俳 人
与謝蕪村
与謝蕪村ゆかりの地
『蕪村句集』(几菫編)
蕪村の句
早野巴人(夜半亭宋阿)に師事し、俳諧を学ぶ。別号宰鳥、夜半亭二世。
享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれる。
寛保2年(1742年)6月6日、早野巴人は夜半亭にて没。享年67。
寛保2年(1742年)、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕のもとに寄寓。
寛保2年(1742年)秋、奥州旅行の際、酒田を通っている。
寛保3年(1743年)、奥羽行脚、秋田の八郎潟町を訪れる。
享保3年(1743年)、宇都宮の佐藤露鳩の許を訪れて滞在。
延享2年(1745年)1月28日、早見晋我は75歳で没。「北寿老仙を悼む」の詩
延享2年(1745年)10月13日、望月宋屋は奥羽行脚の途次、結城に蕪村を訪ねたが不在。
延享3年(1746年)10月28日、宋屋は奥羽行脚の帰途、再び結城に蕪村を訪ねたが不在。
寛延3年(1750年)、蕪村は関東を引き払い上京。旨原は送別の句を与えている。
宝暦5年(1755年)2月、『夜半亭発句帖』(雁宕編)刊。雁宕序。蕪村跋。
宝暦10年(1760年)、居を三菓軒と号する。蕪村は雲裡坊より九州行脚の同行を勧められたが、断る。
雲裡坊、つくしへ旅だつとて我に
同行をすゝめけるに、えゆかざり
ければ
秋かぜのうごかして行案山子哉
明和3年(1766年)、讃岐に赴き、越年。
明和4年(1767年)、再び讃岐に赴き、越年。
明和5年(1768年)、讃岐を去り、京都へ帰る。
丸亀市の妙法寺に蕪村の句碑がある。
長尻の春をたたせて棕梠の花
明和6年(1769年)1月、『鬼貫句選』(太祇編)、三菓軒蕪村跋。
明和6年(1769年)10月21日、橋本泰里入洛。
明和八年辛卯春三月
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京師に夜半亭を移して、文臺をひ
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らく日
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| 蕪村
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花守の身は弓矢なきかゝし哉
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安永元年(1772年)12月15日、阿誰は62歳で没。
郢月泉のあるじ巴人庵の門に入て、予とちぎり深き人なり。ことし末の冬中の五日、なきひとの数に入ぬときゝて、
耳さむし其もち月の頃留り
| 夜半亭蕪村
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安永3年(1774年)4月、加藤暁台は丈芝を伴って上京。7日、夜半亭興行。
夏四月七日、於夜半亭興行
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長安萬戸子規一聲
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ほとゝきす南さかりに鄙くもり
| 曉臺
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垣のあなたのみしか夜の河
| 蕪村
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草高きあづち平いらにならさせて
| 丈芝
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(※「土」+「朶」)
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人の履たる足駄かるなり
| 几董
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安永3年(1774年)9月、暁台は義仲寺の幻住庵に滞在。蕪村来訪。
三井の山上より三上山を望て
秋寒し藤太が鏑ひゞく時
幻住菴に暁臺が旅寝せしを訪ひて
丸盆の椎にむかしの音聞む
安永5年(1776年)2月、暁台は上京。蕪村を訪ね、伏見・嵯峨に遊ぶ。
暁臺が伏水・嵯峩に遊べるに伴ひて
夜桃林を出てあかつき嵯峩の櫻人
安永6年(1777年)9月、蕪村は金福寺に「芭蕉庵」を再興。芭蕉の碑を建立。
安永7年(1778年)3月9日、蕪村は几董と共に兵庫へ。22日、帰る。
天明3年(1783年)3月23日、加藤暁台は金福寺芭蕉庵で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。
同二十三日四明洞下於金福寺芭蕉庵興行
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追善之俳諧 正式
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花さかり奇特や日々に五里六里
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降ラすて霞む雲の尻兀
| 曉臺
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鳳巾の糸心行迄のはすらん
| 蕪村
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天明3年(1783年)12月25日、68歳で没。
与謝蕪村墓
蕪村老人世にいまそかりける時は、俳諧に其角か
洒落を學ひ、丹青は顧ト之か風流を寫して世に紙
尊かりしも、今は一ッの瓶に其骨をもりて有ける
に
白骨や梅の匂ひはかりのもの
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