2010年福 島

宗祇戻し〜芭蕉の句碑〜

白河市旭町に道標がある。


道標


右 たなくら

左 いしかわ

道標の後ろに宗祇戻しの碑がある。


 文明13年(1481年)、白河城主結城政朝が鹿嶋神社の神前で1日1万句の連歌興行を催した。

 これを伝えきいた都で名高い連歌の宗匠宗祇法師が、はるばる奥州にくだり、三十三間堂の前を通り、一女性に行きあい鹿嶋連句の終了を告げられた。

 その時宗祇は女の背負っていた綿を見て「売るか」と問うたところ、女はすぐに「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で答えた。

 これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返したと言い伝えられています。

 元禄2年(1689年)4月21日(新暦6月8日)、曽良は「宗祇もどし」の話を書いている。

○宗祇もどし橋、白河ノ町ノ右(石山ヨリ入口)、かしまへ行道、ゑた町有。其きわニ成程かすか成橋也。 むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いづれも三日付ル事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被之て、其所ヘ被趣時、四十斗ノ女出向、宗祇に「いか成事ニテ、いづ方ヘ」と問。右の由尓々(しかじか)、女「それは先に付侍りし」と答てうせぬ。

     月日の下に独りこそすめ
   付句
   かきおくる文のをくには名をとめて

と申ければ、宗祇かんじられてもどられけり云伝。

『曽良随行日記』

 宝暦3年(1753年)12月、『宗祇戻』(夕顔菴風光選)刊。「宗祇戻し」の伝説を書名としている。

 宝暦5年(1755年)5月、南嶺庵梅至は。「宗祇戻し」で句を詠んでいる。

宗祇戻しの坂

今も其宗祇戻しや蟾の声


宗祇戻しの碑の右に芭蕉の句碑があった。


早苗にも我色黒き日数哉

出典は『俳諧書留』

 これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、須賀川から白河の俳人何云(かうん)に当てた手紙のなかにあります。

 この句碑は天保14年(1843年)芭蕉の百五十回忌に、乙丸ら白河の俳人によって建立されました。

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