五月朔日 蓼太老人の催しにて、隅田川に舟せうようす。在五中将の古き物語ども思出て、誠に遠くも来けりと覚ゆ。梅わか丸の塚を弔ひて、
幟たつころ木母寺の猶あはれ
五百羅漢堂にて、
仰向は子規きく羅漢かも 只言
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梅若の柳も雪のあしたかな 金令
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文化5年(1808年)3月20日、小林一茶は梅若塚を詠んでいる。
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角田堤
雉なくや彼の梅わかの涙雨
『花見の記』 |
明治の世となり、木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが、同寺再興の翌年(同22年)佛式に復歸しました。
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明治24年(18981)春、正岡子規は木母寺の茶店に試験勉強のため逗留した。
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けれども試験を受けぬ訳には往かぬから試験前三日といふに哲学のノート(蒟蒻板(こんにゃくばん)に摺(す)りたる)と手帳一冊とを携へたまま飄然と下宿を出て向島の木母寺へ往た。
『墨汁一滴』 |
明治31年(1898年)、子規は梅若神社を歌に詠んでいる。
梅若神社
わが塚にうゑよといひし道のへの一本柳その柳かも
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現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています。
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3月15日の梅若忌に大念仏が行われる。
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