍者置くべき必要もさしては無かりしかど、當人頻に藝者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百圓に滿たざる程なるを幸ひ返濟してやりしなり、カツフヱーの女給仕人と藝者とを比較するに藝者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる里由にや同じ泥水家業なれど、兩者の差別は之を譬ふれば新派の壯士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし、

   10月27日〜御行ノ松

上野公園を過ぎ鶯溪より根岸に出で、偶然御行ノ松のもとを過ぐ、松の幹には薦を巻きたり、されど頂上の枝は大方枯れ北の方に伸びたる下枝にわづかばかり葉を留むるのみ、名木瀕死の状見るに忍びず、音無川の流も臭氣甚しき溝となれり、此邊に藝者家待合多く出來たり、

   11月23日〜今上皇帝直訴〜

晴れて風なし、昨日號外を賣る聲聞えし故何事なるやと思ひゐたりしに、過日名古屋にて觀兵式の折×××より徴兵に取られたる一兵卒今上皇帝の馬前に進み出でゝ直訴なせし事變なりといふ、

   12月3日〜印刷の際削除〜

言談の際余何心もなく中央公論正月號のために例の如き随筆をものしたり、その中に幼少の頃小石川の町にて見たりし雪駄直しの事を書き入れたりと語りしに、近藤君の曰く、そは水平社の禍を招ぐやも測りがたければ心したまふべし、現に菊池寛氏はその小説中に穢多といふ語を用ひたりとて壹千圓ゆすり取られしことあり、警察署に訴へ出しかど水平社K龍會その他かくの如き暴力團に對しては警察署も施すべき道なく、金にて濟むことならばそのやうになすがよしと菊池氏へ内談ありし由なりと、倶に酒肆太牙に憩ひ初更別れて壷中庵に抵る、近藤君のはなし心にかゝりし故、早速手紙を認め、過日郵送せし拙稿中雪駄直しにかゝはる文字は印刷の際削除すべき旨島中氏の許に申送りぬ、歸途風歇み半輪の月あきらかなり、

   12月30日〜金色夜叉の眞相〜

曇天微風あり、巖谷小波先生その新著金色夜叉の眞相一巻を送らる。聞く所によれば此書中にはの大橋新太郎の妻お須磨といへるもの、紅葉館の女中をなしゐたりし頃の事審に書しるされど、盖過般博文館版權問題にて先生を訴へし事あり、之がため先生大に憤激して新太郎の私事を訐きしなりと云ふ、

昭和3年(1928年)

   2月13日〜衆議院選擧〜

晩間山形ほてる食堂に徃き食事をなしつゝ卓上の新聞紙を見る、滿紙唯衆議院選擧運動の記事あるのみ、候補者の中には菊池寛妹尾順藏等の名も見えたり、菊池は通俗小説の作者なる事人の知る所、妹尾は三番町の待合蔦の家の亭主にて江戸屋といふ女髪結の情夫なりかくの如き媒瑶を業となす者分を忘れ身を慚ぢず堂々として天下の政治を論ずるに至つては、國家の前途まことに憂ふべきものありといふべし、

   3月17日〜待合蔦の家〜

三番町待合蔦の家の亭主妹尾某なるもの衆議院議員選擧候補に立ち、そのため借金多くなり待合蔦の家を賣物に出す、お歌以前より蔦の家の事を知りゐたりしかばその安登を買受け待合營業したしと言ふ、四五日前よりその相談のためお歌兩三度三番町見番事務所へ徃き今日正午までに是非の返事をなす手筈なり、それ故余が方にては東京海上保險會社の株券を賣り現金の支拂何時にてもでき得るやうに用意したりしが先方賣拂の相談まとまらず一時遂に見合せとなる、お歌落膽すること甚し、

   4月25日〜清洲橋落成〜

是日中洲河岸より深川にわたる新鐵橋既に工事落成せるを見たり。

   7月14日〜山形ホテル

晩間山形ホテル食堂に徃き夕餉をなす、果物を煮たる皿の中に蠅あるを知らず、一口食して後心づきたれど既に如何ともすること能はず。家に歸りウイスキイ二三杯を傾けて纔に不快の思を一掃せしむ、三番町を訪ひ夜半歸宅せしが腹中幸に異變なきが如し、山形ホテル食堂には七八年來晝餉か夕餉か一日の中に必らず赴きて食事をなせしかど、今宵をかぎりに中止すべし、

   8月3日〜電話を移す〜

是日早朝電話局の工夫來りて電話器をはづして去る、過日予が家の電話を三番町なるお歌の許に移すべき手續をなしたればなり、近來書肆雜誌社または見知らぬ人より電話をかけ來ること甚頻繁なり、今日より家内に電話なければ呼鈴の響に午睡の夢を破らるゝ虞もなし、

   10月27日〜演劇博物館

晩間風月堂に飯してして後太牙樓に憩ふ、山内義雄吉井拍の來るに逢ふ、是日午後早稻田演劇博物館開館の式に赴きし歸りなりと云ふ、

昭和4年(1929年)

   4月16日〜××××〜

尾張街角にて偶然××××に逢ふ、震災後一年ばかりの間我家に在りし女なり、金錢の事につき不都合のことありし故暇を遺したるなり、顔色憔悴し衣服も貧し氣に見えたれば此方より避けて知らぬふりにて行過たり、酒館太牙に憩ひ初更家に歸る、枕上文選を讀む、

   5月22日〜文士の堕落〜

予は久しく文壇の人と交遊せざるを以てかくまでに文士の一般に堕落せりとは心つかず、獨り菊池寛山本有三等をのみ下等なる者と思ひ居たりしが、この夜始て予が見解の謬れるを知りぬ、

   6月25日〜沓掛時次郎〜

晴れて風涼し、終日三番町に在り、夜お歌を伴ひ銀座を歩む、三丁目の角に蓄音機を賣る店あり、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く、沓掛時次郎とやらいふ流行唄の由なり、この頃都下到處のカツフヱーを始め山の手邊の色町いづことも云はずこの唄大に流行す。其他はぶの港君戀し東京行進曲などといふ俗謡此の春頃より流行して今に至るも猶すたらず、歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、廣い東京戀故せまいといふが如きものゝみなり、

   12月30日〜佐分利氏自殺〜

午下理髪舗庄司に赴き晝餉を風月堂に食す、卓上の一新聞紙に公使佐分利氏自殺の記事あるを見る、余年十四五の頃一ッ橋尋常中學校にて佐分利氏とは同級なりき、また巴里遊學中偶然カツフヱーにて邂逅せしこともあり、盖二十餘年前の事なり、氏は多年劇職に在り國家の重任を帶び遂に天壽を全くする事能はざりき、是につけて余の身を顧れば多病徒に餘命を貪る、瓦全の歎甚切なるを覺るなり、

昭和5年(1930年)

   1月7日〜斷髪洋裝〜

晩間銀座オリンピア亭に飯す、適花月食堂主人高橋氏小星を携へ來るに逢ひ卓を倶にして語る、小星は舊酒肆太牙の婢、今は土橋の嫦娥(デアナ)とよぶ酒亭を營めるなり、斷髪洋裝なれど肉付豐にてせい高く脚細き故さして醜からず、食後誘はれて溜池の舞踏場に赴く、

   1月9日〜小星の爲人〜

晩間オリンピアに飯して三番町に徃く、圖らず一事件あり、之がために亦圖らず小星の爲人余が今日まで推察せしところとは全く事りたるを知り窃に一驚を喫したり、かの女その容姿は繊細にして、擧動婉順に見ゆれど、内心豪膽にして物に驚かず、天性穎悟敏捷にして頗權謀に富むこと男子に優る所あり、人は見かけによらぬとの諺はあれど余は今日まで斯の如く外見内心の相反したる女子を看たることなかりき、斯の如き女子は不時の病にかゝりて夭死するか或は才氣を恃みて却て生涯を誤るものなるべし、余は何とも知れず恐怖の念胸底に湧起るをおぼえたり、

   1月24日〜三木武吉

歸途牛陵の某亭に到り夕餉を食す、街上處々に衆議院議員選擧候補者の姓名を大書せるを見る、其中に三木武吉菊池寛等の名あり、三木は一昨年収賄罪を以て獄に投ぜられたるもの、今また立つて議員候補者となる、然れども世人之を見て毫も怪しまざるものゝ如し、正義の觀念今や蕩然地を拂ひたりと謂ふ可し、

   2月4日〜小波先生

小波先生自ら還暦を祝し狂詩六十一年行を賦し、之を知人に配布せらる、辭句の妙藝術家を以て自任する當世文士等の到底模し得べきものならず、先生が滑稽の才に富めるは方に蜀山人に比すべし。此日立春なり、

   5月14日〜田山花袋

小説家田山花袋昨十三日病むで歿せしと云ふ、余は田山氏とは殆面識なし、徃年西園寺公の雨聲會招飲の席上にて相見しことありしのみ、

   5月28日〜招魂社

くもりて折々雨ふる、薄暮番街に徃き小星を伴ひ招魂社の庭園を歩む。池のほとりの新聞縱覽所にわかき藝者二人何やら人を待つ様子にて牛乳を飲みゐたり、小星曰くこの新聞縱覽所は久しき前より法政大學の學生と藝者または女學生の出會をなす處なり、縱覽所のかみさんは艶書の取次をなすこともあり、進んで戀の取持をもなすといふ噂もある程なりと、歸路修猷館の門前を過るに立番の憲兵浴衣姿の藝者と語りゐるに逢ふ、東京の公園も追々西洋らしくなるは可笑し、

   8月20日〜我等三人〜

是日谷崎潤氏の書に接す、あまりに可笑しければ次に記す、

拝啓炎暑之候尊堂益御盛榮奉慶賀候、陳者、我等三人此度合議を以て千代ハ潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成、潤一郎娘鮎子ハ母と同居致す可く、素より双方交際の儀は從前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度、何れ相當仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候、敬具、昭和五年八月
谷崎潤一郎
千代
佐藤春夫
永井荷風殿
  尚小生は當分旅行致可く不在中留守宅ハ春夫一家に托し候間
  この旨申し添へ候
谷崎潤一郎

   9月25日〜阿房といふ女〜

夜山兒を訪ひ稻川子と相携へて新宿裏町の景況を視察す、ミハトとやら呼ぶ一酒館に入るに曾て四谷の妓窩にて余を見知りたるもの女給となり居れり、余が築地に僑居せし頃のことなれば正に十年のむかしなり、女給の語るところを聞くに其頃余が家に召使ひたりし阿房といふ女四谷の妓となりゐたりしが數年前鳥目となりつゞいて發狂し、目下駒澤村の瘋癲病院に幽閉せられつゝありと云ふ、

   11月14日〜濱口狙撃〜

晴れて風なし。午下中洲に赴かむとする電車中、乘客の手にする新聞を窺ひ見て、濱口總理大臣狙撃せられしことを知る。今朝九時頃東京驛停車場にて起りしことなりと云ふ。余は暗殺事件の報道せらるゝ時、必袁隨園が詩話中に言へることを思ひ起すなり。

   12月31日〜世の中不景氣〜

今年夏過ぎてより世の中不景氣の聲一層甚しくなり、予が収入も半減の有様となれり、郵船會社の株は無配當となり、東京電燈會社の如きも一株金一圓の配當なり、されど予が健康今年は例になく好き方にて夏の夜を神樂阪の妓家に飲みあかしたることも屡なりき、

昭和6年

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