旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

大正6年 ・ 大正11年

此斷腸亭日記は初大正六年九月十六日より翌七年の春ころまで折々手帳にかき捨て置きしものなりしがやがて二三月のころより改めて日日欠くことなく筆とらむと思定めし時前年の記を第一巻となしこの罫帋本に寫直せしなり以後年と共に巻の數もかさなりて今茲昭和八年の春には十七巻となりぬ。

   かぞへ見る日記の巻や古火桶

五十有五歳 荷風老人書

大正6年(1917年)

   9月20日〜木挽町の陋屋〜

昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石國手の來診を待つ。そもそもこの陋屋は大石君大久保の家までは路遠く徃診しかぬることもある由につき、病勢急變の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は區内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乘らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の舊邸をわが終焉の處にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、來青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、餘生を送らむことを冀ふのみ。

   10月22日〜斷膓亭〜

晴天。風寒し。斷膓亭に瓦斯暖炉を設く。八ツ手の蕾日に日にふくらみ行けど菊は未開かず。龍膽花をつけたり。おかめ笹第六囘に進む。夜執筆の傍火鉢にて林檎を煮る。

   11月29日〜回向院燒亡〜

両三日寒氣強し。樹陰日光に遠きあたり霜柱を見る。今曉向兩國相撲小屋跡菊人形見世物塲より失火。回向院堂宇も尽く燒亡せしと云ふ。西大久保母上の許より昆布佃煮を頂戴したり。

大正7年(1918年)

   1月2日〜先考の墓参〜

曉方雨ふりしと覺しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蝋梅の花を裁り、雑司谷に徃き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。斷膓亭屠蘇の用意なければ倶に牛門の旗亭に徃きて春酒を酌む。されど先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。

   1月24日〜鴎外先生

鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館総長に任ぜられてより而後全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。

   2月24日〜八重次唖々子と飲む〜

新演藝過日市川左團次のために懸賞脚本の募集をなす。此日選評者一同を東仲通鳥屋末廣に招飲す。余も選評者中の一人なれば招れて徃く。歸途新福にて八重次唖々子と飲む。

   3月2日〜少婢お房〜

風あり。春寒料峭たり。終日爐邊に來青閣集を讀む。夜少婢お房を伴ひ物買ひにと四谷に徃く。市ケ谷谷町より津ノ守阪のあたり、貧しき町々も節句の菱餅菓子など灯をともして賣る家多ければ日頃に似ず明く賑かに見えたり。貧しき裏町薄暗き横町に古雛または染色怪しげなる節句の菓子、春寒き夜に曝し出されたるさま何とも知れず哀れふかし。三越樓上又は十軒店の雛市より風情は却て増りたり。

   3月22日〜八重次訪來る〜

風烈しく薄暮雹降り遠雷ひゞく。八重次訪來る。少婢お房既に家に在らざるが故なり。

   3月26日〜再び左褄取る〜

雨晴れしが風歇まず。お房四谷より君花と名乘りて再び左褄取ることになりしとて菓子折に手紙を添へ使の者に持たせ越したり。お房もと牛込照武藏の賤妓なりしが余病來独居甚不便なれば女中代りに召使はむとて、一昨年の暮いさゝかの借金支払ひやりて、家につれ來りしなり。然る處いろいろ面倒なる事のみ起來りて煩しければ暇をやり、良き縁もあらば片づきて身を全うせよと言聞かせ置きしが、矢張浮きたる家業の外さしあたり身の振方つかざりしと見ゆ。

   4月1日〜雜誌花月の発行〜

唖々子及び新福亭主人と胥議して雜誌花月の発行を企つ。

   7月12日〜八重次亦來る〜

中国より京阪地方暴風雨に襲はれし由。其の餘波にや昨日より烈風吹続き、炎天の空熱砂に蔽はる。唖々子花月編輯のため來訪。新橋の妓八重次亦來る。夕刻大雨沛然。風漸く歇む。今朝唖々子第二子出生の由。賀すべし。

   7月13日〜八重次を訪ふ〜

唖々子と倶に八重次を訪ひその家に飲む。八重次余の歸るを送り四谷見附に至り袂を分つ。

   8月25日〜八重次來る。唖々亦來る。〜

八重次來る。唖々亦來る。夜八重次を送りて四谷に至り、別れて歸る。

   11月2日〜雜誌花月廢刊〜

午後唖々子來談。雜誌花月今日まで賣行さして惡しからざる様子なりしが京橋堂精算の結果毎月弐拾圓程損失の由。依つて十二月号を限りとして以後廢刊することに决す。雨烈しく降り出で夜もふけたれば後始末の相談は他日に譲り、唖々子車にて歸る。

   11月11日〜流行性感冒〜

昨夜日本橋倶樂部、會塲吹はらしにて、暖爐の設備なく寒かりし爲、忽風邪ひきしにや、筋骨輕痛を覺ゆ。体温は平熱なれど目下流行性感冒猖獗の折から、用心にしくはなしと夜具敷延べて臥す。

   11月16日〜歐洲戦争休戰〜

歐洲戦争休戰の祝日なり。門前何とはなく人の徃来繁し。猶病床に在り。書を松莚子に寄す。月明前夜の如し。

   12月1日〜荷づくりをなす〜

體温平生に復したれど用心して起き出でず。八重次來りて前日の如く荷づくりをなす。春陽堂店員來り、全集第二巻の原稿を携へ去る。

   12月2日〜唖々子遂に來らず〜

小雨降出して菊花はしほれ、楓は大方散り盡したり。病床を出で座右の文房具几案を取片付く。此の度移轉の事につきては唖々子兼てよりの約束もあり、來つて助力すべき筈なるに、雜誌花月廢刊の後、殘務を放棄して顧みざれば、余いさゝか責る所ありしに、忽之を根に持ち再三手紙にて來訪を請へども遂に來らず。竹田屋主人と巴家老妓の好意によりて纔に荷づくりをなし得たり。唖唖子の無責任なること寧驚くべし。

   12月7日〜八重次を訪ふ〜

宮薗千春方にて鳥邊山のけいこをなし、新橋巴家に八重次を訪ふ。其後風邪の由聞知りたれば見舞に行きしなり。八重次とは去年の春頃より情交全く打絶え、その後は唯懇意にて心置きなき友達といふありさまになれり。この方がお互にさつぱりとしていざござ起らず至極結搆なり。

   12月16日〜妓八重福〜

旅館に在り無聊甚し。午後築地櫻木に至り櫓下の妓八重福を招ぎ、置炬燵に午夢を貪る。

   12月17日〜引越先の家〜

朝の中築地二丁目引越先の家に至り、立退明渡の談判をなす。實は十五日中に引拂ふべき筈なりしになかなか其の様子なき故、余自身にて談判に出かけしなり。然るに其の家の女主人は曾て新橋玉川家の抱末若といひしものにて、予が顔を見知りゐたりしとおぼしく、話はおだやかにまとまり二十日には間違ひなく立退く事を約せり。歸途櫻木にて晩飯を食し、八重福滿佐の二妓、いづれも梅吉の弟子なるを招ぎ、自働車にて淺草の年の市に行き、羽子板を買ふ。

   12月20日〜櫓下の妓〜

十二月二十日。病よからず。夜竹田屋の主人旅亭に來り、明後日舊宅の荷物を築地に移すべき手筈を定む。二更の頃櫓下の妓病を問ひ來る。

   12月21日〜妓八重福〜

頭痛甚しけれど體温平生に復す。正午櫓下の妓八重福明治屋の西洋菓子を携へ再び見舞に來る。いさゝか無聊を慰め得たり。夕方竹田屋主人舊宅荷づくりの歸途、旅宿に來る。晩餐を共にす。

   12月22日〜築地の家〜

築地二丁目路地裏の家漸く空きたる由。竹田屋人足を指揮して家具書筺を運送す。曇りて寒き日なり。午後病を冒して築地の家に徃き、家具を排置す、日暮れて後櫻木にて晩飯を食し、妓八重福を伴ひ旅亭に歸る。此妓無毛美開、閨中欷歔すること頗妙。

   12月25日〜八重福満佐等〜

終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り來れり。路地裏の夜の雪亦風趣なきにあらず。三味線取出して低唱せむとするに皮破れゐたれば、櫻木へ貸りにやりしに、八重福満佐等恰その家に在りて誘ふこと頻なり。寢衣に半纒引きかけ、路地づたひに徃きて一酌す。雪は深更に及んでますます降りしきる。二妓と共に櫻木に一宿す。

   12月30日〜獨居凄涼の生涯〜

三更寢に就かむとする時、八重福また門を敲く。獨居凄涼の生涯も年と共に終りを告ぐるに至らむ歟。是喜ぶべきに似て又悲しむべきなり。

大正8年(1919年)

   1月1日〜櫻木に至る〜

八時頃夕餉をなさむとて櫻木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻に新春の曲を彈ずるものあり。梅吉節付せしものなりと云。余この夜故なきに憂愁禁じがたし。王次回が排愁剰有聴歌処。到得歌又涙零。の一詩を低唱して、三更家に歸る。風雨一過、星斗森然たり。

   1月2日〜八重福宿す〜

曇りてさむし。午頃起出で表通の錢湯に入る。午後墓參に赴かむとせしが、惡寒を覺えし故再び臥す。夕刻灸師来る。夜半八重福春着裾模様のまゝにて來り宿す。余始めて此妓を見たりし時には、唯おとなしやかなる女とのみ、別に心づくところもなかりしが、此夜燈下につくづくその風姿を見るに、眼尻口元どこともなく當年の翁家富枩に似たる處あり。撫肩にて弱々しく見ゆる處凄艶寧富松にまさりたり。早朝八重福歸りし後、枕上頻に舊事を追懐す。睡より覚むれば日既に高し。

   1月3日〜先考の墓を拝す〜

快晴稍暖なり。午後雜司谷に徃き先考の墓を拝す。去月賣宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蝋梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。

   1月4日〜春の來れる心地す〜

八重福との情交日を追ふに從つてますます濃なり。多年孤獨の身邊、俄に春の來れる心地す。

   1月6日〜妓八重福〜

櫓下の妓家増田屋の女房、妓八重福と、浜町の小常磐に飲む。夜櫻木にて哥澤芝きぬに逢ひ梅ごよみを語る。此日暖なり。

   1月8日〜妓八重福〜

春陽堂主人の請ふにまかせ、自ら斷膓亭尺牘を編む。八重福吾家に来り宿すること、正月二日以後毎夜となる。

   1月16日〜妓八重福〜

櫻木の老婆を招ぎ、妓八重福を落籍し、養女の名義になしたき由相談す。余既に餘命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を勞すること尠からず。家はもとより冨めるにはあらねど、亦全く無一物といふにもあらざる故、去歳辯護士何某を訪ひ、遺産處分の事について問ふ處ありしに、戸主死亡後、相續人なき時は親族の中血縁戸主に最近きもの家督をつぐ事となる。若し強ひて之を避けむと欲するなれば、生前に養子か養女を定め置くより外に道なしとの事なり。妓八重福幸に親兄弟なく、性質も至極温和のやうなれば、わが病を介抱せしむるには適当ならむと、數日前よりその相談に取かゝりしなり。櫻木の老媼窃に女の身元をさぐりしに、思ひもかけぬ喰せ物にて、養女どころか、唯藝者として世話するもいかゞと思はるゝ程の女なりといふ。人は見かけによらぬものと一笑して、此の一件はそのまゝ秘密になしたり。

   1月29日〜電話を購ふ〜

鎧橋角内海電話屋より電話を購ふ。余は元来家に電話あることを好まざれど、獨居不便甚しく、且又女中の氣のきゝたるもの無き故、將來は下女も雇はざるつもりにて、遊蕩の金を割きて電話を買ひしなり。肴屋八百屋など日々の用事も、電話にて自ら辨じなば、下女など召使ふには及ばざるべし。兎に角日本現代の生活にては西洋風の獨身生活は甚不便にて行ひがたし。

   3月1日〜兜町仲買〜

春暖にして古綿衣も重たき心地するほどなり。窗を開くに表通の下駄の音夏近き心地す。此日兜町仲買片岡商店に依頼し置きたる株券王子製紙會社壱百株。猪苗代水電會社壹百株を買ふ。盖し余丁町賣宅の金を以てす。

   3月30日〜築地本願寺

築地本願寺の櫻花を觀る。此寺は堂宇新しく境内に樹木少く市内の寺院の中最風致に乏しきものなれば、余は近巷に來り住むと雖、一たびも杖を曳きしことなし。此の日櫻花の咲亂るゝあり、境内の〜光景平日に比すれば幾分の画趣を添へ得たり。

   4月4日〜佃の渡し

夜寒からず。漫歩佃の渡し場に至り河口の夜景を觀る。

   4月7日〜吉井勇君〜

春宵漸く漫歩によし。八丁堀の講釋塲を過るに典山永昌等の看板を見る。木戸錢を拂うて入る。偶然吉井勇君の在るに逢ふ。奇遇と謂ふ可し。

   4月8日〜本願寺門前〜

いつもの如く早朝三味線の撥ふところにして梅吉方へけいこに徃く。道すがら電車通にて一人の躄悠然として竹杖にて其の乗りたる車を押行くを見る。恰も小舟に棹さすが如し。近年街上にてかくの如き乞食を見ること稀なれば、わけもなく物珍しき心地したり。後に心づけは此の日は灌佛にて乞食多く本願寺門前に集り來る時なり。

   4月24日〜笠森阿仙建碑の事〜

某新聞の記者某なる者、先日來屡来りて、笠森阿仙建碑の事を説き、碑文を草せよといふ。本年六月は浮世繪師鈴木春信百五十年忌に當るを以て、谷中の某寺に碑を立て法會を行ひたしとの事なれど、徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して應ぜず。

   5月18日〜錢屋五兵衞

舊友今村次七君金澤より上京。路地裏の寓居に來訪せらる。今村氏の家は錢屋五兵衞とは遠き縁つゞきの由。金澤市外の海岸なる街道筋に一株の古松あり。徃昔錢屋の一族處刑せられし時、五兵衞の三男要藏といへるもの湖水埋立の名前人なりしかば、罪最重く、この街道にて磔刑に處せられたり。其の頃には松多かりしが次第に枯死し、今はわづかに一株を殘すのみ。人々これを錢屋の松と稱へ、金澤名所の一つとはなれり。今村君こゝに石碑を建て、古枩の名の由来を刻して後世に傳へたしと、こまごま語り出されたる後、余に古松の命名と碑文の撰とを需めらる。余はその任に堪えざれば辭したり。

   6月10日〜笠森阿仙碑文

一昨日錦水にて臨風子にすゝめられ、餘儀なく笠森お仙碑文起草の事を約したれば、左の如き拙文を草して郵送す。

  笠森阿仙碑文

女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦繪と吉原なり。笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦繪に面影をとゞめて百五十有餘年、嬌名今に高し。本年都門の粹人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年夏六月滅法鰹のうめい頃荷風小史識。

   7月1日〜平和條約〜

獨逸降伏平和條約調印紀念の祭日なりとやら。工塲銀行皆業を休みたり。路地裏も家毎に國旗を出したり。日比谷辺にて頻に花火を打揚る響聞ゆ。路地の人々皆家を空しくして遊びに出掛けしものと覺しく、四鄰晝の中よりいつに似ず靜にて、涼風の簾を動す音のみ耳立ちて聞ゆ。

   7月21日〜淺草代地河岸〜

淺草代地河岸稻垣にて清元香風会さらひあり。樓上より百本杭を望む水上の景、甚よし。妓両三人と棧橋につなぎたる傳馬船に席を移して飲む。

   8月4日〜谷崎潤一郎

谷崎潤一郎氏来訪。其著近代情癡集の序詞を需めらる。雨漸く晴れしが風吹き出で夜に入りあらし模様となる。

   8月10日〜佃の渡場

晩涼水の如し。明石町佃の渡場に徃きて月を觀る。

   10月6日〜傳通院境内〜

歸途傳通院境内の大黒天に賽す。堂内の賓頭廬尊者を見るに片目かけ損じて涎掛も破れたり。堂宇の床板も朽ちたる處あり。瓦落ちて鳩も少くなりたり。余が少年の頃この大黒天には參詣するもの多く、堂内奉納の額其の他さまざまの供物賑かなりし事を思返せば、今日荒廢のさま久しく見るに忍びざる心地して門を出つ。安藤阪を下り牛天神の石級を登り、樹蔭に少憩す。

   10月9日〜目黒不動

小春の空晴渡りぬ。陋屋の蟄居に堪えず歩みて目黒不動の祠に詣づ。惣門のほとりの掛茶屋に憩ひて境内を眺むるに、山門の彼方一帶の丘岡は日かげになりて、老樹の頂き一際暗し。夕日は掛茶屋の横手なる雜木林の間に低くかゝりて、鋭く斜に山門前の平地を照したり。雜木林の彼方より遥に普請場の物音聞ゆ。近郊の開け行くさまを思ひやりては、瀧の落る音も今は寂しからず。大國家の方よりは藝者の三味線も聞え出しぬ。此の地も角筈十二社境内の如く俗化すること遠きにあらざるべし。

   11月1日〜氷川神社

赤坂氷川町の賣家を見る。其の途次氷川神社の境内を過ぐ。喬木鬱蒼たること芝山内また上野などにまさりたり。市中今尚かくの如き幽邃の地を存するは意外の喜びなり。

   11月9日〜お房を訪ふ〜

春陽堂先日來頻に新著の出版を請ふ。されど築地移居の後筆硯に親しまず。幸にして浮世絵に関する舊稾あるを思出し、取りまとめて江戸藝術論と題し、之を与ふ。午後四谷に徃き、曾て家に召使ひたるお房を訪ふ。

   11月12日〜氷川神社

重て麻布市兵衞町の貸地を検察す。歸途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到處に好し。日暮風漸く寒し。

   12月23日〜森先生

鳩居堂店頭にて図らず森先生に謁す。背廣の洋服に古きマントオをまとひ、口髭半白くなられたり。

大正9年(1920年)

   1月9日〜四谷のお房〜

正月九日。晴天。全集第四巻の原稿を春陽堂に送る。この日より再び四谷のお房を召使ふことにす。

   1月12日〜流行の感冒〜

曇天。午後野圃子來訪。夕餉の後忽然惡寒を覺え寢につく。目下流行の感冒に染みしなるべし。

   1月14日〜お房の姉〜

お房の姉おさくといへるもの、元櫓下の妓にて、今は四谷警察署長何某の世話になり、四谷にて妓家を営める由。泊りがけにて來り余の病を看護す。

   3月23日〜お房歸り來り〜

雲低く空を蔽ひ溽暑六月の如し。午後九穂子來る。お房この日また歸り來りしかば伴ひて宮川亭に一酌す。新富座を立見して家に歸る。

   5月23日〜偏奇館

この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに來らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて偏奇館といふ。

   6月7日〜少婢お房〜

午後九穂子來る。少婢お房轉宅の際より手つだひに來りしが此日四谷姉の許に歸る。晩間九穂子と共に銀座清新軒に至りて飲む。歸途風冷にして星冴えわたりしさま冬夜の如し。

大正10年(1921年)

   8月11日〜有楽座〜

夕餉の後有樂座に徃き、新俳優花柳一座の演劇を看る。久保田萬太郎吉井勇の諸氏に逢ふ。秋風颯颯として殘暑俄に退く。

   9月10日〜有楽座〜

與謝野寛氏雜誌明星の再刊を企つ。是夕四番町の居邸に石井柏亭、高村光太郎、平野萬里、竹友藻風の諸氏及び余を招ぎて胥議す。

   10月2日〜鴎外先生

午後富士見町與謝野氏の家にて雜誌明星編輯相談會あり。森先生も出席せらる。先生余を見て笑つて言ふ。我家の娘供近頃君の小説を讀み江戸趣味に感染せりと。余恐縮して荅ふる所を知らず。

   11月5日〜原首相暗殺〜

道路の談話を聞くに、原首相東京驛にて刺客の爲に害せられしと云ふ。余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず、何等の感動をも催さず。人を殺すものは惡人なり殺さるゝものは不用意なり。

   12月18日〜上野清水堂

上野清水堂の觀世音に賽す。百合子毎月十八日には必参詣する由。何の故なるを知らず。この夜風暖にして公園の樹木霧につゝまれ、月また朦朧。春夜の如し。

大正11年

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