俳 人
加舎白雄
加舎白雄ゆかりの地 ・ 白雄の句碑 ・ 『しら雄句集』
加舎白雄は与謝蕪村とならび称される江戸中期の俳人、文学史上“天明中興の五傑”に数えられている。
人各々好む所あり。蕪村の雄放、暁台の剛健、蘭更の艶冶、白雄の老蒼、蓼太の富麗等、いづれも五家の本領たり、特色たり、取て模範とすべく、以て作家の詩料に資すべし。是れ中興五傑の編ある所以なり。
関東から中部地方に約4,000人の門人を育てた。
長翠、巣兆、道彦、保吉、碩布、春鴻、葛三、虎杖は加舎白雄八弟。
元文3年(1738年)、上田藩の加舎吉亨の二男として江戸深川に生まれる。
加舎白雄ゆかりの加舎家跡
俳人「加舎白雄」は元文3年(1738年)、上田藩の加舎吉亨の二男として江戸深川に生まれました。父と兄は上田藩士でしたが江戸詰が長く、白雄19歳のおり、初めて上田へ移住しました。「加舎白雄ゆかりの加舎家跡」の碑があった場所に屋敷があったと考えられ、現在、碑が建てられているとのことです。
上田市教育委員会文化振興課
明和2年(1765年)、銚子滞在中鳥明に師事、白尾坊昨烏(さくう)と称した。
明和2年(1765年)9月、鳥酔は輕羽法師と雨月と共に常陸へ旅立。
此時松露庵主は昨烏を携へ相中に赴く、金亀山より文通
名月や海士を見送る浪の下
| 烏明
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姥島の捨所よしけふの月
| 昨烏
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明和3年(1766年)2月、白井鳥酔の供をして初めて吹上を訪れ、袋村の医師川鍋千杏の家を訪問。
明和3年(1766年)4月10日、千杏没。
明和3年(1766年)秋、白井鳥酔は加舎白雄を伴い故郷地引村(現長生郡長南町)に墓参。その後、大網・東金・九十九里・横芝から銚子へと行脚。
明和4年(1767年)1月、俳人として初めて信州行脚。上田の小島麦二宅を訪れる。
明和5年(1768年)8月、宮本虎杖は加舎白雄を姨捨山に案内。
明和6年(1769年)8月15日、姨捨山に芭蕉面影塚を建立。記念集『おもかげ集』。
芭蕉翁面影塚
おもかげや姨ひとりなく月の友
明和7年(1770年)、白雄は鴫立庵に滞留。
明和7年(1770年)6月、江戸を去って信州に入り、更級郡八幡の独楽庵で越年。
ふるとしのちの六月、東都の松露庵に作別の辞をのこし、信中にとどまること二百余日、千曲川のとし波あらきはつかあまりになりければ、やわたの里関古衲が独楽庵に春まつかりのやどりを定む。こは田毎のはつ日にたよりあり。
明和8年(1771年)3月、上田の門人岡崎如毛・児玉左十と大輪寺に遊ぶ。
同年、宮本虎杖を伴い北陸行脚に出る。加賀の千代尼、五升菴の蝶夢を訪ねる。
同年7月、『加佐里那止』(しら尾坊著編)。橘中庵麦二序。自跋。
同年秋、白雄は松阪を訪れ、鳥酔の遺跡一葉庵に入る。
明和9年(1772年)白雄は伊勢神宮内宮で新年を迎える。
同年2月、『文くるま』(白雄編)。竹雨舘呉扇序。涵月楼滄波跋。
同年4月、白雄は古慊・如思(斗墨)・呉扇・滄波と共に「南紀紀行」の旅に出る。
同年、松坂から東海道を下り江戸に帰る。「東海紀行」
安永2年(1773年)7月、斗墨、烏光を伴い「奥羽紀行」の旅に出る。
みちのく行脚のころ両足山にて
門に入れば僧遙なり秋の風
安永4年(1775年)4月4日、海晏寺で白井鳥酔七回忌法要を営む。
同年、甲州行脚。「甲峡記行」
安永5年(1775年)、鳥明から破門される。
安永8年(1779年)、『春興帖』(斗墨編)。初めて白雄の号が見える。
安永9年(1780年)、箕田村の桃源庵文郷の許で新春を迎えたようだ。
安永9年(1780年)、日本橋に春秋庵を開く。
春秋庵にうつるの日
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きくのけふ児の出むかふ切戸かな
| | 志ら雄
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はこぶ井水にうめの花おる
| | 栄路
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天明2年(1782年)4月4日、海晏寺に白井鳥酔の墓参。
天明3年(1783年)5月25日、相模の用田(現藤沢市用田)に門人楚雀を訪問し歌仙を巻く。
天明三歳五月廿五日
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俳諧之歌仙
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吹いれし木の葉に琵琶のそら音哉
| 白雄
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茶粥をすゝる埋火のもと
| 楚雀
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同年夏、呉水を伴い相模の真鶴・厚木を訪ねる。
同年7月8日、浅間山大噴火。
同年8月1日、呉水を同伴して小河原雨塘を訪問。
同年10月27日、春秋庵は火災に遭う。
同年11月12日、『春秋稿』(第三篇)。此君序文。
天明4年(1784年)、呉水を伴ない房総行脚。横芝では坂田小堤村(現:横芝光町)の神保家を訪ね鳥酔の懐紙を見ている。
ふところ紙にしるせし真蹟はたとせを経
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て比家に拝す、遺章のことくもとももと
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の庭なるを也、 主人の索に応して、
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天明四年春二月 白雄書
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同年5月、呉水を伴なって伊那の中村伯先を訪れる。
同年、白井、渋川、引間を訪れた折、大久保の金谷里恭宅に数泊している。
同年11月27日、碓花坊也寥は大光寺で没。
みちのくの空たよりなや霜の声
| 白雄
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尺牘寒し図南なる人
| 春鴻
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みだればこ菴にとしの埃見て
| 柴居
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あまくちねづみあとなかりけり
| 古慊
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天明5年(1785年)3月1日、大輪寺で兄吉重一周忌。虎杖菴に滞留。
同年4月4日、海晏寺で白井鳥酔十七回忌法要。
同年、伯先は芭蕉の句碑を建立。加舎白雄書。
天明6年(1786年)1月22日、春秋庵は再び類焼。日本橋馬喰町移転。
同年3月、井上重厚は春秋庵を訪れる。
同年、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。白雄跋。
同年10月16日、塩田冥々は春秋庵を訪れる。
天明8年(1788年)4月1日、蝶夢は白雄を訪ねている。
同年4月9日から1週間、海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要。
常世田長翠、鈴木道彦、宮本虎杖など白雄門下の主だった俳人はすべて参加した。
同年6月26日、呉水を伴って相模に行脚。
同年8月10日、八王子に星布を訪ね、松原庵二世の嗣号を許す。
同年、武州毛呂の碩布亭を訪問。
同年10月12日、美濃口春鴻宅で芭蕉忌を執行。
寛政2年(1790年)3月、兄吉重七周忌に上田へ。虎杖菴を訪れる。
同年、白雄は信州から江戸へ帰る途中、上州坂本で芭蕉の句碑に揮毫。
ひとつ脱てうしろにおひぬ衣かへ
友なる雨石老人、七月七日の夜身まかりけるよし告こしけるに、なみだこぼれて。
寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没。享年54歳。
品川区鮫洲の海晏寺に加舎白雄の墓がある
海晏禅寺
寛政3年(1791年)、常世田長翠は春秋庵を継承。
白雄居士が一周忌に、人々あつまりて追善のはいかいしける日、懐旧のこゝろを
寛政5年(1793年)9月13日、白雄の三回忌に春秋庵社中は白雄の句碑を建立。
いなづまやとゞまるところ人のうへ
寛政5年(1793年)、『しら雄句集』(碩布編)成。
寛政6年(1794年)、長翠は春秋庵を倉田葛三に譲る。
寛政12年(1800年)、『白雄贈答』成立。編者不明。
高浪や象潟ハむしの藻にすだく
文化4年(1807年)、葛三は白雄の十七回忌で鴫立庵に白雄の句碑を建立。記念集『くさかね集』(葛三編)
白雄居士
吹つくし後は草根に秋のかぜ
文化10年(1813年)3月、白雄の二十三回忌に拙堂は白雄の句碑を建立。
人こひし灯ともしごろをさくら散る
天保11年(1840年)9月13日、「夜光」の句碑を建立。
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青柳のすハり佛にけふきけり 夜光
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鐘の声行春よりも行秋ぞ 白雄居士
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白雄の句
明星の幾重わけ入るかすみ哉
海久し来るたひことに春の色
花の山てうちんかりてもとりけり
時雨るゝやうつふせてある昼飯椀
明近し蚊をやく人のひとり言
ゆふ風や骨もくだけず啼ひばり
鳥の子を野水へうツす植女かな
虫の音や月さしいるゝ書の小口
夜の雨はじめ終をしぐれけり
かいきえてまた顕るゝ雪の鹿
鳥の巣の明れは暮る日数かな
稲妻やとゞまる所人のうへ
鐘つきを画にかく花の麓かな
夜の雨はしめ終をしくれけり
月やいづこ姨捨めぐる雲早し
長々と肬(ママ)にかけたり菖蒲賣
いのちあらバ春あらバ花の芳野山
秋こゝに双なき山の露さへよ
山鳥の別るゝ迄を舞雲雀
花の心若葉にとけしけしき哉
花菫たつ日のはやき思ひあり
なかなかと肘にかけたりあやめ売
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