俳 人

井上重厚
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重厚の句

京の僧。蝶夢の門人。初号柳巣。姓は別に菅原。

落柿舎ノ重厚杖ヲ曳クコト海内凡ソ五十州余。今ハ粟津義仲寺ニ隠ル。旧ト朝散大夫タリ。弱冠ニシテ風雅ヲ好ミ終ニ俳諧蕉風ニ遊ヒ野−臥 山−伏クヲ厭ハス。月ヲ頭キ花ヲ踏テ俳諧的々ノ教綱ヲ悟ル。


 元文3年(1738年)、京都に生まれる。

 明和7年(1770年)、洛西嵯峨弘源寺跡に落柿舎を再興。落柿舎重厚と称す。



  同年、義仲寺の時雨会に句を奉納している。

 安永元年(1772年)、去来の句碑を建立。



柿主や梢はちかきあらし山

 安永6年(1777年)、諸九尼は重厚と厳島に詣でる。

   今の落柿舎のぬしとゝに、つくしへまか
   りける時、安藝のいつきしまにて

千畳に一畳凉し肱まくら


 安永7年(1778年)の頃、筑紫を行脚。

 安永8年(1779年)、横田柳几は筑紫へ行脚の途上重厚を訪れている。

   筑紫にありて会式を思ふ

時雨会の空はこゝにも西のはて


 安永9年(1780年)2月、木曽を経て江戸に入り蓼太成美らと風交を結ぶ。4月、東海道を行脚して帰洛。

 安永10年(1781年)4月2日、天明に改元。

 天明元年(1781年)6月、江戸の成美を訪れる。

 天明元年(1781年)9月11日、沂風と重厚は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見ている。

九月十一日 曇 粟津義仲寺沂風、嵯峨落柿舎重厚、右両子翁笈拜見来。見せ遣。

『千代倉家日記抄』(学海日記)

 天明2年(1782年)、盛岡を訪れる。

 天明3年(1783年)、春秋庵を訪れる。

   春秋庵に武野行脚のるすをへて

むさし野や菊を心の日やり旅
春鴻

挟山越けんころもとふ月
白雄

冬ちかみしらふの鷹の餌に倦て
重厚

軒なる橿の雨をふくみし
呉水

蒸々と茶莚はこぶ門の朝
柴居

土竜のあげし土をふみふみ
斜月


 天明4年(1784年)頃、『菅の小蓑集』(其両編)刊。重厚序。

 天明6年(1786年)3月、重厚は春秋庵を訪れる。

 天明7年(1787年)、立砂を訪れ、重厚が20年の旅行中に芭蕉の発句を拾い集めた手牌を与えた。

 天明8年(1788年)3月16日、蝶夢は甲府を立ち江戸向かう途中で重厚に会い、重厚も共に江戸へ帰る。

 途中にて重厚入道に逢ふも、不思義に嬉し。川中島の善光寺え入道、志あるよし、和尚に逢ふて、無下に東都へ帰りともなはるゝ。


  同年4月7日、成美蝶夢と隅田川で舟に乗る。

七日、和尚・重厚・其由・麦宇と共に、御蔵前の成美子のいざなひに角田川の船に遊び、饗応。


  同年4月9日から1週間、白雄は海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行った。

  同年、再び盛岡を訪れ、平野平角の別墅梅園に滞在。『其梅』


   既に九年の春秋を經てふた
   たひ岩手の關を」こゆる

鑪山や五月五日の草ふまん


  同年8月16日、夜食房夜来と共に宮古を訪れる。

  同年9月5日、恐山に参る。『奥の紀行』

重厚は夜来と共に松前に渡ったようである。

   重厚入道に隨身して蝦
   夷まつ前にわたるとき

縦横に草鞋ふみけり露時雨
   夜來


 寛政3年(1791年)、秋田の吉川五明を訪れる。

 寛政3年(1791年)7月12日、『はすのくき』(三白編)上梓。

 寛政4年(1792年)、義仲寺に入り無名庵七世となる。

 寛政5年(1793年)、蝶夢の後援で芭蕉百回忌を営む。

 寛政7年(1795年)、立砂は芭蕉百回忌記念に『もとの水』(重厚編)を上梓。

  同年10月12日、『しぐれ会』(寛政7年刊)

 寛政8年(1796年)1月24日、重厚は龍ヶ丘に蝶夢の供養碑を建立。

「蝶夢法師」


 寛政12年(1800年)、去来の句碑建立記念集『いははな集』(支兀編)。重厚序。

  同年4月2日、義仲寺の重厚から一茶に手紙が届く。

三月五日
一すりもの入一通 義仲寺重厚 四月二日とゞく


 寛政年間(1789〜1800)、重厚の後見で群馬県伊勢崎市に芭蕉の句碑を建立。



時鳥招や麥のむらを花

 享和元年(1801年)8月、星布芭蕉句碑建立の記念集『蝶の日かげ』刊。重厚序。

文化元年(1804年)1月18日、67歳で没。

滋賀県大津市の芭蕉道統歴代句碑に重厚の句がある。



八朔やかしこき梅の品定め

天保2年(1831年)11月、桃青霊神社を建立。

副碑に重厚の句が刻まれている。



   歌は出雲八重かき、連歌は甲斐の
   酒折の社、俳諧は筑紫高良山に
   桃青霊神いまして永く風流のみちを
   守護し玉ふ

今よりはぬさともならん枯尾花

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