永井荷風ゆかりの地


永井家の墓域

 大正2年(1913年)1月2日、父永井久一郎(号:禾原)没。雑司ヶ谷墓地に葬られた。

先考腦溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の數に入りし叔父大島氏訪ひ來られ、款語して立歸られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、其枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとて兩の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。數日前より狎れ妓八重次を伴ひ箱根塔之澤に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝歸宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、障子細目に引きあけてと云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて歸ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。

『斷腸亭日乘』(大正15年1月2日)

大正14年(1925年)12月12日、雑司ヶ谷停留場開業。

都電雑司ヶ谷駅下車。

雑司ヶ谷霊園の1−1号7側3番に永井家の墓域がある。

禾原先生墓


永井荷風は父の命日に墓参。蝋梅一株を移植する。

午に至つて空晴る。蝋梅の花を裁り、雜司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。

『斷腸亭日乘』(大正7年1月2日)

階前の蝋梅一株を雜司ヶ谷先考の墓畔に移植す。

『斷腸亭日乘』(大正7年11月15日)

午後雜司谷に徃き先考の墓を拜す。去月賣宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蝋梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。

『斷腸亭日乘』(大正8年1月3日)

正午南鍋町の風月堂にて食事をなし、タキシ自働車を雜司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拜す。去年の忌辰には腹痛みて來るを得ず。一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて來り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保賣宅の際移植したる蝋梅幸にして枯れず花正に盛なり。此の蝋梅のことは既に斷腸亭襍藁の中に識したれば再び言はず。

『斷腸亭日乘』(大正11年1月2日)

晝餔の後、靈南阪下より自働車を買ひ雜司ケ谷墓地に徃きて先考の墓を拜す。墓前の蝋梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。

『斷腸亭日乘』(大正15年1月2日)

車は護國寺西方の雜司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蝋梅馥郁たり、

『斷腸亭日乘』(昭和2年1月2日)

晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拜墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り來りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雜司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拜して後柳北先生の墓前にも香花を手向け、歩みて關口の公園に入る、

『斷腸亭日乘』(昭和3年1月2日)

空隈なく晴れわたりしが夜來の風いよいよ烈しく、寒氣骨に徹す、午前机に向ふ、午下寒風を冒して雜司ケ谷墓地に徃き先考の墓を拜す、墓前の蝋梅今猶枯れず花正に盛なり音羽の通衢電車徃復す、去年の秋開通せしものなるべし、去年此の日お歌を伴ひ拜墓の後關口の公園を歩み、牛込にて夕餉を食して歸りしが、今日は風あまりにも烈しければ柳北八雲先生の墓にも詣でず、

『斷腸亭日乘』(昭和4年1月2日)

蝋梅は、無かった。

昭和34年(1959年)4月30日、永井荷風は79歳で没。

禾原先生墓の右手に永井荷風の墓碑がある。

永井荷風墓


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