下 町中央区


柳 橋〜正岡子規〜

中央区東日本橋2丁目に柳橋がある。


昭和4年(1929年)12月、復興局施工。

復興記念


昭和9年(1934年)11月4日、高浜虚子は武蔵野探勝会で柳橋へ。

 両国橋の西たもと辺を柳橋とか薬研堀とか浜町などゝいふのであるが、万治元年に両国橋が架かつてからの橋の東西のたもとは何れ劣らず繁昌したものであつたらしい。

 この辺船宿多し。料理屋多し。大弓。芝居など書き込んである古い絵図をみてもほゞ想像できるのである。今の浅草といつた風に当時の盛り場であつたかも知れない。

 昔浜町につゞいた一角に葭原といふ今の吉原の淵源の地があつたのださうな。その辺が今は葭町といふ花柳界と隣り合せて浜町といふ花柳界、柳橋を渡れば柳橋といふ色町、又浜町には明治座といふ劇場、何うしても昔からややともすれば謹厳さを欠きさうな土地柄ではある。

『武蔵野探勝』(雪の百花園)

柳 橋


平成4年(1992年)1月、東京都中央区建立。

 柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。

 この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698年)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。

 「柳橋」の由来については、

 (1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
 (2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
 (3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。

このように諸説ありますが、真説は不明です。

 明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。

 区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。

隅田川


春の夜や女見返る柳橋

『寒山落木』(明治二十六年 春)

   兩 國

贅沢な人の涼みや柳橋

『俳句稿』(明治三十一年 夏)

神田川


中央区民文化財

 柳橋

 柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平石右衛門町(台東区)とは渡船で往き来していましたが、不便なので元禄10年(1697年)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌11年に完成しました。

 その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、“柳橋川へ蒲団をほうり込み”と川柳に見られるような賑わいぶりでした。

 明治20年(1887年)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12年(1923年)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和4年(1929年)に完成しました。

 完成から70余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成3年に整備し、同11年に区民有形文化財に登録されています。

中央区教育委員会

神田川を渡ると、台東区柳橋