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文明13年(1481年)、白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で1日1万句の連歌興行を催した。 これを伝えきいた都で名高い連歌の宗匠宗祇法師が、はるばる奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。 その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、女はすぐに「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で答えた。 これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。 |
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元禄2年(1689年)4月21日(新暦6月8日)、曽良は「宗祇もどし」の話を書いている。 |
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○宗祇もどし橋、白河ノ町ノ右(石山ヨリ入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわニ成程かすか成橋也。
むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有レ之。いづれも三日付ル事不レ成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被レ聞レ之て、其所ヘ被レ趣時、四十斗ノ女出向、宗祇に「いか成事ニテ、いづ方ヘ」と問。右の由尓々(しかじか)、女「それは先に付侍りし」と答てうせぬ。 月日の下に独りこそすめ 付句 かきおくる文のをくには名をとめて と申ければ、宗祇かんじられてもどられけり云伝。
『曽良随行日記』 |
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宝暦3年(1753年)12月、『宗祇戻』(夕顔菴風光選)刊。「宗祇戻し」の伝説を書名としている。 |
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宝暦5年(1755年)5月、南嶺庵梅至は。「宗祇戻し」で句を詠んでいる。 |
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宗祇戻しの坂 |
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今も其宗祇戻しや蟾の声 |
| 昭和33年(1958年)7月、加藤楸邨は宗祇戻しを訪ねている。 |
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私どももその足どりを追って白河の中町へ出る。中町は白河駅の前通り、芭蕉はここで左五左衛門という者を訪ねているが、今は明らかでない。町はずれに宗祇戻しがある。文明のころ鹿島神社の神前で一日万句の連歌が催されたとき「月日の下に独りこそすめ」という難句が出て誰も付けかねていると一人の女があらわれて「書きおくる文の奥には名をとめて」と付けた。宗祇は遅れてこの会にくる途中、この女に逢ってこのことを聞いてそのまま引返したといわれるところだ。手紙の終りのところに月日が書かれその下に名が書かれる。月日の下にひとり住むという詞のあそびである。文字のあそびが名所になるという、文字のあそびが生活の中で重い比重を占めていたころの話で『奥州白河往昔記』にある。曾良の「旅日記」にも書いているのだから、芭蕉と曾良とはこんなことを話しながらここを過ぎたのであろう。 |

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「自分はいま白河の関に達した。まだ秋風には早い早苗のころであるが、すでに顔はすっかり日焼けして黒くなってしまった。それにつけても、江戸を出てからの日数が今ははるかなものに思われることだ」の意。 眼前の現実である「早苗」によって、能因の故事があらためてふりかえられているのである。「早苗にも」の「も」は、そうした心を負って微妙な味わいをただよわせている。「我が色黒き」は、『古今著聞集』の能因の故事のことばをそのままかり来ったものであろう。同書には、「能因は、いたれるすきものにてありければ、『都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』とよめるを、都にありながら、此の歌をいださむ事念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠り居て、色黒く日に当たりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける」とある。 いよいよみちのくに第一歩を踏み入れようとして、偽りの旅ならぬ実の旅にやつれはてるであろう己が身をつくづくとふりかえっている芭蕉の目が感じられるが、なお『古今著聞集』からの知識にすがっている点が際立ちすぎている。そこを純化してやがて「西か東か」の改案が生まれてくるのである。 『泊船集』・『蕉翁句集』(以上二書「奥州今の白河に出づる」と前書)・『雪丸げ』・『菅菰抄』付録等にも収める。「西か東か先づ早苗にも風の音」の初案。同句参照。『曾良随行日記』によれば、四月二十日の作か。 |
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これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、須賀川から白河の俳人何云(かうん)に当てた手紙のなかにあります。 この句碑は天保14年(1843年)芭蕉の百五十回忌に、乙丸ら白河の俳人によって建立されました。 |
