下 町中央区
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鐵砲洲稲荷神社

東京メトロ日比谷線「八丁堀」駅下車。

南北へ凡そ八町ばかりもあるべし。伝へ云ふ、寛永の頃、井上・稲富等大筒の町見を試みし所なりと。或いはこの出州(です)の形状、その器に似たる故の号なりともいへり。(白石先生の説に、この地は明暦火災後に、桑山伝兵衛某を奉行として、築(つ)き出されしとなり。又ある家珍蔵の旧図に、新出洲と記せり。)今は薪・炭・石などの問屋多く住せり。


鐵砲洲稻荷神社(HP)へ。

京橋地区の生成並鐵砲洲稲荷神社御由緒

 鐵砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鐵砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長17年であり京橋あたりの土地生成が、天文の頃足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。

 遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の承和8年(皇紀1501年・西暦841年)に年来打続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました爲に、港として諸船舶の出入り繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町時代末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって、又新しい海岸へ遷座し奉って八町堀稲荷神社と称しました。

 今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸は東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鉄砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鉄砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。

 此の時代を通じて江戸で消費する米・塩・薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の港へ入ってきました爲に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事・冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝戴されています。

 抑も此の神社は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。

 さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に、力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神礼であります。

鐵砲洲稻荷神社


 鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。

 神社は、寛永元年(1624年)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868年)現在地に移転し、今日に至っています。

 関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935年)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。

 境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。

中央区教育委員会

歸路大伍子と新大橋より川船にて永代橋に至り、越前堀を歩み、鐵砲洲稻荷の境内を過ぎ、明石町にて大伍子と別れ家に歸る。

『斷腸亭日乘』(大正12年6月14日)

鐵砲洲稻荷に賽し、祠前を通る乘合自働車にて銀座に至る。松喜食堂に飯して歸る。

『斷腸亭日乘』(昭和9年6月11日)

 昭和31年(1956年)2月4日、大野伴睦は鉄砲洲稲荷の句会で年男をつとめる。

   二月四日、鐵砲洲稲荷にて“文藝春秋”句會
   の砌、大野万木翁、袍をまとひて年男をつと
   む。

烏帽子きて春寒眉の白きかな

『流寓抄』

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