旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

昭和2年 ・ 昭和6年 ・ 昭和8年

昭和11年 ・ 昭和16年 ・ 昭和20年

昭和6年(1931年)

   1月1日〜小星を訪ふ〜

午後より雪降る、夜小星を訪ひ屠蘇一盞を飲み十一時頃自働車にて歸る、雪歇まず、

   1月4日〜神樂阪の鶴福〜

晴れて暖なり、午後神樂阪の鶴福に徃き園香を招ぎ夕餉を食して歸る、

   1月5日〜番街に徃く〜

夜番街に徃く、小星この日七庚申に當りしとて柴又帝釋天に參詣せし由、十七夜の月皎々たり、

   1月8日〜鶴福に飲む〜

雪紛々たり、午下神樂阪の鶴福に飲む、園香來る、雪深更にいたるも歇まず、

   1月12日〜園香に逢ふ〜

晴れて寒し、午後園香に逢ふ、夜番街を訪ふ、

   1月13日〜鶏料理かもめ〜

晴、午後稻叟園香等と鶏料理かもめに飲む、女中の美なること藝者の如く酒肴亦場末に似ず味ふに足る、新宿邊の繁華實に驚くべし、園香余を送りて家に來り少憩して歸る、

   1月16日〜鶴福に飲む〜

晴、ホ(※「日」+「甫」)下園香を訪ひ鶴福に飲む、

   1月20日〜鶴福に飲む〜

快晴、ホ(※「日」+「甫」)下園香を伴ひ鶴福に飲む、

   1月24日〜園香を訪ふ〜

午後園香を訪ひ、番街に立寄りて歸る、

   1月28日〜中河に飲む〜

晴れて暖なり、午後園香を訪ひ、中河に飲む、

   1月29日〜小星を訪ふ〜

快晴、和暖、午前稻叟を訪ふ、午後揮毫二三葉、夜三番街の小星を訪ふ、

   1月30日〜園香を訪ふ〜

晴れて暖なり、午後三菱銀行に徃く、歸途園香を訪ひ夕餉を食して歸る、

   1月31日〜小星を訪う〜

夜市ケ谷に稻叟を訪ひ、番街に小星を訪うて歸る、月に笠あり、

   2月2日〜園香の來るを待つ〜

(※「日」+「甫」)下神樂阪田原屋に至り妓園香の來るを待つ、晩餐の後園香の知れる女銀座獅子閣の女給になれるを訪はむとて倶に銀座に徃き、初更再び神樂阪に立戻り、中河亭に一酌して歸る、

   2月6日〜園香に逢ふ〜

日本橋榛原紙舗にて買物をなし神樂阪田原屋にて昼餉を食す、鶴福にて園香に逢ふ、歸途月明なり、

   2月9日〜岩井事務所〜

歸途鍛治(ママ)橋外秘密探偵岩井三郎事務所を訪ひ、園香の客なる伊藤某といふ者の住所職業探索の事を依頼す、伊藤某は大木戸待合七福の女房と關係ある者の由、去年來妓園香を予に奪はれたりと思ひ過り、之を意恨に思ひ窃に余が身邊に危害を與へんと企てゐる由、注意するものありし故、萬一の事を慮り其住所職業をたしかめ置かむと欲するなり、岩井事務所探偵料參拾圓なり、銀座食堂にて夕餉をなし市ケ谷の陋巷に稻叟を訪ふ、病中にて其子二人來て看護せり、番街の小星を訪ひ夜半家に歸る、雪もよひの空墨の如し、

   2月15日〜中河亭に飲む〜

晴又曇、夜牛門の中河亭に飲む、園香來る、

   2月21日〜情愛益冷なり〜

昏K園香を訪ひ夕餉を食して歸る、情愛逢ふごとに益冷なり、

   2月23日〜四谷の妓小豐〜

四谷の妓小豐の家を訪ひ昏K番街に至りて飯す、園香松戸の家に歸りし由、

   2月24日〜園香を訪ふ〜

北風吹きすさみて寒し、午後小星來る、夜に入りて風休む、園香を訪ふ、

   2月25日〜田原屋に飯す〜

夜園香夢路の二妓と牛籠の田原屋に飯す、

   2月28日〜園香を訪ふ〜

晴又曇、午後執筆、ホ(※「日」+「甫」)下園香を訪ふ、事情頗厭ふべきものあり、去つて番街に徃き夕餉を食して歸る、

   3月4日〜園香夢路來る〜

春雨霏々、午後牛門の遅々亭に飲む、園香夢路來る、夜雨歇み月あきらかなり、

   3月5日〜夜園香の事〜

夜園香の事につき内談をなさむと市ケ谷に稻叟を訪ひしが不在なり、三番町に少憩して歸る、春月朦朧たり、

   3月11日〜小星病を看護す〜

黎明大石國手來診、注射治療をなす、惡熱少しく退く、小星來つて病を看護す、夜大石君雨を冒して再來診、また注射をなす、

   3月16日〜小星終日病を看る〜

黎明、惡寒再發、体温再四十度に昇る、笄阜子來り注射をなす、子は曾て慶應大學醫學部に在り醫事に通ずるを以てなり、小星終日病を看る、

   3月20日〜小星病を看護す〜

小星日々來りて病を看護す、

   3月22日〜鶴福に晝餉をなす〜

春日麗朗、病起始めて脚を試む、午下神樂阪の鶴福に至り園香を招ぎ晝餉をなす、

   3月23日〜小星來る〜

晴、終日執筆、夜小星來る、雷雨須臾にして霽る、

   3月26日〜小星來る〜

終日困臥、午後小星狗を携へて來る、同じく風邪の氣味なりといふ、

   3月31日〜小星來る〜

午後小星來る、夜雨ふる、

   4月3日〜小星來る〜

晴、ホ(※「日」+「甫」)下小星來る、夜雨ふる、

   4月4日〜小星來る〜

晴、ホ(※「日」+「甫」)下小星再病を問ひ來る、夜執筆、

   4月6日〜小星余を待てり〜

昏K家に歸るに小星來りて余を待てり、夕餉を倶にす、

   4月7日〜小星來り〜

風冷なり、薄暮小星來り九段社頭の花既にちり初めしといふ、燈火執筆、

   4月16日〜小星來る〜

晴、南風烈しく鄰家の落花雪の如し、終日燈火執筆、夜小星來る、

   4月22日〜小星來訪〜

終日草藁をつくる、夜小星來訪、

   4月26日〜小星來る〜

晴、終日机に凭る、暮夜小星來る、夜風あり、

   4月28日〜幸橋税務署〜

快晴、薄暑を催す、幸橋税務署より通知書來る、麻布の家の電話無用なるを以て三番町なる小星の許にかけ替へしは兩三年前の事なり、税務署の吏之を探り出し、電話の賃貸をなせるものとなし課税せむとす、楊枝の先にて重箱のすみをほじくるとは實にかくの如きことを謂ふなり、衰世の状思ふべし、此日午後笄阜子來訪、また葵山子の返簡を得たり、微恙あり怏々として樂しまずと云ふ、暮夜小星來る、

   5月4日〜水天宮

水天宮社殿造營祝賀の祭禮にて藝者手古舞の催しあり、

   5月5日〜小星亦來る〜

快晴、終日讀書、黄昏葵山君來訪、小星亦來る、銀座食堂に至りて飯す、酒肆太牙に憩ひ葵山子を送りて家に歸る、疲勞甚し、

   5月5日〜遅々亭に徃く〜

快晴、風あり終日机に凭る、ホ(※「日」+「甫」)下遅々亭に徃き、淺草の妓小〆新宿の妓園香を招ぎ夕餉を食す、

   5月12日〜小星來訪〜

風雨夜に入るも歇まず、小星來訪、

   5月14日〜遅遅亭に徃く〜

快晴、風爽かなり、ホ(※「日」+「甫」)下遅遅亭に徃き園香を招ぎ夕餉をなす、稻叟淺草駒形の病院に入りし由、

   5月17日〜小星來訪〜

黄昏小星來訪、執筆夜に至る、

   5月20日〜小星の愛狗〜

晴又陰、小星の愛狗七疋子を生みたりと聞き徃きて見る、遅々亭に少憩して歸る、

   5月23日〜小星來る〜

晴、終日机に凭る、黄昏小星來る、相携へて銀座食堂に飯す、街上に偶然吉井伯爵に逢ふ、

   5月26日〜小星來訪〜

黄昏小星來訪、

   5月28日〜小星來る〜

薄暮小星來る、三更雷雨、

   5月30日〜世の不景氣〜

晴、本年より郵船會社再び配當金を送來らず、官吏は月俸を減少せられし由、世の不景氣知るべきなり、

   6月8日〜稻叟の病を問ふ〜

時々小雨、ホ(※「日」+「甫」)下脚氣注射のため中洲病院に徃く、牛込の遅々亭に立寄り園香と共に稻叟の病を問はむとて淺草駒形新猿屋町の施療病院に徃く、

   6月12日〜稻叟の病を問ふ〜

雨霏々たり、ホ(※「日」+「甫」)下中洲病院に徃く、歸途再び駒形施療病院に稻叟の病を問ふ、番街に抵り夕餉を食して歸る、

   6月24日〜小星遽に發病〜

晩餐の後雨の晴るゝを見て小星を訪ふ、小星余の歸るを送りて麻布に至らむとする途中、車上遽に發病、苦悶のあまり昏眩絶倒す、家に抵るや直に番町藝妓見番出入の醫師柳川氏を招ぎ應急の手當をなさしむ、然れども何の病なるを知ること能はず、余の看る所を以てすれば早打肩と稱するものゝ如し、看護して曉に到る、

   6月25日〜小星の病を看護す〜

梅雨歇みては又降る、午前醫師柳川氏來診、小星の病小康を示す、午後杏花子來り訪はる、市川中車の病を狸穴の家に問はれし歸途なりといふ、終日小星の病を看護す、疲勞すること甚し。

   6月26日〜小星入院〜

雨歇む、正午お歌を自働車に乘せ中洲病院に徃き入院せしむ、余枕頭に坐して慰撫し夜初更に至る、窓外水上の夜色甚佳し、歸途市ケ谷に徃き稻叟の病を問ふ、此日不在中笄阜子來り訪はる、

   6月27日〜小星の病を問ふ〜

晴、午後笄阜子來る、ホ(※「日」+「甫」)下中洲病院にお歌の病を問ふ、

   6月28日〜小星の病未痊えず〜

晴れて暑し、午後笄阜子來る、相携へて中洲病院に徃く、お歌の病未痊えず、醫師の語る處を聞くに瘋癲病に陷る虞はなし、されどヒステリイの強きものなれば尚一兩日在院靜養の必要ありと、女子と小人は洵に養ひがたきものなり、夜初更笄阜子と共に病院を出で銀座太訝樓に憩ふ、

   6月30日〜小星の病を問ふ〜

晴、午後お歌の病を問ふ、麹坊の妓音千代榮龍等同じく病を問來るに會ふ、病院屋上の庭園に登り河上の眺望を喜ぶ、

   7月1日〜小星の病を問ふ〜

晴、暑氣未甚しからず、午後中洲病院に小星の病を問ふ、夜遅々亭に一酌して歸る、

   7月2日〜小星の病を問ふ〜

薄暮中洲に小星の病を問ふ、歸途二更の頃永代橋上に月の昇るを看る、月嶋のかなたに横雲のたな曳渡るさま清親の筆の如し、

   7月3日〜病室にお歌を訪ふ〜

晴、午後笄阜子來談、ホ(※「日」+「甫」)下中洲に徃き脚氣注射の後二階の病室にお歌を訪ふ、夜初更芝口の橘花子を訪ひ一茶して歸る、

   7月4日〜中洲に徃く〜

午後雷霆霹靂、驟雨沛然たり、ホ(※「日」+「甫」)時雨晴るゝを待ち中洲に徃くに途上重ねて驟雨あり、

   7月5日〜小星の病を問ふ〜

晴、ホ(※「日」+「甫」)下お歌の病を問ふ、歸途人形町通を歩む、水天宮の賽日にて賑なり、

   7月6日〜病勢依然たり〜

雨歇みてはまた降る、ホ(※「日」+「甫」)時中洲に徃く、小星入院して早くも十日目となりしが、病勢依然たり、一時は稍快方に赴く事もあるべけれど、待合の商賣などはもはや出來まじく、行々は遂に發狂するに至るべしと、大石博士の診斷なり、人の運命は洵に測り知るべからず、お歌年僅に二十五にて此の如き病に陷りたるも前世の因縁なるべし、哀れむべきことなり、夜二更雨を冒して家に歸る、

   7月7日〜小星の行末〜

午前お歌が親戚のものを招ぎ行末の事を相談す、午後雨霽る、遅々亭に徃き夕餉を食して歸る、

   7月8日〜小星の病を問ふ〜

晴又曇、夜小星の病を問ふ、

   7月9日〜病室にて夕餉〜

午後三時過杏花子歌舞伎座出勤の時刻なれば倶にその自働車に乘り、丸の内にて用事を辨じ中洲に徃く、驟雨車軸のごとし、お歌の病室にて夕餉を食し初更家に歸る、途中また驟雨に値ひたれば、辻自働車に乘りしに、此夕刻九段阪下にて圓タクと電車衝突し即死二人ありしと、運轉手のはなしなり、

   7月10日〜小星の事を問ふ〜

(※「日」+「甫」)時中洲に徃く、大石國手にお歌の事を問ふに本月下旬のころ迄入院靜養するがよかるべしとの事なり、二更雨中家に歸る、

   7月11日〜生計の事を問ふ〜

夜番街小星の留守宅に徃き留守居の老婆に生計の事を問ふ、偶然杵屋五叟の來るに逢ふ、深夜車を同じくして歸る、雨やまず、

   8月24日〜徳田秋聲

小説家徳田秋聲老後貧困甚しきを以て、里見淳(ママ)菊池寛、中村武羅夫などといふ文士發起人となり寄附金募集の企をなすと云、

   8月26日〜病婦やがて發狂〜

市ケ谷に稻叟を訪ひしが不在なり、歩みて三番町に至りしが病婦上野の實家に引取られてよりいろいろ行違の事情あり、幾代留守宅へ立寄る事もいかゞと思ひ人知れず門口を歩み過ぎ九段に出でゝ家に歸りぬ。病婦は其身不治の難病に罹かりしを知らず、一時余と別れ病を養ひし後再び左褄取る心なるが如し、過日大石國手の忠告によれば病婦は遠からず發狂すべき虞あれば今より心して見舞ひにも成りたけ行かぬやうにせよとの事なり、されど此の年月の事を思返せば思慕愛憐の情禁ずべくもあらず、病婦やがて發狂するに至らばその愛狗ポチが行末もいかに成行くにやと哀れいや増すばかりなり、去年今夜の如く暑かりし夜には屡ポチを伴ひ招魂社の樹陰を歩みたりしに、其の人は行きながらにして既に他界のものに異らず、言葉を交ゆるも意思を疎通する事さへかなはぬ病者となり果てたり、悲痛の情寧悼亡の思よりも深しといふばし、終夜眠ること能はず、忽曉に至る、

   9月22日〜満州事変〜

晴、號外賣屡門外を走り過ぐ、滿洲の戦報なるべし、

   10月10日〜幾代その後〜

(※「日」+「甫」)時雨歇みしが風寒きこと冬の如し、夕食の後漫歩三番町幾代その後の様子を窺はむとて立寄りしに、老婆お清は既に暇をとりて在らず、お歌いつの間にやら病癒えたる様子にて丸髷に結ひ襟附きの袷着てゐたり、されど余を見ても應待既に路傍の人に對するが如し、座敷には上らず格子戸口にて立ばなしゝて去りぬ。此夜日比谷邊にて花火を打揚る響頻なり、

   10月11日〜お歌歸り來らず〜

、 ホ(※「日」+「甫」)下風月堂に飯し歸途重て番街の幾代を訪ふ、滯納家賃の件今以て落着せざればなり、母親と話しゐる中お歌ふらりと外に出でしまゝ歸り來らず、女中二人手分して近鄰をさがせしが見當らずとて大さはぎなり、夜も十一時になりたれば隙を窺ひ逃げ歸りぬ。

   10月13日〜愛狗ポチ〜

突然崖を隔てし町のかなたに犬の聲をきく。耳に聞きおぼえある聲なり、小星猶すこやかなりしころ、余の病む折々夕飯の惣菜を携へ、その愛狗ポチをつれ余が家に來りし時、今聞く崖下の犬の太き聲して吠へたりしを、ポチ怪しみて耳を動し、家の内より吠え返したることもありしが、度重るにつれて次第に聞馴れ、遂には知らぬ顔にて其儘爐邊に眠りゐるやうになりぬ。四年來わが病を看護したりしお歌は狂婦となりて再び余が家に來ることはなかるべし。さればポチも亦再び來りてわが寢台の下の瓦斯爐のほとり又は古書散亂の間に眠ることもなかるべきなり、今夜戸外の犬の雨中に吠ゆる聲そのころに異ならず、されど之を聽くものわれ一人のみ、余狂婦の薄命を思ひ涙を飲むばかりなり、

   10月22日〜ポチの子〜

三番町なるお歌が家の小狗(はさ)(はさ)七疋子を産みたりしは、五月十九日の深夜なり、牡犬は芝巴町に住みて放送局に通勤する人の家に飼うはれたるものと云ふ、富士見町の妓豆鶴といふもの此牡犬をつれお歌の家に來りて交尾せしめしなり、ポチの子まだ乳放れのせぬ中飼主お歌急病にかゝり中洲病院に入りしが、家に置きし子犬の事のみ心にかくる故、信州出の女中毎日竹籠に子犬二匹づゝ入れて病院に通ひけり、七匹一度に入れては重くして堪へかだ(ママ)しとの事なりき、入院中二匹は巴町なる牡犬の家につかはしぬ、一匹は牛込の妓〆菊といふものゝ家に貰はれ、一匹は總州市川邊に住めるお歌が姉の許に行き、一匹はまたお歌が家のお客なにがしの家に引取られ、轉じて俳優井上政夫の家に飼はるゝ由なり、一匹は飯倉通の家畜商鳥文の手にていづこへか賣られたり、最後に一匹殘りしもの病院より自働車にて吾家につれ來りぬ、初は望む人あらば贈るべきつもりなりしが、其後お歌病院を出で上野の實家に行きてより紛々起り、遂に手切れのはなしになりし故、せめて其頃の形見にせばやと家に飼ふことになしぬ。

   11月10日〜武斷政治〜

數名の壯士あり卓を圍んで大聲に時事を論ず、窃にきくに、頃日陸軍將校の一團首相若槻某を脅迫し、ナポレオンの顰に倣ひクーデタを斷行せむとして果さず、來春紀元節を期して再擧を謀ると云ふ、今秋滿洲事變起りて以來此の如き不穩の風説到處に盛なり、眞相の如何は固より知難し、然れどもつらつら思ふに、今日吾國政黨政治の腐敗を一掃し、社會の氣運を新にするものは盖武斷政治を措きて他に道なし、今の世に於て武斷専制の政治は永續すべきものにあらず、されど舊弊を一掃し人心を覺醒せしむるには大に効果あるべし、

   12月8日〜幾代家賃の事〜

初更平井辯護士を神田五軒町の家に訪ふ、番街幾代家賃の事につきてなり、

   12月9日〜中野老人〜

晴又陰、午前中野老人代理人吉野某來り幾代亭延滯家賃處分の事を語る、夜平井辯護士を招ぎ相携へて杉並町なる中野老人を訪ふ、老人胃癌にて生命幾くもなき由、代理人吉野のはなしなり、談判の末金子若干を家主に與へ、幾代家屋賃借連帶保証人なる余の名義を取除くこととなす、此にて番街のいく代はお歌一人の名義となりたり、家主は來春早々立退請求の訴をばす手筈なりと云ふ、

   12月15日〜偶然お歌に逢ふ〜

三越前にて偶然お歌に逢ふ、髪はいぼじり巻にて白粉もつけず、コートを着たれば衣類はわからねど半襟は大分汚れたり、家主に金千圓支拂ひたれば決して御迷惑はかけませぬと云ふ、路傍にては話もできねば三越の休憩室に入りて語る、顔立も聲柄も全く變りたれば別人と語るが如き心地して何となく氣味惡し、余ははじめ大石國手の注意により、體よく穩に別るゝ心なりしが事次第に紛糾し、お歌をはじめ一家の者余の事を薄情なりとて深く怨みゐるものゝ如し、若しこの後お歌の健康別條なく全快することあらん歟、事件はますます糾錯するに至るべし、出雲町角にてわかれ家にかへる、枕につきしがさまざまのこと胸に浮來りて眠り難し、五更の頃驟雨襲來る、

   12月17日〜家主中野光嘉〜

晴、番街のお歌を訪ひ家主中野光嘉余が方より金五百圓詐取の事を知り大に驚く、證書照し合のためお歌わが家に來る、今夏六月末發病後半歳にして始てわが家に來りしなり、狗只魯舊主を忘れず抃喜すること小兒の母を見るが如し、

   12月24日〜お歌突然來りぬ〜

陰、午後お歌突然自働車に新調の夜具を載せて訪ひ來りぬ、今夏發病前余が方に送り届けべき夜具なりしを其後の紛々にて一時そのまゝになり居たりしをなり、お歌の病今日のところにては全快せし様子なれど來年春夏の頃再發するやも知れず、されど一時は生命もいかゞと思はれし身の、兎に角全快の様子になりしは目出たき限りなり、これにて番街との關係も先は圓滿に片がつきしわけなり、

   12月31日〜除夜の鐘〜

去る辰の年より此方毎年除夜の鐘はお歌の許にて聽きしかど、今年は我家にて机上に之を聽く、感慨淺からざるなり、筆硯を洗ひ香を焚いて後靜に寢に就く、

昭和7年(1932年)

   1月8日〜桜田門事件

銀座食堂にて夕飯を食し家に歸らむとするに、尾張町四辻に人多く佇立みて、朝日新聞社樓上に仕掛けたる電光報知を見る、此日正午頃韓人爆彈を櫻田門外に投じたる事件、及び犬飼(ママ)内閣總辭職の事なり、

   2月1日〜矢切の渡し

堤に登りて見れば水の流は廣からず、兩岸の河原茫漠として枯蘆のみ限りもなく茂りたるを、處々稻のやうに刈りて束ねたり、蘆の間に一條の小道あり、水邊に達するところに渡船の札を立てたり、思ふに矢切の渡しといふはこれなるべし、折から夕陽は高き堤に遮られて空に浮く雲のみ赤く、渡場のあたりは夕暮刻々迫り來りて舟を待つ人の影もなし、上流の鐵橋に電燈の光きらめきそむる頃來路を歩みて停車場に至る、

   2月2日〜富賀岡八幡宮

本殿の傍に發句を刻したる碑三基あり、目にかゝる雲やしはしの渡鳥芭蕉小柴暉雄書文化二乙丑年初秋建之舎雄草風以下俳人の名多く刻したり こゝらにそ鳥居ありたき汐干道七十三翁五明橋石文 などの文字見ゆ、本殿の後に池あり、池のかなたに冨士を築き講中の石碑二三基あり、又淺間神社之碑あり社殿はなし 鳥居前の舊道を半町ほど行けば直に放水路の堤防に至る。

   3月25日〜銀座の柳

歸途數寄屋橋朝日新聞社入口に銀座の柳復活記念祭とか書きたる掲示を見る。かゝる事に復活といふ宗教上の語を用るも之を見て怪しみ笑ふものなし。言葉の亂かゝは人心の亂れたるを証するものなり。

   4月1日〜州崎弁天

辨天橋をわたり州崎辨天の祠に詣で、河岸通を西に進みて平野橋に出づ。

   4月9日〜日本の陸軍〜

余つらつら徃時を追憶するに、日清戰爭以來大抵十年毎に戰爭あり。即明治三十三年の義和團事變、明治卅七八年の征露戰爭、大正九年の尼港事變の後は今度の滿洲上海の戰爭なり。而して此度の戰爭の人氣を呼び集めたることは征露の役よりも却て盛なるが如し。軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭禮の賑に異らず。今や日本全國擧つて戰捷の光榮に醉へるが如し。世の風説をきくに日本の陸軍は滿洲より進んで蒙古までをわが物となし露西亞を威嚇する計畧なりと云ふ。武力を張りて其極度に達したる曉獨逸帝國の覆轍を踐まざれば幸なるべし。百戰百勝は善の善なる者に非らず、戰ずして人の兵を屈するは善の善なる者とは孫子の金言なり。此の兵法の奥義は中華人能く心得てゐるやうなり。

   4月11日〜長慶寺

長慶寺は今猶もとの地に在り。されど墓地は取拂はれて其跡なく、新しき石門閉されたれば一見して寺とは見えず紳士の邸宅のごとし。

   4月18日〜柾木稻荷〜

いつもの如く清洲橋をわたり、萬年橋北詰の小道に入り、柾木稻荷を尋ぬるに、震災後の新築にて石の鳥居も亦路のほとりに建てられたり。祠の裏大川の岸には水上警察署在り。此の小道は西元町なり柾木稻荷の筋向に芭蕉翁の小祠あり。芭蕉庵の由來及神社建立の主旨を書きたる高札を立てたり。

   4月21日〜お歌來る〜

晴れて風あり。午後お歌來る。笄阜君また來り訪はる。昨夜初更銀座太訝樓にて醉客鬪爭。二人匕首にて刺され死したる由。日の暮るゝ頃お歌を伴ひ銀座二丁目オリンピツクに飯す。

   4月25日〜芭蕉の句碑

洋傘を杖にしてとぼとぼと歩み行くこと七八町にして丸八橋に至る。木橋にて欄干も半朽ちかけたり。對岸大島町の方に鳥居立ちたれば橋をわたりて立寄り見るに、東向に建てられし社殿一棟あれど、額なければ何の社なるを知らず。思ふに稲荷社なるべし大なる枯木二本あり。又路傍の華表には天保八丁酉歳六月吉日と刻したり。社殿の前に芭蕉の句碑あり。左圖の如し。東鄰に勝智院眞言宗智山派といふ寺あり。又小名木神社あり。拜殿の傍に朽廢したる小社ありて、小さき石に水神の二字を刻したり、境内に枯れたる古松二三かぶあり。

   5月13日〜お歌來る〜

晴れて忽暑し。晝頃お歌愛狗ポチを引きて來る。虎の門まで髪結ひに來りし歸りなりといふ。

   5月15日〜犬養毅を射殺

日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から號外賣の聲俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に亂入して犬養毅を射殺せしと云ふ。警視廳及政友會本部にも同刻に軍人亂入したる由。初更の頃家に歸るに市兵衞町横町の角々に巡査刑事二三名づゝ佇立み、東久邇宮邸門前には七八名立ち居たり。如何なるわけあるにや。近年頻に暗殺の行はるゝこと維新前後の時に劣らず。然れども兇漢は大抵政黨の壯士又は血氣の書生等にして、今囘の如く軍人の共謀によりしものは、明治十二年竹橋騒動以後曾て見ざりし珍事なり。

   5月26日〜お歌來る〜

正午お歌來る。狗ポチ今年は三頭子を生みたりとて、切りたる子犬の尾を箱に納めわが家の庭に埋め、三時頃歸り去りぬ。

   6月20日〜お歌來る〜

晴。午後お歌ポチをつれ子犬三匹を竹籠に入れて來る。夜銀座に徃きて晩餐を共にす。

   7月4日〜お歌來る〜

晴れて風涼し。午後下女を中洲病院に遣しけるに、偶然お歌に逢ひたる由。倶に自働車にて來る。お歌數日來氣分甚よろしからず、去年發病せしは恰今頃のことなれば病の再發せむことを虞れて、藥を求めに行きしとの事なり。夕刻銀座二丁目に徃き倶に晩餐をなし、お歌をその家に送りて歸る。ポチの子三匹とも恙なく最早乳離れもせし様子なり。

   7月8日〜お歌來り訪ふ〜

午後お歌中洲病院の歸途來り訪ふ。雨のはれ間を窺ひ倶に銀座に出でゝ晩餐をなす。食後お歌氣分俄に惡しくなりたりとて車にて其家に歸り去れり。

   7月11日〜阿歌來り訪ふ〜

晴。ホ(※「日」+「甫」)時三番町の阿歌中洲病院の歸りなりとて來り訪ふ。いつもの如く銀座に徃き倶に夕飯を食す。たまたま街上にて神代氏に會ひ其の知人なる室澤寫眞師を訪ふ。撮影すること數葉なり。お歌その家に用事ありとて車を倩うて去る。神代氏と共に岡崎榮女の酒塲に憩ひ閑談夜分に至る。

   10月12日〜お歌たよりなし〜

此夜舊暦の九月十三夜にて月色清奇なり。二年前まで數年の間お歌が家の二階にて夜ふくるまで月見しことなど思出して悵然たり。お歌九月のはじめに訪來りてより其後杳然としてたよりなし。いかゞせしや。

   11月8日〜青山脳病院

快晴。午前青山腦病院に徃き齋藤博士の診察を請ふ。多年の不眠症いよいよ甚しくこの夏より筆硯全く廢絶するに至りぬ。然るに大石博士の方劑も既に効なく、且又去年お歌病氣の時大石君の診斷一行當らざりが故、神代君を介して齋藤氏を訪ひしなり。

   11月23日〜〜お歌より葉書〜

晴。風邪家を出でず。三番町のお歌熱海より葉書を寄す。

   11月29日〜〜お歌に逢ふ〜

晩間銀座オリンピクに飯す。偶然三番町のお歌某氏夫人と共に來るに逢ふ。又高橋邦太郎氏に逢ふ。尾張町にてお歌とわかれ高橋氏と共に万茶に一茶す。

   11月30日〜〜お歌來る〜

晴れて寒し。午後お歌夜具蒲團を仕立て自働車に載せて來る。深情感謝すべし。お歌とは、去夏六月お歌奇病に襲はれし以前閨中の交いつともなく跡絶えゐたり。然るに去年十二月家主中野某わが方よりお歌が滯納家賃五百圓を二重取りせし事あり。其事よりお歌との交際再び行はるゝやうになりしが、其後はいかなる人の世話になり居るにや、其等の事情知りがたき故、余は今以て表面だけの交際をなし居れるなり。曾て譯ありし女と一時別れし後再び徃來するやうになりて半年一年と月日をふるや、冷靜なる交情、さながら親戚の娘または眞身の妹と相語るが如き心持となるものなり。此日も忽暮近くなりたれば銀座に徃きて食事を共にせむとさそひしが、お歌は何か心すゝまぬ様子にてその家に歸りぬ。余はオリンピクにて食事をなし、八丁堀邊を散歩し、万茶に少憩して家にかへり、お歌が縫ひたる新しき夜具の上に横たはりしが、さまざまの事心に浮び來て眠ること能はず。いつか鷄の聲きゝぬ。

   12月20日〜〜お歌來る〜

晴。南風吹きて暖なり。ホ(※「日」+「甫」)下お歌來る。相携へて銀座に徃き晩餐をなす。

昭和8年

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