芭蕉の句碑
『奥の細道』〜東 北〜

無玉や羽黒にかへす法の月


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芭蕉庵青桃拝
羽黒山別当執行不分叟天宥法印は、行法いみじききこえ有て、止観円覚の仏智才用、人にほどこして、あるは山を穿、石を刻て、巨霊が力、女か(女+咼)がたくみを尽して、坊舎を築、階を作れる、青雲の滴をうけて、筧の水とほくめぐらせ、石の器・木の工、此山の奇物となれるもの多シ。 一山挙て其名をしたひ、其徳をあふぐ。まことにふたゝび羽山開基にひとし。されどもいかなる天災のなせるにやあらん、いづの国八重の汐風に身をただよひて、波の露はかなきたよりをなむ告侍るとかや。此度下官(やつがれ)、三山順礼の序(ついで)、追悼一句奉るべきよし、門生(徒)等しきりにすゝめらるゝによりて、をろをろ戯言一句をつらねて、香の後ニ手向侍る。いと憚多事になん侍る。 無(其)玉や羽黒にかへす法の月 元禄二年季夏 |
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「この仏法の真如の月は、その神秘な法の力で、遠流の地にねむる天宥法印の亡き魂をこの羽黒の山に再び呼び戻すことであろう」との意。 「法の月」は、天宥の冤罪を解いて清澄ならしめる力があるものとして生かされているのである。『泊船集』・『蕉翁句集』などの伝える「その玉や羽黒にかへせ」という形だと、法の月に向かって亡き魂をこの山に呼びかえすように呼びかける発想になる。はげしい熱情がよく出たもので、あるいはこれが後案かともいわれているのももっともであると考えられる。なお、「無玉」を「其玉」と改めたのは、追悼文の勢いをここに生かしたものであろう。 真蹟懐紙。『三山雅集』・『蕉門録』・『南谷集』・『道しるべ集』に、天宥法印追悼の文末に掲出、『蕉門録』にはその文に「羽黒山別当修行追悼」と題がある。『南谷集』・『道しるべ集』に真蹟懐紙を模刻。真蹟懐紙に上五「無玉や」の「無」を見せ消ちにして、「其玉や」と改め、最後に「元禄二年季夏」とある。『蕉門録』には「「元禄二秋」とあるが誤り。『泊船集』({悼遠流の天宥法印}と前書)・『蕉翁句集』(「悼遠流の天看(ママ)法印」と前書)には「その玉を羽黒にかへせ」、『蕉翁句選』(「悼遠流の天宥法印」と前書)には「その玉を羽黒へかへせ」とある。『随行日記』に記されている動静よりして、元禄二年六月四日前後の作。 |
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昭和64年(1989年)6月、芭蕉来山300年記念に三山大愛教会本山管長長円坊当主神林茂丸建立。 |


| 涼風やほのミか月の羽黒山 |
| 雲の峯いくつ崩れて月の山 |
| かたられぬゆどのにぬらす袂かな |
