旅のあれこれ〜文 学
永井荷風ゆかりの女性
関根うた
麹町富士見町河岸家抱鈴龍、昭和二年九月壹千圓にて身受、飯倉八幡町に圍ひ置きたる後昭和三年四月頃より富士見町にて待合幾代といふ店と出させやりたり、昭和六年手を切る、日記に詳なればこゝにしるさず、實父上野櫻木町々會事務員
『斷腸亭日乘』(昭和11年1月30日) |
病床に在り、晩間麹町の妓阿歌病を問ひ來る、
『斷腸亭日乘』(9月4日)
驟雨を太牙樓に避く、歸途窃に阿歌を見る、阿歌妓籍を脱し麹町三番町一口坂上横町に間借をなす、
『斷腸亭日乘』(9月12日)
夜お歌と神田を歩み遂にその家に宿す、お歌年二十一になれりといふ、容貌十人並とは言ひがたし、十五六の時分に身を沈めたりとの事なれど如何なる故にや世の惡風にはさして染まざる所あり、新聞雜誌などはあまり讀まず、活動寫眞も好まず、針仕事拭掃除に精を出し終日襷をはづす事なし、昔より下町の女によく見らるゝ世帶持の上手なる女の如し、余既に老いたれば今は圍者置くべき必要もさしては無かりしかど、當人頻に藝者をやめたき旨懇願する故、前借の金もわづか五百圓に滿たざる程なるを幸ひ返濟してやりしなり、カツフヱーの女給仕人と藝者とを比較するに藝者の方まだしも其心掛まじめなるものあり、如何なる里由にや同じ泥水家業なれど、兩者の差別は之を譬ふれば新派の壯士役者と歌舞伎役者との如きものなるべし、
『斷腸亭日乘』(9月17日)
夜來の雨歇まず、お歌の許に留りて晝餉を食し、昏墓家に歸る、深更また雨、
『斷腸亭日乘』(9月18日)
今日もまた曇りて肌寒し、心地さはやかならず、夜お歌の家を訪ふ、遂に宿す、
『斷腸亭日乘』(9月20日)
碧空拭ふが如く晴れ渡りしが風冷なること初冬の如し、お歌手早くトーストに珈琲を煮て朝餉をすゝむる故、何かと打語らひ、正午家に歸りて眠を貪る、
『斷腸亭日乘』(9月21日)
夜一口坂にお歌を訪ひ倶に淺草の觀音堂に賽す、風露冷なるが故にや仲店より池畔見世物小屋の邊いづれも寂寞たり、
『斷腸亭日乘』(9月26日)
風雨瀟々たり、終日電灯を點じて中央公論の草稿をつくる。夜お歌を訪ひ一宿す、
『斷腸亭日乘』(12月30日)
夜壷中庵を訪ひお歌を伴ひ淺草觀音堂に詣づ、傳法院裏門より廣小路に通ずる公園内の街路は商店夜市の繁榮は却て雷門仲店を凌駕せむとする勢なり、自働車にて富士見町に徃き、お歌の識れる一茶亭に登る、支那風と西洋風との寢室あり、また朝鮮服着たる韓人の女中一人あり、日本人の女中と共に立働くさま頗奇なり、兎角する中夜も三更を過ぎ風吹出でゝ寒くなりし故、主婦の勸むるがまゝ一室に床敷かせて寢に就くに、鄰房に醉客あり、同衾中とおぼしき妓の既につかれて眠れるを、いくたびか揺り起して挑まむとする物音、人をして抱腹絶倒せしめしが、それも暫くにして歇むや、窓外の路地にひゞく下駄の音遽に稠くなりて、女供の笑ふ聲も聞え出しぬ、元旦の髪結ふべき番札を取らむとて、女供大晦日の日の明けやらぬ中より先を爭ひ女髪結の許に赴くなりと云ふ、眠りに就きしは雨戸のすき間に早くも朝日のさしそめし頃なり、
『斷腸亭日乘』(12月31日)
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晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拜墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り來りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雜司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拜して後柳北先生の墓前にも香花を手向け、歩みて關口の公園に入る、
『斷腸亭日乘』(1月2日)
夜お歌來る、
『斷腸亭日乘』(1月4日)
先夜お歌と一宿せし待合に入り、夜もふけしがまゝ再び宿して曉を待つ事となしぬ、
『斷腸亭日乘』(1月8日)
昏K壷中庵を過ぎお歌を携へ麹坊の待合山貳といふ家に登りて夕餉をなす、内儀はもと北郭の娼なりしといふ、夜半壷中庵に歸りて宿す、是夜温暖春の如し、
『斷腸亭日乘』(1月16日)
夕餉をすませて後お歌を伴ひ物買ひにと銀座に出で初更を過ぎて家に歸る。
『斷腸亭日乘』(1月22日)
昏K阿歌夕餉の惣菜を携へ病を問ひ來れり、
『斷腸亭日乘』(2月2日)
阿歌芝口玉木屋の味噌佃煮を購ひ來る、余十年前築地に假住居せし頃には日々玉木屋の煮豆味噌などを好みて食しぬ、是日たまたま重ねて是を口にするに、その味十年前と更に異る所なし、玉木屋はさすがに江戸以來の老舗なる哉、何年たちても店の品物を粗惡になさゞるは當今の如き世に在りては誠に感ずべきことなり、當世の日本人初めて商舗を開くや初めの中は勉強して精を出すと雖少しく繁昌すると見れば忽品質をわろくして不正の利を貪るものなり、啻に商人のみならず是日本人一般の通弊なり、余常にこれを憎むが故にたまたま玉木屋の味噌を嘗めて、其の味の依然として醇美なるを知るや、喜の餘り大に主人の徳義を稱揚せずんばあらず、
『斷腸亭日乘』(2月3日)
薄暮阿歌銀座風月堂のさんどいつちを持り(ママ)來りし故葡萄酒を飲み珈琲を煮て夕餉を食す、食後お歌に肩を揉ませて一睡するほどに、鄰家に人の聲す、寤めて心づけば今宵は節分にて鬼を追ふなり、十二時近くお歌歸る、月明晝の如し、
『斷腸亭日乘』(2月4日)
薄暮お歌夕餉の惣菜を携へ來ること毎夜の如し、此の女藝者せしものには似ず正直にて深切なり、去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より滿足して余に事へむとするものゝ如し、女といふものは實に不思議なるものなり、お歌年はまだ二十を二ッ三ツ超したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり、むかしは斯くの如き妾氣質の女も珍しき事にてはあらざりしならむ、されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と稱する民權主義の都會に、かくの如きむかし風なる女の猶殘存せるは實に意想外の事なり、絶えて無くして僅に有るものとも謂ふべし、
『斷腸亭日乘』(2月5日)
昨夜十一時お歌歸り去らむとする時雪まじりの小雨降り出でしかば、電話にて車を呼び寄せけり、今朝ねむりより寤めて窓外を見るに、雪はつもりし上に猶紛々として降りしきりたり、
『斷腸亭日乘』(2月6日)
ホ(※「日」+「甫」)時葵山君來、雜談する中日は暮れてお歌訪ひ來りしかば始めて葵山君に引合せ、倶に銀座通の洋食屋藻波に徃きて晩餐をなし歸途太牙に憩ふ、女給仕人お美代といふもの元富士見町の藝者にて家橘と呼ばれしものゝ由、偶然お歌と顔を見合せ互に一驚し喃々として舊事を語れり、その状頗る興味あり、閉店の時刻來らむとする頃出でゝ家に歸る、今宵も亦月あり風寒からず、
『斷腸亭日乘』(2月10日)
是日衆議院總選擧投票發表の當日なればにや門外號外賣の聲絶る間もなし、薄暮山形ほてるにて夕餉をなし壺中庵を訪ふ、お歌選擧當日の夜なれば銀座通定めて人出多かるべしといふ、相携へて赴き見るに電車街上共に平日よりも靜なり、夜店の商人もまだ十時頃なるに早く荷を片づくるものあり、
『斷腸亭日乘』(2月21日)
三番町待合蔦の家の亭主妹尾某なるもの衆議院議員選擧候補に立ち、そのため借金多くなり待合蔦の家を賣物に出す、お歌以前より蔦の家の事を知りゐたりしかばその安登を買受け待合營業したしと言ふ、四五日前よりその相談のためお歌兩三度三番町見番事務所へ徃き今日正午までに是非の返事をなす手筈なり、それ故余が方にては東京海上保險會社の株券を賣り現金の支拂何時にてもでき得るやうに用意したりしが先方賣拂の相談まとまらず一時遂に見合せとなる、お歌落膽すること甚し、
『斷腸亭日乘』(3月17日)
是日早朝電話局の工夫來りて電話器をはづして去る、過日予が家の電話を三番町なるお歌の許に移すべき手續をなしたればなり、近來書肆雜誌社または見知らぬ人より電話をかけ來ること甚頻繁なり、今日より家内に電話なければ呼鈴の響に午睡の夢を破らるゝ虞もなし、
『斷腸亭日乘』(8月3日) |
すこしく暖なり、午後お歌來る、銀座藻波に飯して初更家に歸る、此日寒の入りなり、
『斷腸亭日乘』(1月6日)
ホ(※「日」+「甫」)時お歌來る、昏K相携へて銀座に出で銀座食堂に飯す、蛤の吸物味甚佳なり、
『斷腸亭日乘』(1月10日)
正午お歌晝餉の惣菜を持ち來る、午後書篋を整理す、昏Kお歌を伴ひ銀座食堂に飯す、寒風歇まず、加ふるに正月十六日の故にや露店の商人出で來らず、銀座通行人寥々たり、溜池にてお歌に別れ家に歸る、
『斷腸亭日乘』(1月16日)
午後お歌來りしかば出雲町の藻波に飯し三番町を過ぎて歸る、
『斷腸亭日乘』(1月22日)
快晴、稍暖なり、ホ(※「日」+「甫」)下お歌來る、銀座食堂に飯し三番町を過ぎて歸る、お歌明日參州豐川稻荷へ参詣に赴くべしといふ、
『斷腸亭日乘』(1月26日)
晴れて風涼し、終日三番町に在り、夜お歌を伴ひ銀座を歩む、三丁目の角に蓄音機を賣る店あり、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く、沓掛時次郎とやらいふ流行唄の由なり、
『斷腸亭日乘』(6月25日) |
中洲に徃きて其の歸途銀座太訝樓に憩ふ、電話にて小星を招き銀座食堂にて夕餉をなす、風寒きこと冬の如く星の光身に染むばかりなり、
『斷腸亭日乘』(9月19日)
ホ(※「日」+「甫」)下番街のお歌小狗を携へ自働車にて新調の夜具寢衣を運來る、深情悦ぶべし、
『斷腸亭日乘』(9月28日)
快晴、午後に至つて風あり、小星來り訪ふ、相携へて散策す、
『斷腸亭日乘』(10月1日)
晴、十六夜の月佳し、終日病蓐に在り、小星來る、
『斷腸亭日乘』(10月7日)
晴、臥病、ホ(※「日」+「甫」)下小星來る、
『斷腸亭日乘』(10月8日)
陰、臥病、手紙を稻叟の許に送る、小星愛狗を携へて來る、夜に入り雨ふる、
『斷腸亭日乘』(10月9日)
晴、午後稻叟來談、夜小星來訪、
『斷腸亭日乘』(10月15日)
晴、午後稻叟を訪ふ、小星山兒の事を探知せりと云ふ、
『斷腸亭日乘』(10月18日)
晴、ホ(※「日」+「甫」)下小星來訪、
『斷腸亭日乘』(10月23日)
腹痛未癒えず氣分すぐれず食を斷つ、昏Kお歌狗を携へて病を問ひ來る、
『斷腸亭日乘』(11月2日)
二更のころまで小星と月を賞して麻布に歸る、
『斷腸亭日乘』(11月3日)
天氣好晴、ホ(※「日」+「甫」)時中洲に徃き、歸途酒館太訝樓に憩ひ、小星の來るを待ち銀座食堂に飯す、太訝樓婢昨今葵山子銀座新聞社々員等と折々來遊の由を告ぐ、
『斷腸亭日乘』(11月4日)
晴天、午下小星來る、
『斷腸亭日乘』(11月29日)
晴天、灯ともし頃お歌日比谷公會堂に開かれし小波先生還暦祝賀演技會の歸りなりとて來る。倶に銀座食堂に徃き夕餉を食す。
『斷腸亭日乘』(12月7日)
晴、微恙あり、夜お歌來る、
『斷腸亭日乘』(12月26日)
晴、微恙あり、午下小星來る、
『斷腸亭日乘』(12月30日)
夜番街のお歌を訪ひ夜半家に歸る。車上除夜の鐘を聞く、
『斷腸亭日乘』(12月31日) |
午後より雪降る、夜小星を訪ひ屠蘇一盞を飲み十一時頃自働車にて歸る、雪歇まず、
『斷腸亭日乘』(1月1日)
夜番街に徃く、小星この日七庚申に當りしとて柴又帝釋天に參詣せし由、十七夜の月皎々たり、
『斷腸亭日乘』(1月5日)
快晴、和暖、午前稻叟を訪ふ、午後揮毫二三葉、夜三番街の小星を訪ふ、
『斷腸亭日乘』(1月29日)
夜市ケ谷に稻叟を訪ひ、番街に小星を訪うて歸る、月に笠あり、
『斷腸亭日乘』(1月31日)
北風吹きすさみて寒し、午後小星來る、夜に入りて風休む、園香を訪ふ、
『斷腸亭日乘』(2月24日)
黎明大石國手來診、注射治療をなす、惡熱少しく退く、小星來つて病を看護す、夜大石君雨を冒して再來診、また注射をなす、
『斷腸亭日乘』(3月11日)
黎明、惡寒再發、体温再四十度に昇る、笄阜子來り注射をなす、子は曾て慶應大學醫學部に在り醫事に通ずるを以てなり、小星終日病を看る、
『斷腸亭日乘』(3月16日)
小星日々來りて病を看護す、
『斷腸亭日乘』(3月16日)
春日麗朗、病起始めて脚を試む、午下神樂阪の鶴福に至り園香を招ぎ晝餉をなす、
『斷腸亭日乘』(3月22日)
晴、終日執筆、夜小星來る、雷雨須臾にして霽る、
『斷腸亭日乘』(3月23)
終日困臥、午後小星狗を携へて來る、同じく風邪の氣味なりといふ、
『斷腸亭日乘』(3月26日)
午後小星來る、夜雨ふる
『斷腸亭日乘』(3月31日)
晴、ホ(※「日」+「甫」)下小星來る、夜雨ふる、
『斷腸亭日乘』(4月3日)
晴、ホ(※「日」+「甫」)下小星再病を問ひ來る、夜執筆、
『斷腸亭日乘』(4月4日)
昏K家に歸るに小星來りて余を待てり、夕餉を倶にす、
『斷腸亭日乘』(4月6日)
風冷なり、薄暮小星來り九段社頭の花既にちり初めしといふ、燈火執筆、
『斷腸亭日乘』(4月7日)
晴、南風烈しく鄰家の落花雪の如し、終日燈火執筆、夜小星來る、
『斷腸亭日乘』(4月16日)
終日草藁をつくる、夜小星來訪、
『斷腸亭日乘』(4月22日)
晴、終日机に凭る、暮夜小星來る、夜風あり、
『斷腸亭日乘』(4月26日)
快晴、薄暑を催す、幸橋税務署より通知書來る、麻布の家の電話無用なるを以て三番町なる小星<の許にかけ替へしは兩三年前の事なり、税務署の吏之を探り出し、電話の賃貸をなせるものとなし課税せむとす、楊枝の先にて重箱のすみをほじくるとは實にかくの如きことを謂ふなり、衰世の状思ふべし、此日午後笄阜子來訪、また葵山子の返簡を得たり、微恙あり怏々として樂しまずと云ふ、暮夜小星來る、
『斷腸亭日乘』(4月28日)
快晴、終日讀書、黄昏葵山君來訪、小星亦來る、銀座食堂に至りて飯す、酒肆太牙に憩ひ葵山子を送りて家に歸る、疲勞甚し、
『斷腸亭日乘』(5月5日)
風雨夜に入るも歇まず、小星來訪、
『斷腸亭日乘』(5月12日)
黄昏小星來訪、執筆夜に至る、
『斷腸亭日乘』(5月17日)
晴又陰、小星の愛狗七疋子を生みたりと聞き徃きて見る、遅々亭に少憩して歸る、
『斷腸亭日乘』(5月20日)
晴、終日机に凭る、黄昏小星來る、相携へて銀座食堂に飯す、街上に偶然吉井伯爵に逢ふ、
『斷腸亭日乘』(5月23日)
黄昏小星來訪、
『斷腸亭日乘』(5月26日)
薄暮小星來る、三更雷雨、
『斷腸亭日乘』(5月28日)
晩餐の後雨の晴るゝを見て小星を訪ふ、小星余の歸るを送りて麻布に至らむとする途中、車上遽に發病、苦悶のあまり昏眩絶倒す、家に抵るや直に番町藝妓見番出入の醫師柳川氏を招ぎ應急の手當をなさしむ、然れども何の病なるを知ること能はず、余の看る所を以てすれば早打肩と稱するものゝ如し、看護して曉に到る、
『斷腸亭日乘』(6月24日)
梅雨歇みては又降る、午前醫師柳川氏來診、小星の病小康を示す、午後杏花子來り訪はる、市川中車の病を狸穴の家に問はれし歸途なりといふ、終日小星の病を看護す、疲勞すること甚し。
『斷腸亭日乘』(6月25日)
雨歇む、正午お歌を自働車に乘せ中洲病院に徃き入院せしむ、余枕頭に坐して慰撫し夜初更に至る、窓外水上の夜色甚佳し、歸途市ケ谷に徃き稻叟の病を問ふ、此日不在中笄阜子來り訪はる、
『斷腸亭日乘』(6月26日)
晴、午後笄阜子來る、ホ(※「日」+「甫」)下中洲病院にお歌の病を問ふ、
『斷腸亭日乘』(6月27日)
晴れて暑し、午後笄阜子來る、相携へて中洲病院に徃く、お歌の病未痊えず、醫師の語る處を聞くに瘋癲病に陷る虞はなし、されどヒステリイの強きものなれば尚一兩日在院靜養の必要ありと、女子と小人は洵に養ひがたきものなり、夜初更笄阜子と共に病院を出で銀座太訝樓に憩ふ、
『斷腸亭日乘』(6月28日)
晴、午後お歌の病を問ふ、麹坊の妓音千代榮龍等同じく病を問來るに會ふ、病院屋上の庭園に登り河上の眺望を喜ぶ、
『斷腸亭日乘』(6月30日)
晴、暑氣未甚しからず、午後中洲病院に小星の病を問ふ、夜遅々亭に一酌して歸る、
『斷腸亭日乘』(7月1日)
薄暮中洲に小星の病を問ふ、歸途二更の頃永代橋上に月の昇るを看る、月嶋のかなたに横雲のたな曳渡るさま清親の筆の如し、
『斷腸亭日乘』(7月2日)
晴、午後笄阜子來談、ホ(※「日」+「甫」)下中洲に徃き脚氣注射の後二階の病室にお歌を訪ふ、夜初更芝口の橘花子を訪ひ一茶して歸る、
『斷腸亭日乘』(7月3日)
午後雷霆霹靂、驟雨沛然たり、ホ(※「日」+「甫」)時雨晴るゝを待ち中洲に徃くに途上重ねて驟雨あり、
『斷腸亭日乘』(7月4日)
晴、ホ(※「日」+「甫」)下お歌の病を問ふ、歸途人形町通を歩む、水天宮の賽日にて賑なり、
『斷腸亭日乘』(7月5日)
雨歇みてはまた降る、ホ(※「日」+「甫」)時中洲に徃く、小星入院して早くも十日目となりしが、病勢依然たり、一時は稍快方に赴く事もあるべけれど、待合の商賣などはもはや出來まじく、行々は遂に發狂するに至るべしと、大石博士の診斷なり、人の運命は洵に測り知るべからず、お歌年僅に二十五にて此の如き病に陷りたるも前世の因縁なるべし、哀れむべきことなり、夜二更雨を冒して家に歸る、
『斷腸亭日乘』(7月6日)
午前お歌が親戚のものを招ぎ行末の事を相談す、午後雨霽る、遅々亭に徃き夕餉を食して歸る、
『斷腸亭日乘』(7月7日)
晴又曇、夜小星の病を問ふ、
『斷腸亭日乘』(7月8日)
午後三時過杏花子歌舞伎座出勤の時刻なれば倶にその自働車に乘り、丸の内にて用事を辨じ中洲に徃く、驟雨車軸のごとし、お歌の病室にて夕餉を食し初更家に歸る、途中また驟雨に値ひたれば、辻自働車に乘りしに、此夕刻九段阪下にて圓タクと電車衝突し即死二人ありしと、運轉手のはなしなり、
『斷腸亭日乘』(7月9日)
ホ(※「日」+「甫」)時中洲に徃く、大石國手にお歌の事を問ふに本月下旬のころ迄入院靜養するがよかるべしとの事なり、二更雨中家に歸る、
『斷腸亭日乘』(7月10日)
夜番街小星の留守宅に徃き留守居の老婆に生計の事を問ふ、偶然杵屋五叟の來るに逢ふ、深夜車を同じくして歸る、雨やまず、
『斷腸亭日乘』(7月11日)
市ケ谷に稻叟を訪ひしが不在なり、歩みて三番町に至りしが病婦上野の實家に引取られてよりいろいろ行違の事情あり、幾代留守宅へ立寄る事もいかゞと思ひ人知れず門口を歩み過ぎ九段に出でゝ家に歸りぬ。病婦は其身不治の難病に罹かりしを知らず、一時余と別れ病を養ひし後再び左褄取る心なるが如し、過日大石國手の忠告によれば病婦は遠からず發狂すべき虞あれば今より心して見舞ひにも成りたけ行かぬやうにせよとの事なり、されど此の年月の事を思返せば思慕愛憐の情禁ずべくもあらず、病婦やがて發狂するに至らばその愛狗ポチが行末もいかに成行くにやと哀れいや増すばかりなり、去年今夜の如く暑かりし夜には屡ポチを伴ひ招魂社の樹陰を歩みたりしに、其の人は行きながらにして既に他界のものに異らず、言葉を交ゆるも意思を疎通する事さへかなはぬ病者となり果てたり、悲痛の情寧悼亡の思よりも深しといふばし、終夜眠ること能はず、忽曉に至る、
『斷腸亭日乘』(8月26日)
ホ(※「日」+「甫」)時雨歇みしが風寒きこと冬の如し、夕食の後漫歩三番町幾代その後の様子を窺はむとて立寄りしに、老婆お清は既に暇をとりて在らず、お歌いつの間にやら病癒えたる様子にて丸髷に結ひ襟附きの袷着てゐたり、されど余を見ても應待既に路傍の人に對するが如し、座敷には上らず格子戸口にて立ばなしゝて去りぬ。此夜日比谷邊にて花火を打揚る響頻なり、
『斷腸亭日乘』(10月10日)
ホ(※「日」+「甫」)下風月堂に飯し歸途重て番街の幾代を訪ふ、滯納家賃の件今以て落着せざればなり、母親と話しゐる中お歌ふらりと外に出でしまゝ歸り來らず、女中二人手分して近鄰をさがせしが見當らずとて大さはぎなり、夜も十一時になりたれば隙を窺ひ逃げ歸りぬ。
『斷腸亭日乘』(10月11日)
突然崖を隔てし町のかなたに犬の聲をきく。耳に聞きおぼえある聲なり、小星猶すこやかなりしころ、余の病む折々夕飯の惣菜を携へ、その愛狗ポチをつれ余が家に來りし時、今聞く崖下の犬の太き聲して吠へたりしを、ポチ怪しみて耳を動し、家の内より吠え返したることもありしが、度重るにつれて次第に聞馴れ、遂には知らぬ顔にて其儘爐邊に眠りゐるやうになりぬ。四年來わが病を看護したりしお歌は狂婦となりて再び余が家に來ることはなかるべし。さればポチも亦再び來りてわが寢台の下の瓦斯爐のほとり又は古書散亂の間に眠ることもなかるべきなり、今夜戸外の犬の雨中に吠ゆる聲そのころに異ならず、されど之を聽くものわれ一人のみ、余狂婦の薄命を思ひ涙を飲むばかりなり、
『斷腸亭日乘』(10月13日)
三番町なるお歌が家の小狗(はさ)(はさ)七疋子を産みたりしは、五月十九日の深夜なり、牡犬は芝巴町に住みて放送局に通勤する人の家に飼うはれたるものと云ふ、富士見町の妓豆鶴といふもの此牡犬をつれお歌の家に來りて交尾せしめしなり、ポチの子まだ乳放れのせぬ中飼主お歌急病にかゝり中洲病院に入りしが、家に置きし子犬の事のみ心にかくる故、信州出の女中毎日竹籠に子犬二匹づゝ入れて病院に通ひけり、七匹一度に入れては重くして堪へかだ(ママ)しとの事なりき、入院中二匹は巴町なる牡犬の家につかはしぬ、一匹は牛込の妓〆菊といふものゝ家に貰はれ、一匹は總州市川邊に住めるお歌が姉の許に行き、一匹はまたお歌が家のお客なにがしの家に引取られ、轉じて俳優井上政夫の家に飼はるゝ由なり、一匹は飯倉通の家畜商鳥文の手にていづこへか賣られたり、最後に一匹殘りしもの病院より自働車にて吾家につれ來りぬ、初は望む人あらば贈るべきつもりなりしが、其後お歌病院を出で上野の實家に行きてより紛々起り、遂に手切れのはなしになりし故、せめて其頃の形見にせばやと家に飼ふことになしぬ。
『斷腸亭日乘』(10月22日)
晴又陰、午前中野老人代理人吉野某來り幾代亭延滯家賃處分の事を語る、夜平井辯護士を招ぎ相携へて杉並町なる中野老人を訪ふ、老人胃癌にて生命幾くもなき由、代理人吉野のはなしなり、談判の末金子若干を家主に與へ、幾代家屋賃借連帶保証人なる余の名義を取除くこととなす、此にて番街のいく代はお歌一人の名義となりたり、家主は來春早々立退請求の訴をばす手筈なりと云ふ、
『斷腸亭日乘』(12月9日)
三越前にて偶然お歌に逢ふ、髪はいぼじり巻にて白粉もつけず、コートを着たれば衣類はわからねど半襟は大分汚れたり、家主に金千圓支拂ひたれば決して御迷惑はかけませぬと云ふ、路傍にては話もできねば三越の休憩室に入りて語る、顔立も聲柄も全く變りたれば別人と語るが如き心地して何となく氣味惡し、余ははじめ大石國手の注意により、體よく穩に別るゝ心なりしが事次第に紛糾し、お歌をはじめ一家の者余の事を薄情なりとて深く怨みゐるものゝ如し、若しこの後お歌の健康別條なく全快することあらん歟、事件はますます糾錯するに至るべし、出雲町角にてわかれ家にかへる、枕につきしがさまざまのこと胸に浮來りて眠り難し、五更の頃驟雨襲來る、
『斷腸亭日乘』(12月15日)
晴、番街のお歌を訪ひ家主中野光嘉余が方より金五百圓詐取の事を知り大に驚く、證書照し合のためお歌わが家に來る、今夏六月末發病後半歳にして始てわが家に來りしなり、狗只魯舊主を忘れず抃喜すること小兒の母を見るが如し、
『斷腸亭日乘』(12月17日)
陰、午後お歌突然自働車に新調の夜具を載せて訪ひ來りぬ、今夏發病前余が方に送り届けべき夜具なりしを其後の紛々にて一時そのまゝになり居たりしをなり、お歌の病今日のところにては全快せし様子なれど來年春夏の頃再發するやも知れず、されど一時は生命もいかゞと思はれし身の、兎に角全快の様子になりしは目出たき限りなり、これにて番街との關係も先は圓滿に片がつきしわけなり、
『斷腸亭日乘』(12月24日)
去る辰の年より此方毎年除夜の鐘はお歌の許にて聽きしかど、今年は我家にて机上に之を聽く、感慨淺からざるなり、筆硯を洗ひ香を焚いて後靜に寢に就く、
『斷腸亭日乘』(12月31日) |
夜お歌來る、
『斷腸亭日乘』(1月4日)
先夜お歌と一宿せし待合に入り、夜もふけしがまゝ再び宿して曉を待つ事となしぬ、
『斷腸亭日乘』(1月8日)
晴れて風あり。午後お歌來る。笄阜君また來り訪はる。昨夜初更銀座太訝樓にて醉客鬪爭。二人匕首にて刺され死したる由。日の暮るゝ頃お歌を伴ひ銀座二丁目オリンピツクに飯す。
『斷腸亭日乘』(4月21日)
晴れて忽暑し。晝頃お歌愛狗ポチを引きて來る。虎の門まで髪結ひに來りし歸りなりといふ。
『斷腸亭日乘』(5月13日)
正午お歌來る。狗ポチ今年は三頭子を生みたりとて、切りたる子犬の尾を箱に納めわが家の庭に埋め、三時頃歸り去りぬ。
『斷腸亭日乘』(5月26日)
晴。午後お歌ポチをつれ子犬三匹を竹籠に入れて來る。夜銀座に徃きて晩餐を共にす。
『斷腸亭日乘』(6月20日)
晴れて風涼し。午後下女を中洲病院に遣しけるに、偶然お歌に逢ひたる由。倶に自働車にて來る。お歌數日來氣分甚よろしからず、去年發病せしは恰今頃のことなれば病の再發せむことを虞れて、藥を求めに行きしとの事なり。夕刻銀座二丁目に徃き倶に晩餐をなし、お歌をその家に送りて歸る。ポチの子三匹とも恙なく最早乳離れもせし様子なり。
『斷腸亭日乘』(7月4日)
午後お歌中洲病院の歸途來り訪ふ。雨のはれ間を窺ひ倶に銀座に出でゝ晩餐をなす。食後お歌氣分俄に惡しくなりたりとて車にて其家に歸り去れり。
『斷腸亭日乘』(7月8日)
晴。ホ(※「日」+「甫」)時三番町の阿歌中洲病院の歸りなりとて來り訪ふ。いつもの如く銀座に徃き倶に夕飯を食す。たまたま街上にて神代氏に會ひ其の知人なる室澤寫眞師を訪ふ。撮影すること數葉なり。お歌その家に用事ありとて車を倩うて去る。神代氏と共に岡崎榮女の酒塲に憩ひ閑談夜分に至る。
『斷腸亭日乘』(7月11日)
此夜舊暦の九月十三夜にて月色清奇なり。二年前まで數年の間お歌が家の二階にて夜ふくるまで月見しことなど思出して悵然たり。お歌九月のはじめに訪來りてより其後杳然としてたよりなし。いかゞせしや。
『斷腸亭日乘』(10月12日)
晴。風邪家を出でず。三番町のお歌熱海より葉書を寄す。
『斷腸亭日乘』(11月23日)
晩間銀座オリンピクに飯す。偶然三番町のお歌某氏夫人と共に來るに逢ふ。又高橋邦太郎氏に逢ふ。尾張町にてお歌とわかれ高橋氏と共に万茶に一茶す。
『斷腸亭日乘』(11月29日)
晴れて寒し。午後お歌夜具蒲團を仕立て自働車に載せて來る。深情感謝すべし。お歌とは、去夏六月お歌奇病に襲はれし以前閨中の交いつともなく跡絶えゐたり。然るに去年十二月家主中野某わが方よりお歌が滯納家賃五百圓を二重取りせし事あり。其事よりお歌との交際再び行はるゝやうになりしが、其後はいかなる人の世話になり居るにや、其等の事情知りがたき故、余は今以て表面だけの交際をなし居れるなり。曾て譯ありし女と一時別れし後再び徃來するやうになりて半年一年と月日をふるや、冷靜なる交情、さながら親戚の娘または眞身の妹と相語るが如き心持となるものなり。此日も忽暮近くなりたれば銀座に徃きて食事を共にせむとさそひしが、お歌は何か心すゝまぬ様子にてその家に歸りぬ。余はオリンピクにて食事をなし、八丁堀邊を散歩し、万茶に少憩して家にかへり、お歌が縫ひたる新しき夜具の上に横たはりしが、さまざまの事心に浮び來て眠ること能はず。いつか鷄の聲きゝぬ。
『斷腸亭日乘』(11月30日)
晴。南風吹きて暖なり。ホ(※「日」+「甫」)下お歌來る。相携へて銀座に徃き晩餐をなす。
『斷腸亭日乘』(12月20日) |
杵屋五叟來りて新曲の歌詞を需む。杵屋の談に三番町のお歌がもと住みたりし家は、同じ土地の美濃家が買取りて取壊し、新に普請をなす由。今は空地となれりと云ふ。又お歌は明石家といふ藝者家を開業し抱一人あり。本人は座敷へは出でざる由なり。
『斷腸亭日乘』(12月7日)
よれより歩みて菊屋橋に出で、入谷の町の夜店を見、鬼子母神に賽す。門内に盆栽植木を賣る事昭和二年の冬お歌を携へて散歩せし時に異らず。
『斷腸亭日乘』(12月10日) |
ホ(※「日」+「甫」)下谷中生來話。共に出でゝ淺草に徃かむとする途上谷町通にて偶然お歌に逢ふ。十年前麹町に圍ひ置きたる女なり。其妹なるもの氷川町邊に住めるを訪ふところなりと云ふ。
『斷腸亭日乘』(12月14日) |
晴。夜六番町のお歌來る。カマス干物一枚一圓鰺干物一枚一圓ベアス石鹸を貰ふ。九時その歸るを送りて我善坊崖上の暗き道を歩み飯倉電車通りに出づ。十七年前妾宅壺中庵の在りし處なり。徃事茫々夢の如し。
『斷腸亭日乘』(8月17日)
炊事と炎暑とにつかれ果てしが如し。夕方六番町なるお歌の家より電話にて汁粉つくりたればと言來りしが出で行く元氣なかりき。晴天旬餘に及ぶ。
『斷腸亭日乘』(8月23日) |
日も暮近き頃電話かゝりて十年前三番町にて幾代と云ふ待合茶屋出させ置きたるお歌たづね來れり。其後再び藝妓になり柳橋に出てゐるとて夜も八時過まで何や彼やはなしは盡きざりき。お歌中洲の茶屋彌生の厄介になりゐたりし阿部さだといふ女と心やすくなり今もつて徠徃(ゆきゝ)もする由。現在は谷中初音町のアパートに年下の男と同棲せりと云。どこか足りないところのある女なりと云。お歌余と別れし後も余が家に尋ね來りし事今日がはじめてにはあらず。三四年前赤坂氷川町邊に知る人ありて尋ねし歸りなりとて來りしことあり。思出せば昭和二年の秋なりけり。一圓本全集にて以外の金を得たることありしかばその一部を割きて茶屋を出させやりしなり。お歌今だに其時の事を忘れざるにや。その心の中は知らざれど老後戰亂の世に遭遇し獨り舊廬に呻吟する時むかしの人の尋來るに逢ふは涙ぐまるゝまで嬉しきものなり。此次はいつまた相逢うて語らふことを得るや。若し空襲來らば互にその行衞を知らざるに至べし。然らずとするも余はいつまでこゝにかうして餘命を貪り得るにや。今日の會合が最終の會合ならんも亦知る可らず。これを思ふ時の心のさびしさと果敢さ。此れ人生の眞味なるべし。松過ぎて思はぬ人に逢ふ夜かな
『斷腸亭日乘』(1月18日)
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