芭蕉の句碑山 形


古池や蛙とひこむ水の音

建勲神社から旧東村山郡役所へ。


旧東村山郡役所


明治12年(1878年)、建築。

県の有形文化財である。

旧東村山郡役所南側の城山公園に「芭蕉翁ゆかりの地、翁塚を保存するため」の碑があった。


念仏寺跡 翁塚

宝暦戊寅八月十二日 池青芭蕉翁の句碑建立地

昭和53年(1978年)7月13日、建立。

芭蕉の句碑があった。


古池や蛙飛びこむ水の音

出典は『蛙合』(仙化編)。

貞亨3年(1686年)春、深川芭蕉庵で詠まれた句。

芭蕉42歳の時である。

昭和56年(1981年)7月11日、天童おくの細道研究会建立。

池青建立の句碑は、現在天童市貫津の旧家にある。

さらに翁塚説明の碑があった。


山形の俳人雨聲庵山皓が宝暦10年4月19日象潟探勝の旅日記「笠の連」に次の一節がある

天童なる浦夕子を尋ねて

 おのづから畳も青し若楓
   山皓

 その下闇を問ふほととぎす
   浦夕

天童念佛堂の境内に翁塚を拝す。うしろには楯跡の小山をたのみ、碑前にはおのづからなる古池あり。松風は梵をなし、蛙とびこむとの詠も眼のあたりなり。

 鉦鼓より鳥のかんこや翁塚
   山皓

芭蕉翁が天童を通り、山寺を尋ねたのが元禄2年旧5月27日、28日である。宝暦8年旧8月12日、菱華亭池青が念佛堂に「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑を行脚70年記念に建立し翁塚と称した。山皓が翁塚を訪れたのが2年後のことである。

  昭和61年 ふみつき

浦夕と池青は山寺の蝉塚建立にも名を連ねている。

別の芭蕉句碑もあった。


行末は誰肌ふれむ紅の花

俳諧一葉集』より

    清風亭 二句

行末は誰肌ふれむ紅の花

眉掃を俤にして紅のはな


文政10年(1827年)、『俳諧一葉集』刊行。古学庵仏兮、幻窓湖中編。

    行すゑは誰肌ふれむ紅の花

此句はいかなる時の作にかあらん。翁の句なるよし、人々のつたへ申されしが、題しらず。

『西華集』(各務支考)

いつ、どのようにして詠まれた句なのか、各務支考も分からなかった。

   ゆくすゑは誰の肌にふれむ紅の花

愚考、源氏末つむ花の巻に、「紅の花ぞあやなくうとまるゝ梅の立枝はなつかしけれど、詞にいでやとあひなくうちうめかれ玉ふ。あないとをかし、かゝる人々の末々いかなるや」、云々。物語の俤也。紅はすべて若ものゝうらにのミ用ふるからに、肌ふれバとハ光せりたり。

『芭蕉翁句解参考』(月院社何丸)

 「眼の前に紅粉の花があざやかに咲いている。紅粉の花はやがて紅絹(もみ)の染料となり、口紅となるもの、行く末はどんな美しい人の肌に触れることであろうか」とおもいやる意。

 「誰が肌」はもちろん女人の肌を意味しているのであって、人の心を擽るような柔軟感がある。女人を連想させるだけでなく、白い肌、身に着けた衣装、などのような官能的なものまで感じさせる。この句は頗る人口に膾炙したものであったが、本來の価値よりも、表現のもつ雰囲気の故に愛されたものといえよう。『源氏物語』の「末摘花」の、「なつかしさを色ともなしになににこのすゑつむ花を袖にふれけむ」あたりを心においているのではないかと思う。

 『西華集』(元禄十二年刊・支考編)に「此の句はいかなる時の作にかあらん。翁の句なるよし、人の伝へ申されしが、題しらず」と付記して収める。『一葉集』には「清風亭二句」として、扱い、元禄二年五月の作とみる。


昭和61年(1986年)7月13日、建立。

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