明治21年(1888年)12月26日、香川郡高松7番丁(高松市天神前)に生まれる。 明治28年(1895年)、四番丁尋常小学校(現四番丁小学校)入学。 明治36年(1903年、県立高松中学校(現県立高松高等学校)入学。 明治43年(1910年、第一高等学校文科に入学。 大正5年(1916年)、京都大学英文科卒業。 大正5年(1916年)、第四次「新思潮」創刊。戯曲「屋上の狂人」等発表。 大正8年(1919年)1月、『恩讐の彼方に』発表。 大正12年(1923年)1月、春陽堂から『文藝春秋』創刊。 大正14年(1925年)、文化学院文学部長に就任。 大正15年(1926年)、日本文藝家協会を設立。 大正15年(1926年)6月、有島武郎邸を借りて、「文藝春秋社」として独立。 昭和3年(1928年)、第16回衆議院議員総選挙に東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選。 |
晩間山形ほてる食堂に徃き食事をなしつゝ卓上の新聞紙を見る、滿紙唯衆議院選擧運動の記事あるのみ、候補者の中には菊池寛妹尾順藏等の名も見えたり、菊池は通俗小説の作者なる事人の知る所、妹尾は三番町の待合蔦の家の亭主にて江戸屋といふ女髪結の情夫なりかくの如き媒瑶を業となす者分を忘れ身を慚ぢず堂々として天下の政治を論ずるに至つては、國家の前途まことに憂ふべきものありといふべし、
『斷腸亭日乘』(昭和3年2月13日) |
昭和6年(1931年)、戯曲「父帰る」発表。 昭和10年(1935年)、芥川龍之介賞創設。 昭和11年(1936年)7月、「樋口一葉記念碑」建立。菊池寛撰文。 昭和12年(1937年、芸術院会員となる。 昭和13年(1938年)、日本文学振興会が菊池寛賞制定。 |
地下鐵社内にて偶然高橋邦太郎氏に逢ふ。近年文壇に賞金の噂多し。菊池寛賞と稱するもの金壹千圓此度徳田秋聲之を受納せしと云ふ。高橋君の談なり。余は死後に至りても文壇とは何等の關係をも保たさゞ(ママ)らむことを欲す。余が遺産の處分につきては窃に考るところあり。今は言はず。
『斷腸亭日乘』(昭和14年3月10日) |
昭和17年(1942年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文藝家協会を解散。 |
菊池寛の設立せし文學報國會なるもの一言の挨拶もなく余の名を其の會員名簿に載す。同會々長は余の嫌惡する徳富蘇峯なり。余は無斷にて人の名義を濫用する報國會の不徳を責めてやらむかと思ひしが是却て豎子をして名をなさしむるものなるべしと思返して捨置くことゝす。
『斷腸亭日乘』(昭和18年5月17日) |
昭和23年(1946年)3月6日、61歳で死去。 |
菊池寛、逝く。……告別式にて 花にまが間のある雨に濡れにけり |