旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

昭和2年 ・ 昭和6年 ・ 昭和8年

昭和11年 ・ 昭和16年 ・ 昭和20年

昭和20年(1945年)

   3月9日〜偏奇館焼亡〜

   天気快晴、夜半空襲あり、翌曉四時わが偏奇館曉亡す、火は初長垂(なだれ)坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。

   3月10日〜東京大空襲

昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝田町に及べり。淺草觀音寺、五重塔、六區見世物町、吉原遊郭燒亡、芝搶緕及靈廟も烏有に歸す、明治座に避難せしもの悉く燒死す。本所深川の町々、亀井戸天神、向嶋一帶、玉の井の色里凡て烏有となれりと云。

   4月15日〜東中野のアパート〜

晴、東中野のアパートに移らむとて夜具食器の運搬を五叟の子弟に頼み十一時過省線電車にて行く、菅原君の居室にて雜談すること一時間あまり、五叟子自轉車にて先に來り子弟の曳く荷車つゞいて來る、夕刻小堀画伯來り話す、夕飯を菅原君の室にて喫する時偶然洋琴家宅氏の來るに會ふ、九時過空襲警報あり、爆音近からず、火の空に映ずる方向より考ふるに被害の地は目黒大森邊なるべし、夜半二時頃警戒解除となる、

   5月10日〜関口芭蕉庵

晴、ホ(※「日」+「甫」)下散歩、小瀧橋よりバスに乘り早稲田に至る、高田の驛を過るに見渡すかぎり焼原なり、線路土手の草のみ青きこと染むるが如し、バス終點より歩みて駒塚橋を渡る、目白臺の新樹鬱然、芭蕉庵門内の老松また恙なく緑の芽の長く舒(の)びたるを見る、門の柱に小石川区區關口臺町廿九番地、史蹟芭蕉庵、また服部富服部敏幸とかきし小札を出したり、門外の急坂を上り路傍の小祠に賽し銀杏の樹下に小憩して後再び來路をバスに乘りてかへる。

   6月1日〜罹災者乘車券〜

晴、菅原氏日く埼玉縣志木町の農家にも行きがたくなりたれば今は其故郷なる播州明石の家に行くより外に爲すべき道なしとて頻に同行を勸めらる、熟慮して後遂に意を決して氏の厚誼にすがりて關西にさすらひ行くことになしぬ、早朝氏と共に澁谷驛停車場に至り罹災者乘車券なるものを得むとしたれど成らず、空しく宅氏の家にかへる、

   6月2日〜大坂行の列車に乘る〜

未明三時半小雨のふる中を菅原氏夫婦と共に再澁谷の驛に赴きしが乘車券を得ざること昨日に異らず、午前八時三たび行くに及びて辛くも驛員より乘車券の交附を受けたり、その手續の不便に且ツ繁雜なること人の意表に出づ、我國役人気質の愚劣なること唯是一驚すべきのみ、余菅原君夫婦と共に宅氏の兄弟に送られいよいよ澁谷驛の改札口に入ることを得たるは午後一時半頃なり、山の手省線にて品川を過ぎ東京驛に至り罹災民専用大坂行の列車に乘る、乘客思の外に雜沓せず、余等三人皆腰掛に坐するを得たるは不幸中の事なり、午後四時半列車初てプラトホームを離る、發車の際汽笛も鳴らさず何の響もなければ都會を去るの悲しみ更に深きを覺ゆ、濱松に至る頃日は全く暮れ細雨霏霏たり、余大正十年の秋亡友左團次一行と共に京都に遊びてより後一たびも東海道の風景に接せしことなし、感慨無量筆にしがたし、

   6月3日〜明石に下車す〜

列車中の乘客われ人ともに列車進行中空襲の難に遭はむことを恐れしが、幸にその厄もなく午前六時過京都驛七條の停車場に安着す、夜來の雨もまた晴れ涼風習々たり、直に明石行電車に乘換へ大坂神戸の諸市を過ぎ明石に下車す、菅原君に導かれ歩みて大藏町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す、邸内には既に罹災者の家族の來り寓するもの多く空室なしとの事に、三四丁隔りたる眞宗の一寺院西林寺といふに至り當分こゝに宿泊することになれり、西林寺は潅岸に櫛比する漁家の間に在り、書院の縁先より淡路を望む、海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ、江彎一帶の風景古來人の絶賞する處に背かず、殊に余の目をよろこぼすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり、

   6月8日〜明石の市街〜

晴、午前七時警報あり姑くにして解除となる、朝飯を食して後菅原君と共に町を歩み、理髪店に入りしが五分刈りならでは出來ずと言ふ、省線停車場附近稍繁華なる町に至らばよき店もあるべしと思ひて赴きしがいづこも客多く休むべき椅子もなし、乃ち去つて城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘の風殊に愛すべし、石級を昇るに往徃時の城樓石墻猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所寫眞入の土産物を賣る、床几に休みて茶を命ずるに一老翁茶と共に甘いものもありますとて一碗を勸む、味ふに麥こがしに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天守臺の跡に立ち眼下に市街及江灣を眺む、明石の市街は近年西の方に延長し工場の烟突林立せり。これが爲既に一二回空襲を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は舊市街の東端に在るなり、漫歩明石神社を拜し林間の石徑を上りまた下りて人丸神社に至る、石磴の麓に龜齡井(かめのゐ)と稱する靈泉あり、掬するに清冷氷の如し、神社に鄰して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海灣爛漫たるを見る、麥もまた熟したり、

   6月9日〜忽にして爆音轟然〜

晴、午前九時比警報あり、寺に避難せる人々と共に玄關の階段に腰かけてラヂオの放送をきく、忽にして爆音轟然家屋を震動し砂塵を巻く、狼狽して菜園の壕中にかくれ纔に恙なきを得たり、家に入るに戸障子倒れ砂土狼藉たり、爆彈は西方の工場地及び余が昨日杖を曳きし城跡の公園に落ちたるなりと云、そもそも余がこのたび東京を去り明石に來りしはこの地菅原君の郷里なるを以て日常の必要品をも手にし得べき便宜あるべし、然る後一日も早く岡山に在る菅原君が知人をたよりて共に身を寄すべき心なりしなり、然るに到着せし翌日より坂神の都市連日爆撃せられ交通不自由となり岡山との消息を知ることを能はず、戦々兢々徒に日を送るのみ、岡山には工場なく又食糧も豐なりと云、

   6月10日〜岡山に行くことに決す〜

晴、日曜日、明石の町も遠からず燒拂はるべしとて流言百出、人心恟々たり、午後人々皆外出したる折を窺ひ行李を解き日記と毛筆とを取出し、去月二十五日再度罹災後日々の事を記す、駒場なる宅氏の家に寓せし時は硯なく筆とることを得ざりしに明石の寺には其便あり、明日をも知らぬ身にてありながら今に至つて猶用なき文字の戯れをなす、笑ふべく憐む可し、

夜八時菅原君細君岡山より歸り宅孝二氏既に彼地に在り、谷崎潤氏亦津山の附近に避難する由、余等行先の事思ひしよりも都合好かるべしと言ふ、依つて明後十二日未明の汽車にて岡山に行くことに決す、

   6月12日〜明石から岡山へ〜

飯後寺主をはじめ同宿の避難者に別を告げ夜半枕につく、曉三時半に起出で晩飯の殘りたるを粥にして一二碗を食し行李を肩にして寺を出づ、入梅の空明け放れんとしてあかるきまゝ雨しとしとと濺ぎ來る、一行三人傘を持たねば濡れに濡れて停車場に至る、その困苦東京駒場の避難先より澁谷の驛に至りし時の如し、初發博多行の列車は難沓して乘るべからず、次の列車にて姫路に至りこゝにて乘つぎをなし正午岡山に着す、宅氏の知人最相氏の家に至り晝飯及晩飯の惠みに與る、此夜小學校講堂にて宅氏洋琴彈奏の會あり、雨中皆々と共に行く、歸り來りて最相氏の家に宿す、

   6月18日〜後樂園外の橋へ〜

晴、菅原君夫婦朝の中より出でゝ在らず、獨昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む、縣廳裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後樂園外の橋に出づ、道の兩側に備前燒の陶器を並べたる店舗軒を連ねたり、されど店内人なく半ば戸を閉したり、橋を渡れば公園の入口なり、別に亦一小橋あり、蓬莱橋の名を掲ぐ、郊外西大寺に到る汽車の發着所あり、

   6月28日〜岡山の町襲撃せられ〜

晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ歸り來らざるを見。今明日必異變あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鐵橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。

   6月30日〜佐々木方に間借り〜

雨。三門町二ノ五七二佐々木方に間借りをなす。

   7月7日〜武南功氏方に移る〜

晴。巖井三門町一ノ一八二六武南功氏方に移る。庭に天竺葵の花灼然たり。毎夜サイレン人の眠を妨ぐ。

   7月9日〜一古刹あり〜

快晴。雲翳なし。谷崎氏及宅昌叫氏に郵書を送る。午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。また二王門ありて大乘山といふ額をかゝぐ。老松多し。本堂の軒にかけたる額を仰ぐに妙林寺佐文山の書とあり。法華宗なるべし。墓石の間を歩みて山の頂上に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に燒かれたる市街の跡は立續く民家の屋根に隱れ今は東方に聾ゆる連山の青きを見るのみ。

山麓に鳥居を立てたるところは三門町二丁目の道路にして人家櫛比す。社殿の前の平地に立てば岡山市の西端に延長する水田及び丘皐を望む。備中総社町に至る一條の鐵路田間を走る。又前方南の方に児島灣を囲む山脉を見る。風景佳ならざるに非ず。然れども余心甚樂しまず。白雲の行くを見て徒に旅愁の動くを覺ゆるのみ。こゝに於て余窃に思ふに山水も亦人物と同じく親しみ易きものと然らざるものとの別あるが如し。明石より淡路を望みし海門の風光は人をして恍惚たらしむるものありが今眼前に横はる岡山の山水は徒に寂寞の思をなさしむるのみ。一は故人に逢うて語るが如く一は路傍の人に対するが如し。

   8月13日〜谷崎君の寓舎を訪ふ〜

未明に起き明星の光を仰ぎつゝ暗き道を岡山の停車場に至るに、構内には既に切符を購はむとする旅客雜踏し、午前四時札賣場の窓に灯の點ずるを待ちゐたり、構外のところどころには前夜より來りて露宿するもの亦尠からず、余この光景に驚き勝山徃訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列をつくれる群集に尾して佇立する事半時間あまり、思ひしよりは早く切符を買ひ得たり、一ト月おくれの孟蘭盆にて平日より汽車乘客込み合ふ由なり、余は一まづ寓居に戻り朝飯かしぎこれを食して後、再び停車場に至り九時四十二分發伯備線の列車に乘る、僅に腰かけることを得たり、前側に坐しゐたる老婆と岡山市中罹災當夜の事を語る、この老婆も勝山に行くよし、

午後一時半頃勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ、驛を去ること僅に二三町ばかりなり、戰前は料理店なりしと云、離れ屋の二階二間を書齋となし階下には親戚の家族も多く頗雜踏の様子なり、初めて細君に紹介せらる、年の頃三十四五歟、痩立の美人なり、佃煮むすびを馳走せらる、一浴して後谷崎君に導かれ三軒先なる赤岩といふ旅舎に至る、

   8月14日〜牛肉を買ひたれば〜

晴、朝七時谷崎君來り東道して町を歩む、二三町にして橋に至る、溪流の眺望岡山後樂園のあたりにて見たるものに似たり、後に人に聞くにこれ岡山を流るゝ旭川の上流なりと、其水色山影の相似たるや盖し怪しむに及ばざるなり、正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を惠まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。余谷崎君勸むるがまゝ岡山を去りこの地に移るべき心なりしが廣嶋岡山等の市街續々焦土と化するに及び人心日に増し平穩ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず、他郷の罹災民は殆食を得るに苦しむ由、事情既にかくの如くなるを以て長く谷崎氏の厄介にもなり難し。依て明朝岡山にかへらむと停車場に赴き驛員に乘車券のことを問ふ、明朝五時に來らざれば獲ること難かるべしと言ふ、依て亦其事を谷崎氏に通知し余が旅宿に戻りて午睡を試む、燈刻谷崎氏方より使の人來り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ、急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたゝめられたり。細君下戸ならず、談話頗興あり、九時過辭して客舎にかへる、深更警報をきゝしが起きず、

   8月15日〜戰争突然停止〜

陰りて風凉し。宿屋の朝飯、鷄卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ燒、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり、飯後谷崎君の寓舎に至る。鐵道乘車券は谷崎君の手にて既に譯もなく購ひ置かれたるを見る。雜談する中汽車の時刻迫り來る、再會を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分發の車に乘る、新見の驛に至る間墜(ママ)道多し。驛ごとに應召の兵卒と見送人小學校生徒の列をなすを見る、されど車中甚しく雜踏せず、凉風窓より吹入り炎暑來路に比すれば遥に忍び易し、新見驛にて乘替をなし、出發の際谷崎君夫人の贈られし辨當を食す。白米のむすぴに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず、

午後二時過岡山の驛に安着す、燒跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる、S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戰争突然停止せし由を公表したりと言ふ。恰も好し、日暮染物屋の婆、鷄肉葡萄酒を持來る、休戰の祝宴を張り皆々醉うて寢に就きぬ、

正午戰争停止

   9月1日〜新橋から熱海〜

朝早く雨中に鈴木氏の家を去り、五叟が女弟子にて新橋驛の裏手に焼け殘りしビルヂング内に住める者ある由、鈴木氏より聞知りたれば、直に尋ね到り事の次第を告ぐ、五叟の弟子恰も熱海に行くべき用事ありと言ふにさらばとて、其者と共に新橋よりまたもや汽車に乘りホ(※「日」+「甫」)下熱海に至る、五叟と其家族とに會ひ互に別後の事を語り身の恙なきを賀す、

『斷腸亭日乘』B

永井荷風ゆかりの地に戻る

旅のあれこれ文 学に戻る