加藤楸邨


『芭蕉全句 上』 ・ 『芭蕉全句 下』

元禄二年

   元日は田毎の日こそ恋しけれ

 「元日はこうして江戸で初日を拝したが、それにつけても去年の秋、更科で見た田毎の日がなつかしく思い出される。今あそこでは田毎に初日がさしているのであろうが、どんなにみごとなことであろう、ひとしお恋しくおもわれることだ」という意。

 一つの旅をおえた安らぎと、新たな旅へのあこがれとの中で、旅中見た仲秋名月をおもいおこしているのである。「元日は」を受けて、普通なら、「田毎の月」とあるべきを「田毎の日」と転じたところに、感動が生かされている。天和三年の「元日や思へばさびし秋の暮」と比較すると、心境の差がはっきりわかる。



   疑ふな潮の花も浦の春

 「この図の夫婦岩には波頭が白く砕け散っているが、これは潮の花であって、この潮の花にまでも二見ヶ浦の新春のめでたさがあふれているというべきである。この潮の花に見られる二見ヶ浦の春のめでたさをゆめ疑うなよ」の意。

 二見ヶ浦をえがいた文台の画賛であるから、実景による発想ではなく、その図柄に想を得たものである。「疑ふな」は人に対する呼びかけであるが、その底に自ら肯くような口調を感じさせ、「疑ふ」・「潮」・「浦」が頭韻をふんで句をなだらかにしている。前年末の「皆拝め二見の注連を年の暮」が参考になる。

 『いつを昔』(元禄三年刊・其角編。「神祇」の部に掲出)・『泊船集』(『いつを昔』と同じ前書)に収める。二種の真蹟二見文台には「ふたみ」と前書し、「元禄二仲春」・「元禄四」とそれぞれ奥書がある・年代は元禄三年以前、文台奥書みより元禄二年。『蕉翁句集』には「二見の図を拝み侍りて」と前書し、下五を「浦のまつ」、年代を三年と誤る。



   あさよさを誰まつ島ぞ片心

 「松島では誰かが自分を待っているとでもいうのであろうか、朝となく夜となく松島をひとり恋しく思いつづけていることだ」とい意。

 松島を恋いあこがれている心を恋にとりなした即興の句である。『桃舐集』の伝える「名所のみ雜の句有りたき事なり」という芭蕉の季をうかがう上でよい参考になろう。なお、雑の句については「歩行ならば杖突坂を落馬かな」参照。

 『桃舐集』(元禄九年刊・長水編)に「翁執心のあまり常に申されしは、名所のみ雜の句有りたき事なり。十七字のうちに季を入れ、歌枕を用ゐていささか心ざしをのべがたし、と鼻紙の端にかかれし句を、むなしく捨てがたく、ここにとどむるなるべし」と付記し、「名所雑」として掲出、付記は路通の伝えたものである。・『泊船集』・『俳諧古今抄』・『蕉翁句集』にも収める。『三冊子』(石馬本)には、中五「誰松しまの」とあり、『桃舐集』と同旨の論を載せる。

 『芭蕉句選』秋之部に「朝寒も誰松しまの」とあるのは誤りであろう。『船中一覧』には「たが松しまぞ」とある。年代は、・『蕉翁句集』に「此の句いつの年ともしらす、旅行前にやと此所に記す」と付記して貞享五年の部に収める。句意を考慮して、元禄二年『奥の細道』の旅に直前と考え、しばらくここに置く。



   紅梅や見ぬ恋作る玉すだれ

 「紅梅の咲いている家に、美しい簾がひっそり垂れていて、中に佳人が奥ゆかしく住んでいそうな気配である。その見えない主に対しtrしきりに心惹かれるものを感ずる」の意。

 「紅梅」・「玉すたれ」の道具だてが、いかにも平安朝的な「見ぬ恋」の雰囲気を醸し出すのに成功している。「粽結ふ片手にはさむ額髪」と童謡、「物語等の句」(去来抄)であり、芭蕉之一面をうかがうに足りる。ただし虚構の恋の情緒であるから、内から盛りあがる迫力には乏しい。謡曲『鸚鵡小町』の「雲の上はありし昔に変らねど見し給だれの内ぞゆかしき」あたりが思い合わされていよう。



   陽炎の我が肩に立つ紙子かな

 「冬のよそおいである陽炎を着たままの肩に、ふと気がつくとゆらゆらと陽炎が立って、早くも春のけはいが感ぜられることだ」という意。

 いち早い春の訪れに驚くとともに、あらためて自己をふりかえっている心である。『雪丸げ』などの前書によって、とう(※「口」+「荅」)山が出府して旅店に居たのを訪れての吟であることが知られるが、単なる属目吟にとどまらず、いわば自省の句として独立させようとしたものであることが、「冬の紙子いまだ着かへず」という前書からわかる。紙子が冬のもので恐らく着古したそれであることを心におくと、意外な発見に驚き、自己をあらためてふりかえっている気持がくみとれよう。殊に中七に据えられた「我が肩に」という把握にはおどろきのみならず、つつましいよろこびのひびきが感ぜられるようだ。それは、「三月節句過ぎ早々、松島の朧月見にと思ひ立ち候。白河・塩釜の桜御羨しかるべく候」(元禄二年二月十五日付桐葉宛書簡)とある。その時期の近きに躍り立つ心でもある。



   鮎の子の白魚送る別哉

 「自分は今心の相通う人々に見送られて江戸を離れようとしている。折しも春の末のことで、この大川では、鮎の子が先に川に入った春の白魚を追ってのぼりはじめたころであるが、そのことがいま何がなし心惹かれて思いやられることだ」という意。

 留別の情が基底になっているので、この比喩がまことに美しく、現代には見られぬおおどかさをもつ。鮎の子に門人を、白魚に自分を託したというようにあらわにとってしまうと、もうこの微妙さはうしなわれてしまうであろう。鮎の子のを送るさまがそのまま今日の別れに匂いあえばよい。やや比喩の感じがあらわで、そこに「位あしく、仕かへ」た理由があったものとおもう。

 『続猿蓑』に「留別」の題下に掲出。『泊船集』(「留別」と前書)・『伊達衣』(常陸下向に江戸を出づる時、送りの人に」と前書)にも収める。『赤冊子草稿』にも見え、「この句、松島旅立の比、送りける人に云ひ出で侍れども、「位あしく、仕かへ侍ると直に聞えし句なり」と注記する。『奥の細道』に洩れた句としてその「仕かへ」た句というのが、次句の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」であろう。『蕉翁句集』も元禄二年の部に収める。『伊達衣』の前書は杜撰である。



   糸遊に結びつきたる煙かな

 「野にはいちめんに陽炎がゆらゆらと立騰っている。この室の八島の、あの古歌に名高い煙も、さかんなこの陽炎に結びついて立ちのぼっているのであろう」との意。

 陽炎がゆらめくさまは、何か白昼の幻想を誘う趣がある。発想の契機は、陽炎を目にした刹那に古歌の「煙」が思われ、それが現実の陽炎に入り交るような眩暈を覚えつつ、これを「結びつきたる」と表現したものであろう。『奥の細道』から省かれたのは、恐らく「結びつきたる煙かな」が理にかたむき、かわいているところが不満だったのではないかとおもう。

 『曾良書留』に、以下「あなたふと」「入かかる」「鐘つかぬ」「入逢の」を並記。『随行日記』によれば、三月二十九日の作。



   鐘つかぬ里は何をか春の暮

 「春の夕暮のものうく愁を覚えさせる気分は、心に何か支えになるものを求めさせるものである。鐘さえ搗かぬこの里人は何をたよりにしていることか」と思いやった意である。

 芭蕉もまず入相の鐘をきき、それを憂い心のよりどころにしたかったのであろう。

 『奥細道拾遺』『雪丸げ』にもある。次句の別案か。前句と同じく、元禄二年三月末、室の八島あたりでの作。



   入相の鐘も聞こえず春の暮

 「春の暮の何もかもがものうく、たよりない田舎の風物の中に身を置いて、ひそかに入相の鐘を心待ちにしているのだが、当然鳴るはずのその鐘さえ聞こえず、ものうさがいやますことだ」という意。

 前作の別案定稿であろう。『曾良書留』の記載ぶりから考えると、まず「入りかかる日も糸遊の名残かな」が生まれ、その入り日の気分を生かそうとして、「程々に春の暮」と一度は改めたが、それには満足できず、初案のままを生かすことにした上で、別に「春の暮」の句として、前句「鐘つかぬ」を案じ出し、さらにそれを推敲再案する彷徨で、この「入相の鐘」が生まれるという発想過程をたどったものであろう。

 『曾良書留』・『奥細道拾遺』『雪丸げ』『茂々代草』・『祖翁消息写』(以上二書、高久青楓所持の真蹟により、真蹟懐紙と同じ前書)、秣負ふ人を枝折の夏野かな

 「広々とした那須野のこととてどこを道ともさだめがたい。はるかに秣を負うて帰る草刈男が見えるが、それを目じるしとして道を辿って行くことだ」の意。

 秣負う人を枝折とするというのは、道のわからぬたよりない不安もあるが、それだけではなく、そう感ずることに自ら興じているものとして味わう方がおもしろかろう。「馬草刈る」の形だと一か所に止っている感じだが、「秣負ふ」だと動いていることになり、一層距離感も出るようである。

 『蕉翁文集』(『蕉翁句集』に上五「馬草刈る」とある旨注記)・『芭蕉句選』にも右前文とともに収める。『陸奥鵆』(元禄十年跋・桃隣編)・『曾良書留』(「奈須余瀬、翠桃を尋ねて」と前書)・『雪丸げ』(「奈須余瀬桃亭を尋ねて」と前書)に歌仙として掲出。『菅菰抄』付録(「『奈須黒羽桃翆(ママ)亭を尋ねて』、一本には『那須野にて』とあり」、と前書)・『乞食嚢』には第三までを収める。脇は「青き覆盆子をこぼす椎の葉―翠桃」。句は『泊船集』(「詞書略之」と前書)、『蕉門録』(晋流所持真蹟により掲出)・『芭蕉桃青翁御正伝記』にも収める。『赤冊子草稿』・『蕉翁句集』(「那須にて」と前書)には上五を「馬草刈る」とし、前者に「此の句、『奥の細道』になし。猿雖方へ松島旅よりの文通に、『那須にて人をとぶらふ』と書きて此の句有り。かの『細道』に云へる羽黒(ママ)の館代浄法寺何某の事か」と注記がある。「馬草刈る」が初案、「秣負ふ」が決定稿であろう。『奥の細道』の旅での作。『随行日記』によれば、翠桃訪問は四月三日。



   山も庭も動き入るるや夏座敷

 「秋鴉主人の開け放した夏座敷に坐して山や前庭の佳景に対していると、山も庭も青々としてそよぎ、さながらこの座敷に入り込み、溢れ込んでくるような感じがする」という意。

 山も青く庭も青い。満目生動してその生気が身近に迫ってくる感じを的確にとらえ、秋鴉への挨拶としたものである。「山も庭も動き入る也」が誤記されたものではないかという説もあるが、その形では、この流動的・直接的な感動の気息が失われてしまう。『曾良書留』の「山も庭に」の形だと、山がいわゆる借景となって、眼前の庭園に一脈の生動感を与えているという意になり、意味は通じやすくなるが、「山も」の「も」が十分に生きず、また「庭」と「夏座敷」が二元的に分裂して、言いとめた気息が乏しくなる。おそらく『書留』の形が初案で、後「山も庭も」に改めたものと見てよいであろう。『曾良書留』には、句の後に、芭蕉作と認められる次の文があり、」この句を理解する上で参考となる。

 浄法寺図書何某は、那須の郡黒羽の御館をものし預り侍りて、其の私の住みける方もつきづきしういやしからず。地は山の頂にささへて、亭は東南の(ママ)(注、「の」は「に」の誤写か)向かひて立り。奇峰乱山かたちを争ひ、一髪寸碧絵に描きたるやうになん。水の音・鳥の声、松・杉の翠も濃(こま)やかに、美景巧みを尽くす。造化の功の大いなる事、また楽しからずや。

 『雪丸げ』(曾良遺編)・『奥細道拾遺』(「秋鴉亭にて」と前書)に収める。『曾良書留』には『雪丸げ』と同じ前書を付し、上五「山も庭に」とあり、作者名を欠く。『随行日記』によれば、元禄二年四月四日の作か。



   田や麦や中にも夏の時鳥

 「この黒羽は、白河の関にも近いあたりのこととて、秋風の趣を味わいたい。しかし、今は折悪しく季節のあわれを感じさせるものも乏しい四月のはじめで、早苗は緑に麦はあからみ、百姓の辛苦に満ちた労働がもっぱら目近に眺められるだけである。そうした中にあって、いかにも夏のあわれを感じさせるものとして時鳥の声を耳にすることができたことだ」の意。

 意余って詞足らずという点があり、前文を読まないと「田や麦が夏らしい風物として目に入るが、特に時鳥の声に夏らしさが感じとれる」という解になるのが自然であり、その点十分熟した作とはいえない。なお前文も文脈の乱れが感ぜられるふしがあり、あるいは未完稿のままで終った作品かもしれない。

 『曾良書留』に次の前文を付して掲出。末尾に「元禄二孟夏七日」と奥書がある。「白河の関やいづことおもふにも、先づ、秋風の心に動きて、苗緑に麦あからみて、粒々に辛きめをする賎がしわざも目に近く、すべて春秋のあはれ、月雪のながめより、この時はやや卯月のはじめになん侍れば、百景一つをだに見(る)ことあたはず。ただ声をのみて筆を捨つるのみなりけらし」

 『雪丸げ』にも収め、下五「夏のほとゝきす」と表記する。『茂々代草』(右は桃雪亭にての吟也)と付記)・『安達太郎根』(浄法寺家に真蹟を蔵する旨付記)には「麦や田や中にも夏はほととぎす」の形を伝える。初案か。『奥細道拾遺』『一葉集』(仙台にて)と前書)は下五「市の時鳥」と誤る。『曾良書留』によって、元禄二年四月七日の作であることが明らかである。



   鶴鳴くや其の声に芭蕉破れぬべし

 「芭蕉のほとりに鶴が描かれてある。この鶴はめったに鳴くことがない。しかし一度鳴くとその声に天下振動すといわれているのであるから、この芭蕉の美しく整った葉も一挙に破れ去ってしまうにちがいない」という意。

 眼前の絵をみつめているうちに、おのずから気力充溢して奔放な想像をめぐらしたという趣がある。

 「鶴鳴くや」は、『墨子』の「鶴雖時夜而鳴、天下振動」ということばや、俗に「鶴の一声」などといわれることばを心に置いていよう。「鶴唳」の語は、鶴の鳴声の凄鋭、清明であることをいう語で、この句でも鶴の声をそういうものとしてとらえて発想している。芭蕉と蔓とをとりあわせた画題に対して、前者の「風雨に破れ易きを愛するのみ」と、後年「芭蕉を移す詞」の中で述べたごとき風情と、後者の高貴な品格とを、共に生かして一句にまとめたものである。『野ざらし紀行』の「梅白し昨日や鶴を盗まれし」という挨拶吟の発想なども参考になろう。

 『曾良書留』に光明寺での作の後に、「サン(賛)」と頭書し、「翁」作として掲出。『雪丸げ』『芭蕉翁句解参考』(両書「鶴の賛」と前書)には中七「其声芭蕉」とあり、曾良の作とするが、『曾良書留』の記載に従うべきものであろう。『書留』の記載順序より見て、黒羽での作。したがって、四月十日から十五日ごろまでの間。『奥細道拾遺』(「鶴の絵賛」と前書)は『雪丸げ』の形で芭蕉作として収める。



   湯をむすぶ誓も同じ石清水

 「那須は温泉であるから、噴出する湯を掬んで、温泉神社に参詣する。ここには八幡宮も合祀されていて、京の男山であれば、山の下の石清水を掬んで祈願を籠めるのであるが、湯を掬んで温泉大明神に祈願することが、そのまま八幡宮に祈願することになり、霊験あらたかなことだ」という意。

 発想契機は『曾良随行日記』の前書に明確なように、温泉神社に八幡宮が合祀されていたことに感を発したものである。『奥の細道』黒羽の条には、「それより八幡宮(注、金丸八幡宮那須神社)に詣づ。与一扇の的を射し時、「別しては我が国の氏神正八まん」と誓ひしも、この神社にて侍ると聞けば、感応殊にしきりに覚えらる」とあり、「誓も同じ」には、那須与一のおもかげがこめられているかも知れない。なお『平家物語』(流布本)には、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現・宇都の宮・那須の温泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させてたばせ給へ。……」とある。「湯」と「清水」の対応、「むすぶ」の掛詞等、極めてこみ入った技巧をとり入れているが、句としては燃焼度の低いものというほかはない。

 『曾良随行日記』に「温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉リテ雨(注、「両」の誤記)神一方ニ拝マレサセ玉フヲ」と前書して掲出。『雪丸げ』・『菅菰集』・付録にも、ほぼ同文の前書を付して収める。『陸奥鵆』(「那須温泉」と前書)。『泊船集』『蕉翁句集』(以上二書「那須の温泉」と前書)などにもある。『曾良随行日記』によれば、四月十九日の作。



   掬ぶよりはや歯にひびく泉かな

 「泉のきれいな水を飲もうとして手ですくいあげてみると、口に含まないうちからもうその冷たさが歯にひびいてくるように感じられることだ」という意。

 素直な感覚を生かした作で、「掬ぶよりはや歯にひびく」という把握はなかなか微妙なものがある。

 『都曲』(元禄三年二月跋・言水編)にある。『芭蕉桃青翁御正伝記』には、『曾良随行日記』にもとづき、那須湯本の条に掲出するが、曾良自筆の『奥の細道』関係資料には見えないので、疑問は残る。『一葉集』に下五「しみづかな」とある。『都曲』の刊年より見て、元禄二年夏またはそれ以前の作。しばらくここに置く。



   早苗にも我が色黒き日数かな

 「自分はいま白河の関に達した。まだ秋風には早い早苗のころであるが、すでに顔はすっかり日焼けして黒くなってしまった。それにつけても、江戸を出てからの日数が今ははるかなものに思われることだ」の意。

 眼前の現実である「早苗」によって、能因の故事があらためてふりかえられているのである。「早苗にも」の「も」は、そうした心を負って微妙な味わいをただよわせている。「我が色黒き」は、『古今著聞集』の能因の故事のことばをそのままかり来ったものであろう。同書には、「能因は、いたれるすきものにてありければ、『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』とよめるを、都にありながら、此の歌をいださむ事念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠り居て、色黒く日に当たりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける」とある。

 いよいよみちのくに第一歩を踏み入れようとして、偽りの旅ならぬ実の旅にやつれはてるであろう己が身をつくづくとふりかえっている芭蕉の目が感じられるが、なお『古今著聞集』からの知識にすがっている点が際立ちすぎている。そこを純化してやがて「西か東か」の改案が生まれてくるのである。

 『泊船集』『蕉翁句集』(以上二書「奥州今の白河に出づる」と前書)・『雪丸げ』・『菅菰抄』付録等にも収める。「西か東か先づ早苗にも風の音」の初案。同句参照。『曾良随行日記』によれば、四月二十日の作か。



   西か東か先づ早苗にも風の音

 「今自分は古の白河の関を越えつつあるが、折しも早苗のころで、その早苗にも吹き渡る風の音が聞かれる。その風は西風か東風か知らないけれど、自分はまず風の音を聞きえたことをよろこびとし、ひとしお能因の秋風の歌の世界をなつかしく思いやることだ」の意。

 『奥の細道』の白河の条には「中にも此の関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なほあはれなり」とあるが、その「秋風を耳に残」す心が、眼前の早苗に結集して一句となったものである。初案の「早苗にも我が色黒き日数かな」が能因の故事にすがった表現であるのに対し、この句では、純粋に能因の歌の世界そのものに深まろうとする発想になっている。

 『奥細道拾遺』・『蕉門録』(「白川の関を越すとて古道にかかりて」と前書)・『雪丸げ』(「白川関」と前書)などにもある。『菅菰集』付録は前書を「奥州白坂にて」とあるべきだとするが、須賀川よりの何云宛真蹟書簡(元禄二年四月下旬)に「白川(の)愚句『色黒き』といふ句、乍単(注、等躬。『荵摺』編者)より申し参り候よし、かく申し直し候として記載し。『曾良書留』(白河関)と前書」にも「『我色黒き』と(ママ)句をかく被直候として掲出するので、白河ので」「早苗にも」を改案したものであることが明らかである。同句参照。四月二十五,六日ごろまでの改案と思われる。



   関守の宿を水鶏に問はうもの

 「白河の関を過ぎる際、よく存じ」あげないままにお訪ねもしないでしまって口惜しい次第です。あの時、丁度あたりで鳴いていた水鶏に関守ともいうべきあなたのお宿を尋ね、その戸をたたいてお訪ねして、あなたの風雅に接すべきでしたのに、いまさら残念に思われてなりません」の意。

 何云に対する挨拶の句である。挨拶の吟としての一種の軽みは出ているが、「水鶏」は人を尋ねる縁でもち込まれたものであるため、実感に乏しい。

 何云宛真蹟書簡に「白河の風雅聞きもらしたり。いと残多かりければ、須賀川の旅店より申しつかはし侍る」として掲出。『曾良書留』(「白河、何云へ」と前書)・『伊達衣』(「白河に住む何云へ文をつかはすはしに」と前書)・『奥細道拾遺』・『蕉門録』(「白川何某へ文遣すはしに」と前書)・『菅菰集』付録(「白河の関」と前書)にも収める。『雪丸げ』には下五「「問ふものを」とある。のは誤りであろう。前書に示す成立事情よりみて、元禄二年四月須賀川での作。



   五月雨は滝降り埋む水嵩かな

 「五月雨は凄じい勢で降っている。こう降ったのでは、水嵩が増して、見たいと思っているあの石河のの滝を降り埋め、滝の姿を消し去っていることであろう」の意。

 「五月雨は」の「は」は、俳句独特の用法ともいうべきもので、眼前の五月雨のすさまじさが、そのまま、まだ見ぬ滝のさまに結びついていった表現である。「の」とか「に」とかでは、この感じが生きてこない。「降り埋む」も思いきった大ぶりな表現で、細かい描写を事とする現今の俳句には跡を絶った手法である。五月雨でせっかくの滝見物ができず残念でならない気持を、何とかして自らに言いきかせ納得させて静めようとしている口吻さえ味わい取ることができる。なお、この句は滝見物を断念した時点での作であるが、須賀川を出発した四月二十九日には滝を見物することができた。

 『荵摺』の前書「増」の字脱落、ほとんど同文の前書をもつ『曾良書留』・『蕉門録』によって補った。『雪丸げ』には句のあとに「案内せんといはれし等雲と云ふ人のかたへ書きてやられし。薬師也」と付記がある。句は右のほか、『奥細道拾遺』・『雪丸げ』・『一葉集』(『阿武隈の水源にて』と前書)にも収める。上五、『安達太郎根』に「五月雨に」、『青かげ』に「五月雨の」と誤る。『曾良随行日記』記載の状況よりみて元禄二年二十五、六日前後の作であろう。



   五月乙女に仕方望まんしのぶ摺り

 「しのぶ摺りの石も雑草に埋もれ、古歌に名高いしのぶ摺りも今は摺る人とてなくすたれてしまったが、信夫の里のあの早乙女たちに特に所望して、ゆかしいしのぶ摺りの摺方を見せて貰おう」の意。

 次句の初案と考えられる。「仕方望まん」というのは、一種の俳諧的な興じ方であるが、心が露出しすぎていて味わいに乏しい。「風流の昔に衰ふる事、本意なくて」という気持が、深みをもって流露するには至っていない。やがて改案をせまられたゆえんである。

 『曾良書留』に「加衛門加之ニ遣ス」と注記、句は『奥細道拾遺』『雪丸げ』・『類題名歌発句集』(「山口にて」と前書)にも収める。『奥の細道』の旅の途次における作。



   行く末は誰が肌触れむ紅粉の花

 「眼の前に紅粉の花があざやかに咲いている。紅粉の花はやがて紅絹(もみ)の染料となり、口紅となるもの、行く末はどんな美しい人の肌に触れることであろうか」とおもいやる意。

 「誰が肌」はもちろん女人の肌を意味しているのであって、人の心を擽るような柔軟感がある。女人を連想させるだけでなく、白い肌、身に着けた衣装、などのような官能的なものまで感じさせる。この句は頗る人口に膾炙したものであったが、本來の価値よりも、表現のもつ雰囲気の故に愛されたものといえよう。『源氏物語』の「末摘花」の、「なつかしさを色ともなしになににこのすゑつむ花を袖にふれけむ」あたりを心においているのではないかと思う。

 『西華集』(元禄十二年刊・支考編)に「此の句はいかなる時の作にかあらん。翁の句なるよし、人の伝へ申されしが、題しらず」と付記して収める。『一葉集』には「清風亭二句」として、扱い、元禄二年五月の作とみる。



   水の奥氷室尋ぬる柳かな

 「ここの柳かげを清らかな水が流れていて、まことに涼しい。清冽な水の流れ来る源に、さだめし氷室でもあるのだろう、何となく訪れてみたい気がしてくる」というほどの意。

 大石田から出羽の最上の庄、つまり新庄に出て、そこの風流の宅で詠じたもので、主人風流に対する挨拶の意を含んだものである。

 「氷室尋ぬる」は、眼前の流れがきわめて整列だったので、この源に氷室でもあるのだろうと創造し、さらに一ひねりして、「尋ぬる」(尋ねてゆく)と仮構したもの。謡曲の「氷室」を心においた発想か。謡曲の「氷室」は亀山の院に仕える臣下が丹後の氷室に着き。氷室守に逢って氷室の謂れを問尋ね氷調(ひつき)の祭を見て行るという構成である。芭蕉は風流を由緒ある氷室守と見立て、氷室についてのいわれを問う体に擬えて、謡曲的駆虫を生かして発想したもので、それが風流への挨拶になっているのである。

 『曾良書留』『雪丸げ』(「風流亭」と前書)・『奥細道菅菰集』付録(同じく「風流亭」と前書)・『乞食嚢』に、この句を発句とする三つ物を掲出。脇は「昼顔かかる橋のふせ芝―風流」。『奥細道拾遺』に発句のみ収める。『随行日記』によれば、風流亭には元禄二年六月一日訪れ、一泊した。

 『曾良書留』その他には、「御尋に我宿せばし破れ蚊帳―風流、はじめてかをる風の薰物(たきもの)―芭蕉」にはじまる歌仙も掲出する。



   風の香も南に近し最上川

 「ここにいると、いかにも初夏の南風らしく、かぐわしくさわやかに風が吹きわたってくるが、これは南に近く雄大な最上川が流れていて、その流れを越えてきた南風であるからであろう」との意。>

 盛信の家居の涼しげな風情を褒めたたえる挨拶の心をふくめている。

 「風の香も南に近し」は、後掲の『増山井』などにも引く『古文真宝』前集の「薫風自南至」あたりを念頭において「風の香も」と発想したものであろう。「南に近し」は、「風の香も」をうけ、また「最上川」にかかり、上下に働いた据え方である。>

 『曾良書留』『雪丸げ』(「盛信亭」と前書)・『奥細道菅菰集』付録(「新庄盛信亭にて」)と前書)・『奥の枝折』にこの句を発句とする三つ物を掲出、脇は「小家の軒を洗ふ夕立―息柳風」。『随行日記』によれば、元禄二年六月二日の作。



   其の魂や羽黒にかへす法の月

 「この仏法の真如の月は、その神秘な法の力で、遠流の地にねむる天宥法印の亡き魂をこの羽黒の山に再び呼び戻すことであろう」との意。

 「法の月」は、天宥の冤罪を解いて清澄ならしめる力があるものとして生かされているのである。『泊船集』『蕉翁句集』などの伝える「その玉や羽黒にかへせ」という形だと、法の月に向かって亡き魂をこの山に呼びかえすように呼びかける発想になる。はげしい熱情がよく出たもので、あるいはこれが後案かともいわれているのももっともであると考えられる。なお、「無玉」を「其玉」と改めたのは、追悼文の勢いをここに生かしたものであろう。

 真蹟懐紙。『三山雅集』・『蕉門録』・『南谷集』・『道しるべ集』に、天宥法印追悼の文末に掲出、『蕉門録』にはその文に「羽黒山別当修行追悼」と題がある。『南谷集』・『道しるべ集』に真蹟懐紙を模刻。真蹟懐紙に上五「無玉や」の「無」を見せ消ちにして、「其玉や」と改め、最後に「元禄二年季夏」とある。『蕉門録』には「「元禄二秋」とあるが誤り。『泊船集』({悼遠流の天宥法印}と前書)・『蕉翁句集』(「悼遠流の天看(ママ)法印」と前書)には「その玉を羽黒にかへせ」、『蕉翁句選』(「悼遠流の天宥法印」と前書)には「その玉を羽黒へかへせ」とある。『随行日記』に記されている動静よりして、元禄二年六月四日前後の作。



   めづらしや山を出羽の初茄子

 「今まで山地ばかり通って来たので目にしなかったが、山を出るとすぐ、この初茄子を食膳に見ることが出来た。これはまことに珍しい」という意。

 重行に対する挨拶の句である。食膳に供された初茄子を賞することの中に、重行のもてなしへの感謝の念をこめているのである。初茄子を喜び味わっている心のはずみが、「めづらしや」とか、「山を出羽の」という掛詞とかに、声のひびきになって流露している。

 『初茄子』・『曾良書留』(「元禄二年六月十日。七日羽黒に参籠して」と前書)・『雪丸げ』(「羽黒に参籠して後、鶴岡にいたり、重行亭にて興行」と前書)・『奥の枝折』に歌仙として掲出。『奥細道菅菰集』付録(「六月十日鶴が岡重行亭興行、前書に七日羽黒に参籠して」と前書)にも四句目まで掲出。脇は「蝉に車の音添ふる井戸―重行。句は『泊船集』・『赤冊子草稿』・『蕉翁句集』にも収める。三書とも「七日羽黒にこもりて鶴が岡に出る。重行亭」と前書する。『随行日記』によれば、芭蕉は元禄二年六月三日羽黒山に入り、同十日そこを出た。この句は六月十日の作。連句は十二日満尾。『奥の細道』には「羽黒を立ちて鶴が岡の城下、長山氏重行と云ふ武士の家に迎へられて、俳諧一巻有り」とある。「長山重行」は鶴岡住の酒井藩士。五郎右衛門といった。「山」は、ここでは、直接には羽黒であるが、それだけでなく、『奥の細道』で尿前の関以来通ってきた山地をさすのであろう。「出羽」は国名としての「出羽」と「出端(ではな)」を「出で端」と訓じて掛けている。山を出たその出ばなの鶴岡で、山地では見なかった茄子を、初めて食膳に見た喜びなのである。この地方の小粒の「民田(みんで)茄子」の山地である。



   初真桑四つにや断らん輪に切らん

 「さあもてなしに出されたこの初真桑をいっしょにたべよう、たて四つに割ったらよいか、輪切りにしたらよいか、さてどちらにしたものであろうか」の意。

 前書の「句なきものは……」は李白の「如詩不成、罰依金谷酒数」(春夜宴桃李園序)を心に置いているもので、挨拶の心をこめた即興の句である。いかにもかろがろと心のはずみが出ていて快い句である。たわむれに「句ができないものは食べてはいけませんぞ」と言われながら、初真桑を愛惜して、どうたべようかと撫でまわしている姿が目に見えてくるような句だ。

 真蹟懐紙に以下、「初瓜やかふり廻しを思ひ出づ―曾良」、「三人の中に翁や初真桑―不玉」、「興にめでて心もとなし瓜の味―玉志」を並記し、「元禄二年晩夏末」とある。この真蹟は『柴吹く風』にも模刻されている。『浮世の北』・『宇陀法師』・『赤冊子草稿』・『蕉翁句集』『芭蕉翁発句集』には「初真桑四ツにやわらん輪にやせむ」とある。『泊船集』には「初真桑たてにやわらん輪に切ん」とあり、「此の句は酒田にての吟なり。いづれの集にやら、『四ッにやわらん輪にやせ』と誤りしるしけり」と付記する。また『蕉翁句選』『一葉集』には「初真桑たてにやわらん輪にやせん」とある。いずれの形を定稿とするか決定しにくいが、即興の句なので、真蹟懐紙に従っておく。前書の冒頭は「あふみや玉志亭」と表記されており、『随行日記』六月二十三日の条の「近江ヤ三良兵へへ被招。夜ニ入、即興ノ発句有」の記事との関連もあってなお問題を残し、あるいは「あふみや(近江屋)」と読むかとも思われるが、しばらく「鐙屋」説に従う。中七「断ン」は「たたん」などとも読めるが、異形を参照して「わらん」と読んでおく。元禄二年六月末、酒田滞在中の作。『随行日記』の「近江ヤ」での作とすれば、二十三日。



   小鯛さす柳涼しや海士が家

 「湖の青さを背にした漁師の家では、漁師の妻が柳の小枝に小鯛をさしているが、その柳の青さがまことに涼しい感じだ」の意。

「小鯛指」という真蹟の形によって「小鯛指す」意とすれば「青い涼しげな柳が、漁師の家のほとりに立っていて、その風に揺られる小枝が漁師の家の軒下などに置いてある小鯛を指すように見える」という意になる。「小鯛さす」を柳の小枝に小鯛を挿す意ととれば、「漁師の家の軒下などで、漁師の妻が、青々とした柳の小枝に小鯛などを挿していることよ」の意となり、『白雄夜話』の、「蜑が軒」が初案で「つま」が再案であるという考も肯えるように思う。いずれにせよ素直で明るい句、恐らく属目の作であろう。

『雪丸げ』にも「西浜」と前書して収める。『曾良書留』(「西浜」と前書)・『奥細道拾遺』・『奥細道菅菰集』付録(「西浜にて」と前書)・『金蘭集』には下五「海士がつま」、『芭蕉翁発句集』『一葉集』には下五「蜑が軒」とあり、『白雄夜話』は、七月六日の「荒海や」の句と同十五日の「早稲の香や」の句との間に記載する。『菅菰集』付録・『金蘭集』に表六句として掲出。脇は「北にかたよる沖の夕立―名なし」とある。第三以下の作者は、小春・雲江(口)・北枝・牧童で加賀の連衆。なお、『菅菰集』付録には「翁の北国行脚、加州より末は皆秋なり。さるを此の発句、脇は夏季なり。是は連衆の望などにて此の季を用ゐ申されしにや」と注記する。庚戌のごとく西浜の地がほぼ確かめられたので、元禄二年六月二十六日の作と推定される。連句は、第三もしくは脇以下を、加賀の連衆につがせたものか。連句興行は『随行日記』より推して七月十六日もしくは二十三日であろう。



   海に降る雨や恋しき浮身宿

 「海に雨が降りそそいでいる。この雨のわびしさを見ていると、伝えきく浮身宿での女の生きざまがいまさらや悲しく、何か心惹かれる気持でしきりに思い出されてくる」との意。

 『曾良随行日記』によれば、七月二日新潟へ着く前日は雨で、特に夜は「甚強雨ス」というような天候であり、着いたその日は、「一宿ト云、追込宿之外ハ不借。大工源七母、有情、借。 甚持賞ス」という情況であった。海の面に降りそそぐ雨は身も心もめいるようにわびしく、旅の辛さが身に染みたにちがいない。大工源七の母あたりからその夜、浮身宿の話を聞いたのでもあろうか。旅中、女性のやさしさに接することもなく来て、いつしかきざしそめていた一種の飢餓感に越にあると聞いている浮身宿のさまが偲ばれたのであろう。旅商人と遊女との一月ほどのかたらい、そういう仮のかたらいが短ければ短いほどあわれふかく芭蕉には感じられたにちがいない。『奥の細道』では、芭蕉のこのような心の傾きは、やがて市振の章で一つのかたちを与えられるのである。

 『芭蕉句選拾遺』『芭蕉翁発句集』・『奥細道菅菰集』付録(以上二書「越後新潟にて」と前書)。『風羅袖日記』(「新潟にて」と前書)にも収める。『一葉集』は「越の新潟にて」と前書し、考証の部に収める。古い出典が得られない点多少疑わしいが、比較的信ずべき句集に重出するので、芭蕉作と認め、制作場所から見てここに置く。



   薬欄にいづれの花を草枕

 「ここは医師の家のこととて、薬草園が営まれ、折しも秋のこととてくさぐさの薬草はみな花をもっている。さて自分は、今宵ここに旅寝するのであるが、この薬園のどの草花を枕として引き結んだらよいであろうか」という意。

 医家に宿ったので、亭主棟雪(春庵)に対する挨拶を薬草の縁で詠んだものである。即興的な作であるが、詩句は洗練されている。

 『曾良書留』・『奥細道菅菰集』付録(「同国高田の細川春庵亭にて」と前書)・『金襴集』に、この句を発句とする連句四句までを掲出。脇は「荻の簾をあげかける月―棟雪。『俳諧衆議』には脇までを掲出。『みとせ草』は「医家人」と前書して発句のみ収める。風徳『芭蕉文集』書入れには、「陸奥・出羽の名処々々を見めぐりて、猶北海の荒磯を伝ひ、高砂子歩み苦しき越の長途に、多病いと疲れて、高田よいふ処にいたる。此の境に良医棟雪何某とかや、風雅の聞え遠く伝へたるを尋ね入りて」と前書がある。A href="hakusensyuu2.html">『泊船集』(「越後の國高田医師何かしを宿として」と前書・『西の詞』(「薬苑」と前書)・『蕉翁句集』には「上五「薬園に」とあり、『雪丸げ』(「細川青(ママ)庵亭にて」と前書)・『奥の枝折』は、この句形で連句を掲出、『芭蕉句選』は「越後国高田何がしにやどりて」と前書し、上五」「薬園の」と誤る。『随行日記』によれば、元禄二年七月八日の作。



   ぬれて行くや人もをかしき雨の萩

 「雨に濡れそぼつ萩の趣は、なかなか興味深いが、その花を賞して濡れながらこの亭の庭を往来する人も、風情すてがたいものがあることだ」の意。

 雨中の会に臨んで挨拶の心が籠められている。雨の萩のさまに興を起し、濡れてゆく人のさまも萩の傍でなかなかすてがたいものであると、属目の景に発想したもの。『笈の底』・『句解参考』に「萩が花散るらむ小野の露霜にぬれしを行かむ小夜は更くとも」(古今集・秋上・ よみ人しらず)によるというが、それよりは即興的なところを味わいとる必要があろう。女人の姿を彷彿する句である。『曾良書留』『雪丸げ』に「心せよ下駄のひびきも萩の露―曾良」「かまきりや引きこぼしたる萩の露」を続けて掲出、情景がしのばれる。

 『曾良書留』(「廿六日、同〈注、小松〉歓水亭会、雨中也」と前書)・『雪丸げ』(観水亭、雨中会」と前書)・真蹟懐紙(「歓水亭にて」と前書)に出す。『印の竿』に五十韻としてその一部を掲出、脇は「薄隠れに薄葺く家―亭子」。『泊船集』(「加賀小松にて」と前書)・『蕉翁句集』(「小松にて」と前書)・『一葉集』(発句之部に「観水亭」と前書、付合之部に七月廿六日、観生亭にて」と前書)には「ぬれて行く人もをかしや」とある。あるいは再案で決定稿を示すか。『奥細道菅菰集』付録は、「同国小松観水亭雨中の会」と前書し、「ぬれて行く人もやさしや」の形で、五十韻の一部を掲出する。『金蘭集』・『袖珍集』は『一葉集』のかたちで五十韻を全部掲出。『芭蕉翁俳諧集』・『幽蘭集』には「ぬれて行く人もをかしき」とある。『随行日記』および『曾良書留』前書より元禄二年七月二十六日の作であることがわかる。

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