芭蕉の句碑『奥の細道』


湯をむすぶ誓も同じ石清水

 元禄2年(1689年)4月18日(新暦6月5日)正午、芭蕉は高久覚左衛門宅を立つ。


松子村まで馬で送られ、午後2時半頃湯本五左衛門宅に着く。

   一 十八日

 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角(覚)左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯本ヘ三リ。未ノ下尅、湯本五左衛門方ヘ着。

『曽良随行日記』

翌19日(新暦6月6日)午前11時半頃、温泉神社に参詣する。

御神木「生きる」


水楢(みずなら)はブナ科の落葉樹。樹齢は推定800年だそうだ。

温泉神社参道


辺りは雪に覆われている。

拝殿の手前に芭蕉の句碑がある。


湯をむすぶ誓も同じ石清水

昨年と同じように、句碑も雪に覆われている。

半ば雪に埋もれて、句碑の説明が書いてあった。

芭蕉の句碑

 元禄2年(1689年)4月芭蕉は奥の細道をたどる途中殺生石見物を思い立ち、まず温泉神社に参拝した。

 その時同行の門人曽良の日記には温泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉る両神一方に拝させ玉ふを、翁

湯をむすぶ誓いも同じ石清水

 この句碑は徳川氏の奥八城太郎弘賢の書である。

温泉神社に京都の石清水八幡宮が合祀されている。

『茂々代草』に益子其流所蔵の芭蕉の遺墨が紹介されている。

温泉神社拝殿


温泉神社は延喜式内社

 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。大己貴命(おおなむちのみこと)は別名大国主命。

 相殿に誉田別命(ほんだわけのみこと)が祀られている。誉田別命(ほんだわけのみこと)は応神天皇。

 「那須は温泉であるから、噴出する湯を掬んで、温泉神社に参詣する。ここには八幡宮も合祀されていて、京の男山であれば、山の下の石清水を掬んで祈願を籠めるのであるが、湯を掬んで温泉大明神に祈願することが、そのまま八幡宮に祈願することになり、霊験あらたかなことだ」という意。

 発想契機は『曾良随行日記』の前書に明確なように、温泉神社に八幡宮が合祀されていたことに感を発したものである。『奥の細道』黒羽の条には、「それより八幡宮(注、金丸八幡宮那須神社)に詣づ。与一扇の的を射し時、「別しては我が国の氏神正八まん」と誓ひしも、この神社にて侍ると聞けば、感応殊にしきりに覚えらる」とあり、「誓も同じ」には、那須与一のおもかげがこめられているかも知れない。なお『平家物語』(流布本)には、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現・宇都の宮・那須の温泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させてたばせ給へ。……」とある。「湯」と「清水」の対応、「むすぶ」の掛詞等、極めてこみ入った技巧をとり入れているが、句としては燃焼度の低いものというほかはない。

 『曾良随行日記』に「温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉リテ雨(注、「両」の誤記)神一方ニ拝マレサセ玉フヲ」と前書して掲出。『雪丸げ』・『菅菰集』・付録にも、ほぼ同文の前書を付して収める。『陸奥鵆』(「那須温泉」と前書)。『泊船集』『蕉翁句集』(以上二書「那須の温泉」と前書)などにもある。『曾良随行日記』によれば、四月十九日の作。


芭蕉は温泉神社参詣の後、湯本五左衛門の案内で殺生石を見る。

 元文3年(1738年)4月19日、田中千梅は松島行脚の途上、那須温泉神社を訪れている。

社殿神さひ甍苔に埋て尊とさいやまさりて覚ゆ


 安永2年(1773年)、加舎白雄は那須湯元を訪れた。

那須のゆもとの真中ながるゝを霧流が渓といふなるよし

   ゆあがりや霧はながれて宵の月

加舎白雄「奥羽紀行」

 昭和30年(1955年)7月、富安風生は温泉神社を訪れている。

   式内那須神社

宮涼し什宝として蟇目の矢

『古稀春風』

 昭和40年(1965年)3月、山口誓子は温泉神社の句碑を訪ねている。

 温泉神社にへ廻る。神社の紋は立沢潟(たちおもだか)

 石段を下りた右側の高みに、芭蕉の句碑が立っている。大きな台石に大きな石。「随行日記」に載っている句

   湯をむすぶ誓も同じ石清水

を刻む。冷淡だが、登って見なかった。

『句碑をたずねて』(奥の細道)

 昭和48年(1973年)7月、加藤楸邨は芭蕉の句碑を見ている。

社殿は極めて新しい。ただ、左側に建てられた、

   湯をむすぶ誓も同じ石清水

の芭蕉の句碑のうしろの木立は実にみごとである。欅や楢の類が主なものである。黒い蝶がゆらゆらと過ぎたのは、鴉揚羽であろうか。


温泉神社から殺生石に下りる道は凍っていて危ないので、引き返す。

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