旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

昭和2年 ・ 昭和6年 ・ 昭和8年

昭和11年 ・ 昭和16年 ・ 昭和20年

昭和8年(1933年)

   1月1日〜雜司谷墓地

晴れて暖なり。午後雜司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蝋梅馥郁たり。先考の墓と相對する處に巖瀬鴎所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拜して、來路を歩み、護國寺門前より電車に乘り、傳通院に至り、大K天に賽す。

(中 略)

歩みて表町の通に出で、金富町の横町をまがり、余が舊宅の塀外をめぐり、金剛寺坂の中腹に出でたり。

   2月22日〜聯盟脱退の事〜

晴。南風吹きて暖なり。新聞紙頻に日本國際聯盟より脱退の事を報ず。

   2月27日〜茶亭小菊〜

晴れて風暖なり。ホ(※「日」+「甫」)下芝神明宮境内の茶亭小菊に飯す。

   8月15日〜小波先生の病〜

晴又陰。夜銀座街上にて金子紫草生田葵山に逢ふ。紫草曰く小波先生の病は大膓の外部に癌を生じたるものにて餘命恐くは半歳を保たざるべしと。

   9月4日〜小波先生危篤〜

午前驟雨あり。西南の風烈し。ホ(※「日」+「甫」)下葵山子より電話あり。小波先生病いよいよ危篤に陷ると云ふ。車にて赤十字社病院に赴く。撫象春生其他の諸子に就いて先生の病状を問ひ薄暮辭して銀座に行く。

   9月5日〜巖谷小波

晴。小波先生今朝八時過終ると云ふ。夕刊の新聞に辭世の句あり。極樂の乘物はこれ桐一葉。

   9月6日〜小波先生葬式〜

晴れて風烈しく秋氣俄に濃なり。午後三時小波先生葬式青山会館にて執行せらるゝを以て之に赴く。葬式は邪(ママ)蘇教にて行はる。余歸らむろする時葵山余の袖を捉え汝も宜しく襟に徽章をつけ門生の列に伍して來吊者の接待をなすべしと。傍より岡野榮氏余を詰責して曰く汝何故に昨夜樂天居に來つて通夜せざりしやと。余大に狼狽して城外に逃れ出づ。偶然帚葉山人に逢ふ。倶に歩みて青山一丁目に至りて別れ家に歸る。

   10月6日〜二重橋前の廣場〜

午後丸の内の銀行に徃く。二重橋前の廣場には巡査憲兵道をいましむる事頗嚴重なり。櫻田門外裁判所に連日五月十五日事變の裁判開かるゝが爲なるべし。晴れたる空俄に掻曇り大粒の雨ぽつぽつと落來れり。

   11月9日〜海軍々法會議〜

此日木堂暗殺事件、海軍々法會議判決ありしと云ふ。

   12月3日〜潤一郎後妻離縁〜

此日の新聞に谷崎潤一郎君後妻離縁の記事ありと云ふ。

   12月7日〜三番町のお歌

杵屋五叟來りて新曲の歌詞を需む。杵屋の談に三番町のお歌がもと住みたりし家は、同じ土地の美濃家が買取りて取壊し、新に普請をなす由。今は空地となれりと云ふ。又お歌は明石家といふ藝者家を開業し抱一人あり。本人は座敷へは出でざる由なり。

   12月10日〜鬼子母神

よれより歩みて菊屋橋に出で、入谷の町の夜店を見、鬼子母神に賽す。門内に盆栽植木を賣る事昭和二年の冬お歌を携へて散歩せし時に異らず。

昭和9年(1934年)

   1月1日〜雜司ケ谷墓地

午後雜司ケ谷墓地に抵り先考の墓を拜す。墓畔の蝋梅古幹既に枯れ新しき若枝あまた根より生じたれば今は花無し。

   2月3日〜平價切下の災厄〜

(※「日」+「甫」)時兜町なる片岡商店に至り番頭永田氏に面會し、余が定期預金の全額を株券に替ふべき事を委詫す。蓋し平價切下の災厄に處せむと欲するなり。

   2月7日〜藝娼妓周旋業〜

稻叟は藝娼妓周旋業をなすものなれど磊落無欲なる奇人なり。一昨年市ケ谷本村町に間借せし時より身なりも大分よき故、近頃景氣はいかゞと問ふに、滿洲より大口の注文ありて、先は多忙なりと云ふ。大連の快樂と云ふ料理屋の主人八尋某などは飛行機にて折々上京し、三日位滯在して一度に女十人位つれて行くと云ふ。

   3月5日〜兜町片岡の店〜

晴。風冷なること昨の如し。午後探偵業岩井三郎事務所を訪ひ、K澤きみ身元探索の事を依頼す。それより兜町片岡の店に至り過日名義書替を依頼したる株券鐘紡新百王子舊百を受取り、歩みて日本橋に至れば、日は暮れんとして風寒きこと嚴冬の如し。

   3月17日〜賭博犯の嫌疑〜

此日引つゞき賭博犯の嫌疑にて菊池寛其他文士數名及活動女優兩三名警視廳へ呼び出されしと云ふ。東京日々新聞は菊池寛金參萬圓の株主なるの故を以て拘引者の中に菊池の名を除きて掲載せざりしと云。新聞社の陋劣なること此の一事を以て其の全班を推知すべし。

   6月11日〜鐵砲洲稻荷

鐵砲洲稻荷に賽し、祠前を通る乘合自働車にて銀座に至る。松喜食堂に飯して歸る。

   6月26日〜明月を觀る〜

七時過滿月松阪屋の高き建物の横手に現はる。舊暦五月の望なるべし。歌舞伎座前より乘合自働車に乘り鐵炮洲稻荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚波止場に至り石に腰かけて明月を觀る。石川嶋の工場には燈火煌々と輝き業務繁榮の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らふ男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節を語る船頭の聲す。

   8月1日〜昨今の氣候〜

朝來くもりし空には雲脚の動くを見たれど、霧雨折々降り來りて霽れず。物のしけること甚し。朝の中崖の竹藪に鴬の鳴くを聞く。先年昭和二年秋八月輕井澤の離山(ハナレヤマ)にて鴬きゝたる異を憶ひ出しぬ。昨今の氣候も亦輕井澤に在るが如き思をなさしむ。

   9月5日〜同盟罷業〜

銀座に徃かむとするに電車従業員同盟罷業をなしたる由臨時雇の運轉手電車を運轉せり。

   9月21日〜天王寺の塔

街上にて歌川竹下廣瀬其他の諸氏に逢ふ。關西地方の風害甚しと云ふ。大阪天王寺の塔、京都の建仁寺本堂崩潰せしと云ふ。東京は銀座邊にてはさしたる被害なし。

昭和10年(1935年)

   1月1日〜雜司ヶ谷

雨霽れて一天拭ふが如く暖氣四月に似たり。三時過雜司ヶ谷に徃き先考の墓を拜す。墓地を出るに三ノ輪行の電車線路に行當りたれば、來合はす電車に乘る。

   2月3日〜日の丸の旗〜

三越百貨店に入り日の丸の旗竹竿つき一圓六十錢を購ふ。余大久保の家を賣りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また門松立てし事もなし。されど近年世のありさまを見るに[此間約三字切取、約十字抹消]祭日に旗を出さぬ家には壯士來りて暴行をなす由屡耳にする所なり。依つて萬一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はなた二十年來フロツコートを着たることなし。禮服を着用せざる可からざる處へは病と稱して赴くことなかりしなり。余は慶應義塾教授の職を辭したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、禮服をきる必要はなきわけなり。されどこれも世の有様を見るに、わが思ふところとは全く反對なれば殘念ながら世俗に從ふに如かずと思ひ、去月銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十餘圓なり。

   5月10日〜増上寺

暮近く鐘の響きこゆ。東南の方より響き來るを以て芝山内の鐘なるを知る。飛行機自働車ラヂオ蓄音機などの響絶え間もなき今の世に折々鐘の音を耳にする事を得るは何よりも嬉しきかぎりなり

   8月6日〜石濱神社

二三町にして白髯橋の袂に至る。其形永代橋に似たる鐵橋なり。橋をわたりて橋場の岸に至るに岸の上に宏大なる石炭物揚機械屹立し、工場の低き烟突盛に煤烟を吐けり。物揚機の鐵骨のかげに眞崎稻荷の石燈籠と石濱神社の鳥居の立ちたるさま見るも哀れなり。水際の石燈籠には安永八己亥年五月吉日永代常夜燈と刻したる文字未磨滅せず。石濱神社の鳥居には鳳鳴卿(成島道筑)の書を刻したり。眞崎稻荷の祠と休茶屋の小家とは猶殘りてあり。されど二十餘年前余が歸朝の當時折々井上唖々子と相携へて散策せし時の幽雅なる風景は全く其跡なし。其頃稻荷の祠の裏手より石濱明神宮の境内に至るあたりには杉の大木多く梅花馥郁たるを見しこともありき。今は一株の樹木も無く小徑を隔てたる。工場の石炭二三町にわたりて山の如く積上げられたり。タンクの如きものも聳えたれば思ふに瓦斯會社なるべし。岸邊には汚くして大きなる達磨船幾艘となく繋がれ、裸体の人夫の徘徊するを見る。

   10月25日〜待乳山聖天

日は早くも暮れかゝりたれば外に出で、公園裏の大通を歩み待乳山に登る。山の側面は目下セメントにて工事中なり。聖天町に接する崖下は洋式の新公園となりぬ。山上の聖天の殿堂は既に新築落成したれど今はお百度踏むものもなし。樹木は櫻の若木二三十本を植えたるのみ。石段を下り聖天町猿若町を歩みたれど町の様子全く變りて舊觀を思返すべきよすがもなし。

   11月1日〜熱田神宮新殿落成〜

小春のよき日なり。尾州熱田神宮新殿落成祝賀のためなりとて銀行會社業を休む。明治以來未曾て有らざることなり。

   11月14日〜ペンクラブ〜

島崎藤村の名義にてペンクラブとやら稱する文士會合の集團に加入の勸誘状來る。辭退の返書を送る。

   11月29日〜白秋五十歳

陰。楓葉花よりも紅なり。夜物買ひにと銀座に徃く。三越店頭に北原白秋五十歳祝賀夜宴の寫眞及島崎藤村著作祝宴の寫眞あるを見る。風寒し。京橋より電車に乘りて歸る。

昭和11年

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