俳 人
大島蓼太
蓼太の句碑 ・ 蓼太の句 ・ 『蓼太句集』
本名は吉川陽喬、通称は平助。雪中庵三世。雪中庵一世は服部嵐雪。
文学史上“天明中興の五傑”に数えられている。
人各々好む所あり。蕪村の雄放、暁台の剛健、蘭更の艶冶、白雄の老蒼、蓼太の富麗等、いづれも五家の本領たり、特色たり、取て模範とすべく、以て作家の詩料に資すべし。是れ中興五傑の編ある所以なり。
与野(さいたま市)の鈴木荘丹、畔吉村(上尾市)の無礙庵雙杜、江戸の沙羅、富津村の織本花嬌は雪中庵蓼太の弟子である。駿河の松本乙児は渋谷六花門、のち大島蓼太門。
享保3年(1718年)、長野県伊奈郡大島村(飯島本郷村という説もある)に生まれる。
元文5年(1740年)3月3日、二世雪中庵桜井吏登の門下に入る。
寛保2年(1742年)4月13日、奥の細道行脚に出る。10月6日、江戸に戻る。
寛保3年(1743年)、『奥細道拾遺』。
延享3年(1746年)、名古屋の五条坊三逕を訪ねる。
寛延3年(1750年)、33歳の時に三世雪中庵となる。
寛延3年(1750年)、『朝起集』(蓼太編)。吏登斎嵐雪序。
寛延4年(1751年)3月、素丸、宗瑞らと『続五色墨』刊行。
寛延4年(1751年)9月、蓼太は鹿野山に知己の沙門を訪ねる。
宝暦2年(1752年)、房総各地を行脚。
駿河の国に行脚しける比、女の琴
弾けるに対して。
ふきといふも草のまくらや春の月
宝暦5年(1755年)6月25日、吏登没。
宝暦8年(1758年)7月27日、蓼太は吉野行脚の途上千代倉家に泊まっている。
七月廿七日 快晴残暑強 夕方江戸通り塩町、雪中庵蓼太と申点者、推□今夕留ル。夜ニ入猶水、亀章、亀洞、蝶羅、自分一順有。嵐雪翁道統のよし。
七月廿八日 快晴残暑 蓼太昼比迄咄し、一折出来。出立。
『千代倉家日記抄』(常和日記)
宝暦8年(1758年)、吉野行脚の途上半掃菴に也有を訪れる。
宝暦9年(1759年)3月、『桜勧進』(斑象編)石中堂斑象序、雪中庵蓼太跋。
宝暦9年(1759年)、門人眠江に誘われて鹿島詣の旅に出る。『笘のやど』
宝暦9年(1759年)、『菰一重』(既白編)。雪中庵蓼太序。
宝暦9年(1759年)11月、『芭蕉句解』(蓼太著)。
宝暦10年(1760年)2月6日、火事で家を失う。
庚辰の如月六日家を失ひける時
ちり果て火宅を出たり家桜
庚辰の春、家をうしなひて、暫南総吏仙が別荘にありける比。
ことし中夏の頃、洛下湖白菴の主人、つれもありいまはの空にほとゝきすと一章をとゝめて無為に帰る。予は東西の旅にあり、漸神無月の半、柴門に草鞋をほとけは、可因子より告越されし文さえ干あへぬ五月雨の空を今はたおもひ出て
薄墨にいまはの空や初しくれ
| 蓼太
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宝暦13年(1763年)10月、雪中菴蓼太の句碑を建立。
くだけては三千尺や滝の月
宝暦13年(1763年)10月12日、芭蕉翁七十回忌に芭蕉翁俤塚(おもかげづか)を建立。
芭蕉翁俤塚
明和元年(1764年)、『芭蕉翁真蹟集』(桃鏡編)蓼太序
明和2年(1765年)、大島蓼太は仙台を訪れ、嘉定庵を設立。平泉を訪れている。
予は又五月雨の始より松島・平泉にさまよひ、たがひに関山の月を望む。
鈴木荘丹は大島蓼太を船で千住まで送った。
蓼師と周竹叟ミちのくの行を千住に送る舟中吟
夏川やはなれぬ鴛の船二艘
明和2年(1765年)、『蕉門むかし語』(既白編)蓼太・蝶夢序。
明和6年(1769年)5月29日、蝶羅は嵐亭と共に奥羽行脚から江戸に帰る。
松嶋もどりの蝶羅・嵐亭の二風子を賀して
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鶴に身やかりけむ痩ず夏しらず
| 蓼太
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幾松風にかゝる日黒ミ
| 蝶羅
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明和6年(1769年)、『蓼太句集』初編刊行。
明和7年(1770年)、暁台の奥羽行脚を送る。
蓬莱の暁台風子しばらく武江に杖をとゞめ、まつ島の松に吹かれ、象潟の合歓に下臥して、猶帰郷は越後よりと聞ふるものから、
帰る山かゝえて出たり夏衣
| 雪中庵
| 蓼太
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茨のはなに倒れ臥とも
| | 暁台
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明和8年(1771年)、大島蓼太は芭蕉百回忌取越し追善のため、深川要津寺に芭蕉庵を再興。記念集『芭蕉庵再興集』
明和8年(1771年)5月1日、諸九尼は蓼太の催しで隅田川を舟で逍遥する。
明和8年(1771年)5月末、木兎坊風石は江戸に至り雪中庵に滞在。
あさ瓜や市の庵の浅くともと、とゝめ
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られしもこゝろよくて、松島の首途を
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見はやすとて
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風薫る沈香の許香に先やとれ
| 蓼太
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身を萍の流よる時
| 木兎
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六月十日 晴天 江戸宗匠蓼太、今般深川ニ芭蕉庵建立奉納句。