与謝野晶子の歌碑



〜年 譜〜

 明治11年(1878年)12月7日、堺県和泉国第一大区甲斐町(現:大阪府堺市堺区甲斐町)に生まれる。

 明治32年(1899年)11月11日、東京新詩社創立。

 明治33年(1900年)4月、『明星』創刊。

 明治33年(1900年)11月5日、晶子は山川登美子と共に与謝野鉄幹に伴われて永観堂に紅葉を賞でる。

 明治34年(1901年)9月、麹町から渋谷に移り、与謝野鉄幹と結婚。

 明治35年(1902年)11月1日、長男光誕生。

 鉄幹氏より来翰。晶子女史御子あげ玉ひし由。


 明治35年(1902年)11月1日、石川啄木は上京。9日、東京新詩社を訪問して初めて与謝野鉄幹に接し、10日、与謝野晶子に会う。

 明治37年(1904年)7月7日、次男秀(しげる)誕生。

 明治37年(1904年)9月、『明星』に「君死にたもうことなかれ」を掲載。

 明治37年(1904年)11月、千駄ヶ谷に移る。

 明治38年(1905年)8月3日、与謝野鉄幹と共に豪雨の中を幼い2人の子を連れて赤城山に登った。

 明治40年(1907年)3月、長女八峰・次女七瀬誕生。

 千駄ヶ谷の鉄幹氏には八峰(ヤツヲ)七瀬(ナゝセ)の二女が同時に生れたと喜びがあつた。


 明治41年(1908年)11月、『明星』百号にて廃刊。

 明治42年(1909年)、神田駿河台に移る。

 明治43年(1910年)8月、麹町区中六番町3番地(現:四番町9)に転居。

 明治44年(1911年)、犬吠埼を訪れる。

 明治44年(1911年)8月、与謝野寛らと共に飯坂温泉を訪れた。東山新瀧旅館に泊まる。

 明治44年(1911年)11月、麹町区中六番町7番地(現:四番町9)に移る。

 大正4年(1915年)8月、麹町区富士見町5丁目9番地に転居。

 大正6年(1917年)6月24日、日田で鵜飼見物。25日、耶馬渓

 大正10年(1921年)1月6日、初島に渡る。

 大正10年(1921年)4月25日、『文化学院』創立。

 大正10年(1921年)11月19日、与謝野寛・晶子夫妻は白浜・奈古へ旅をする。

 昭和2年(1927)9月、与謝野寛・晶子夫妻は荻窪に転居。

、  昭和5年(1930年)7月19日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は「先賢彰徳碑」除幕式に出席。

、  昭和6年(1931年)5月28日、与謝野寛・晶子夫妻は札幌から旭川へ向かう途中で神居古潭を訪れている。

 昭和6年(1931年)11月3日、与謝野寛・晶子夫妻は石手寺に参拝。

 昭和9年(1934年)8月5日、野尻湖から上林温泉「塵表閣」へ。

 昭和10年(1935年)2月24日、東京を発ち船原土肥を経て、26日、堂ヶ島、下田また白浜海岸に遊ぶ。28日に帰京。

 昭和10年(1935年)3月26日、与謝野寛は62歳で没。

 昭和12年(1937年)10月8日、与謝野晶子は伊東「抛書山荘」に2泊。11日、修善寺温泉から浄蓮の滝を訪れ、湯ヶ島温泉「落合楼」に泊まった。

 昭和17年(1942年)5月29日、与謝野晶子没。

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