旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの女性

中村ふさ

初神樂坂照武の抱、藝名失念せり、大正五年十二月晦日三百圓にて親元身受をなす、一時新富町龜大黒方へあづけ置き大正六年中大久保の家にて召使ひたり、大正七年中四谷花武藏へあづけ置く、大正八年中築地二丁目三十番地の家にて女中代りに召使ひたり、大正九年以後実姉と共に四谷にて中花武藏といふ藝者家をいとなみ居りしがいつの頃にや發狂し松澤病院にて死亡せりと云ふ、余之を聞きしは昭和六年頃なり、實父洋服仕立師、

『斷腸亭日乘』(昭和11年1月30日)

大正7年(1918年)

夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く。

『斷腸亭日乘』(3月2日)

八重次訪來る。少婢お房既に家に在らざるが故なり。

『斷腸亭日乘』(3月22日)

雨晴れしが風歇まず。お房四谷より君花と名乘りて再び左褄取ることになりしとて菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。お房もと牛込照武藏の賤妓なりしが余病來独居甚不便なれば女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いさゝかの借金支払ひやりて、家につれ來りしなり。然る處いろいろ面倒なる事のみ起來りて煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片づきて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ。

『斷腸亭日乘』(3月26日)

大正8年(1919年)

午後四谷に徃き、曾て家に召使ひたるお房を訪ふ。

『斷腸亭日乘』(11月9日)

大正9年(1920年)

この日より再び四谷のお房を召使ふことにす。

『斷腸亭日乘』(1月9日)

お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて來り余の病を看護す。

『斷腸亭日乘』(1月14日)

婢お房病あり。暇を乞ひて四谷の家に歸る。

『斷腸亭日乘』(3月3日)

お房この日また歸り來りしかば伴ひて宮川亭に一酌す。新富座を立見して家に歸る。

『斷腸亭日乘』(3月23日)

午後九穂子來る。少婢お房轉宅の際より手つだひに來りしが此日四谷姉の許に歸る。

『斷腸亭日乘』(6月7日)

大正11年(1922年)

夜四谷に徃きお房に逢ふ。

『斷腸亭日乘』(1月19日)

大正12年(1923年)

水道の水今朝は凍らず。雜誌女性の草藁をつくりし後、四谷の妓家に徃きお房と飲む。

『斷腸亭日乘』(1月5日)

午後四谷のお房來りて書齋寢室を掃除す。夜随筆耳無草を草す。

『斷腸亭日乘』(4月2日)

昭和5年(1930年)

女給の語るところを聞くに其頃余が家に召使ひたりし阿房といふ女四谷の妓となりゐたりしが數年前鳥目となりつゞいて發狂し、目下駒澤村の瘋癲病院に幽閉せられつゝありと云ふ、

『斷腸亭日乘』(9月25日)

昭和12年(1937年)

曇りて暖なること彼岸前後の如し。正午に起き、湯殿の側なる押入にしまひたる古道具の中より飯茶碗南京皿等を取出して洗ふ。此等の食器は大正七八年築地に僑居せしころ使用せしもの、麻布移居の後は下女の破壊せむ事をおそれてしまひ置きしなり。思へばその頃わが六兵衞の茶碗洗ひしお房も既に世になき人とはなれり。

『斷腸亭日乘』(2月24日)

永井荷風ゆかりの女性に戻る

旅のあれこれ文 学に戻る