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『曽良書留』では「海士がつま」、『雪満呂気』、『蕉句後拾遺』では「海士が家」。 7月23日(陽暦9月6日)、芭蕉は金沢の俳人雲口に誘われて、宮ノ越に遊んだ。 |
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一 廿三日 快晴。翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。
『曽良随行日記』
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| 西浜にて |
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| 小鯛さす柳すゝしや海士か妻 | 翁 |
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| 北にかたよる沖の夕立 |
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「湖の青さを背にした漁師の家では、漁師の妻が柳の小枝に小鯛をさしているが、その柳の青さがまことに涼しい感じだ」の意。 「小鯛指」という真蹟の形によって「小鯛指す」意とすれば「青い涼しげな柳が、漁師の家のほとりに立っていて、その風に揺られる小枝が漁師の家の軒下などに置いてある小鯛を指すように見える」という意になる。「小鯛さす」を柳の小枝に小鯛を挿す意ととれば、「漁師の家の軒下などで、漁師の妻が、青々とした柳の小枝に小鯛などを挿していることよ」の意となり、『白雄夜話』の、「蜑が軒」が初案で「つま」が再案であるという考も肯えるように思う。いずれにせよ素直で明るい句、恐らく属目の作であろう。 『雪丸げ』にも「西浜」と前書して収める。『曾良書留』(「西浜」と前書)・『奥細道拾遺』・『奥細道菅菰集』付録(「西浜にて」と前書)・『金蘭集』には下五「海士がつま」、『芭蕉翁発句集』・『一葉集』には下五「蜑が軒」とあり、『白雄夜話』は、七月六日の「荒海や」の句と同十五日の「早稲の香や」の句との間に記載する。『菅菰集』付録・『金蘭集』に表六句として掲出。脇は「北にかたよる沖の夕立―名なし」とある。第三以下の作者は、小春・雲江(口)・北枝・牧童で加賀の連衆。なお、『菅菰集』付録には「翁の北国行脚、加州より末は皆秋なり。さるを此の発句、脇は夏季なり。是は連衆の望などにて此の季を用ゐ申されしにや」と注記する。庚戌のごとく西浜の地がほぼ確かめられたので、元禄二年六月二十六日の作と推定される。連句は、第三もしくは脇以下を、加賀の連衆につがせたものか。連句興行は『随行日記』より推して七月十六日もしくは二十三日であろう。 |
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銭屋五兵衛は北前船で財をなし、「海の百万石」と呼ばれた。宮腰は北前船の中継港であった。 |

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舊友今村次七君金澤より上京。路地裏の寓居に來訪せらる。今村氏の家は錢屋五兵衞とは遠き縁つゞきの由。金澤市外の海岸なる街道筋に一株の古松あり。徃昔錢屋の一族處刑せられし時、五兵衞の三男要藏といへるもの湖水埋立の名前人なりしかば、罪最重く、この街道にて磔刑に處せられたり。其の頃には松多かりしが次第に枯死し、今はわづかに一株を殘すのみ。人々これを錢屋の松と稱へ、金澤名所の一つとはなれり。今村君こゝに石碑を建て、古枩の名の由来を刻して後世に傳へたしと、こまごま語り出されたる後、余に古松の命名と碑文の撰とを需めらる。余はその任に堪えざれば辭したり。
『斷腸亭日乘』(大正8年5月18日) |
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鴨暮れて錢屋五兵衛を空しうす
阿波野青畝『除夜』 |
