旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの地

『斷腸亭日乘』@AB

昭和2年 ・ 昭和6年 ・ 昭和8年

昭和11年 ・ 昭和16年 ・ 昭和20年

昭和11年(1936年)

   1月1日〜雜司ヶ谷墓地

日もホ(※「口」+「甫」)ならむとする頃車にて雜司ヶ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、巖瀬鴎所の墓を拜し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。

   2月14日〜個人の覺醒〜

晴れて風靜なり。この頃新聞の紙上に折々相澤中佐軍法會議審判の記事あり。[此間一行強抹消。以下行間補]相澤は去年軍省内にて其上官某中將を斬りし者なり。新聞の記事は其の[以上補]最も必要なる處を取り去り讀んでもよまずともよきやうな事のみを書きたるなり。されど記事によりて見るに、相澤の思想言動は現代の人とは思はれず、全然幕末の浪士なり、東禪寺英國公使館を襲ひ或は赤羽河岸にヒユウスケンを暗殺せし浪士と異なるものなし。西洋にも政治に關し憤怒して大統領を殺せしもの少からず、然れども日本の浪士とは根本に於て異る所あり。余は昭和六七年來の世情を見て基督教の文明と儒教の文明との相違を知ることを得たり。浪士は神道を口にすれども其の行動は儒教の誤解より起り來れる所多し。そは兎もあれ日本現代の禍根は政黨の腐敗と軍人の過激思想と國民の自覺なき事の三事なり。政黨の腐敗と軍人の暴行も之を要するに一般國民の自覺に乏しきに起因するなり。個人の覺醒せざるがために起ることなり。然り而して個人の覺醒は將來に於てもこれは到底望むべからざる事なるべし。

   2月26日〜二・二六事件〜

朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り來見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ來り、[此間約四字抹消。以下行間補]軍人[以上補]警視廳を襲ひ同時に朝日新聞社日々新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの聲のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒氣とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。

九時頃新聞號外出づ。岡田齋藤殺され高橋重傷鈴木侍從長又重傷せし由。十時過雪やむ。

   2月27日〜二・二六事件〜

曇りて風甚寒し。午後市内の光景を見むと門を出づ。東久邇宮門前に憲兵三四名立つ。道源寺阪を下り谷町通にて車に乘る。溜池より虎の門のあたり彌次馬續々として歩行す。海軍省及裁判所警視廳等皆門を閉ぢ兵卒之を守れり。櫻田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり。朝日新聞社は昨朝九時頃襲撃せられたる由はれど人死は無之。印刷機械を壞されしのみなりと云ふ。銀座通の人出平日よりも多し。電車自働車通行自由なり。三越にて惣菜を購ひ茶店久邊留に至る。居合す人々のはなしにて岡田齋藤等の虐殺せられし光景の大畧及暴動軍人の動靜を知り得たり。

(中 略)

虎の門あたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すに今宵は人出賑なるため皆燈火を點じたれば金比羅の縁日の如し。同行の諸子とわかれ歩みて靈南阪を上るに米國大使館塀外に數名の兵あり。人を誰何す。富豪三上の門内に兵士また數名休息するを見たり。無事家に歸れば十一時なり。此日新聞紙には暴動の記事なし。

   2月29日〜叛軍歸順〜

叛軍歸順の報あり。また岡田死せずとの報あり。

   3月17日〜西新井大師

獨り淺草に徃き東武電車に乘り西新井に向ふ。途中放水路の鐵橋を渡り、小菅を過るや、壟圃水田相つらなり、野水また潺々たるを見る。處々生垣を結ひ囘らしたる農家あり。水田には水滿ち畠には青き菜をつくる。未菜の花を見ざれど田園の風景甚佳なり。乘客は僅に十二三人のみ。二三の停車場を過ぎ西新井大師堂の門前に着す。境内を一覽す。老松二三株を見るのみにて殊に目を喜ばすものなし。南千住行の乘合自働車あるを知り、これに乘る。

   3月18日〜寺内壽一〜

むかし一橋の中學校にてたびたび喧嘩したる寺内壽一は軍人叛亂後陸軍大臣となり自由主義を制壓せんとす

   3月27日〜週刊朝日〜

人の話に近刊の週刊朝日とやらに余と寺内大將とは一橋の尋常中學校にて同級の生徒なりしが仲惡く屡喧嘩をなしたる事など記載せられし由、可恐可恐

   4月9日〜戸田橋〜

曇りて風なければ午後三時ころより家を出で、荒川堤戸田橋の邊に至りて見むと、先巣鴨に行き、志村へ通ふ乘合自働車に乘る。板橋宿の舊道とおぼしく女郎屋の建物とびとびに四五軒殘りたり。やがて新開の大道に出づ。こゝにて中仙道大宮行きの自働車に乘りかへ、志村坂とよぶ坂を下るや、見わたすかぎり水田つゞきたる平野となり風景一變す。車窓より來路を顧望するに、林樹に蔽はれたる丘陵蜿々として東より西に連りたり。廣き道は西北に走り田間の一小流を渡るや、路傍に枯蘆の茂りたる處ありて、荒川の流れ近きを知らしむ。忽ちにして堤防に登り戸田橋の停留所に至る。車を下りて長橋を歩む。橋下の水は放水路の流なるべし。貨物自働車多く橋上を徃復す。時に圓タクの客を載せて疾走するもあり。橋を渡り堤上に佇立して下流を望むに、左程遠からざる處に鐵橋の横りて、汽車の烟の動くを認め得たり。地圖を開き見るに川口驛に至る鐵道なり。即ち其方向に向ひて堤上を歩む。青き草の間に土筆二三寸のびたり。摘む人もなきが如し。堤の下水流るゝあたりには低き柳蘆生茂りたり。堤の左方は廣漠たる田野にして多く麥を種ゆ。行くこと數町、林間に一抹の紅雲を見る。近き見れば麥隴の間に桃林ありて、其花の滿開せるなり。是花を賣るにはあらず果實を作るものなるべし。

   4月10日〜陸軍省内にて〜

過日陸軍省内にて中佐某の其上官を刺せしが如き事に公私の別あれど之を要するにおのれの思ひ通りに行かぬを憤りしが爲ならずや

   4月12日〜化學工業學校〜

路傍に佇立み南方に徃く車を待ちしが容易に來らず。橋の灯早くもきらめき出せし故來路をたどりて境川の停留所に至れば日は全く暮れたり。路をよこぎり更に歩みて千田橋に至る。化學工業學校なるものあり。陋巷の間に屹立す。傍に公園あり。

   4月20日〜森先生未亡人〜

森先生未亡人一昨日十八日歿せられし由新聞に見ゆ。午後赴きて吊辭を陳ぶ。表門外崖上の道を歩む。谷中上野の樹木少くなりて東照宮の五重塔谷中の塔共に能く見ゆるやうになりぬ。本郷追分に出で車を倩つてかへる。

   7月3日〜相澤中佐死刑〜

夕刊新聞に相澤中佐死刑の記事あり。

   7月7日〜連載小説執筆〜

午後三笠書店々員來る。朝日新聞社日高君を介して連載小説執筆を申來る。兩三日前の事なり。長編小説をつくる氣力なきを以て手紙にて辭す。夜尾張町不二屋に飯す。

二月二十六日叛亂軍將卒判決の報出ヅ

   7月12日

叛軍士官代代木原ニテ死刑執行ノ報出ヅ

   7月25日〜馬場孤蝶君〜

暑甚し。馬場孤蝶君書あり。

   8月15日〜伯林オリンピク〜

此夜伯林オリンピクの放送十二時頃より十二時半に至る。銀座通のカフヱー及喫茶店これがためにいづこも客多し。

   9月23日〜拙稿入用の由〜

去七月頃朝日新聞社の記者某氏日高君を介して小説の起稿を需めしことあり、其時は曖昧の返事をなし置きしにいよいよ來月中旬より拙稿入用の由申來りし故病に托して辭退したり。余は菊池寛を始めとして文壇に敵多き身なれば、拙稿を新聞に連載せむか、排撃の聲一時に湧起り必掲載中止の厄に遇ふべし。余はまた年々民衆一般の趣味及社會の情勢を窺ひ、今は拙稿発表すべき時代にあらずと思へるなり。

   11月12日〜金剛寺阪上

午後寫眞機を携へ、小石川金剛寺阪上に至り余が生れたる家のあたりを撮影す。蜀山人が住みたりし鶯谷に至りて見しが陋屋立て込み、冬の日影の斜にさし込みたれば、そのまゝ去りて傳通院前より車に乘りて歸る。

   11月15日〜田端自笑軒〜

日曜日 晴。午後落葉を焚く。薄暮巖谷撫象君來訪。故冬生君の令息を紹介せらる。出版業を開く計畫ありとて、田端自笑軒に赴き晩餐を馳走せらる。

   11月27日〜終日病蓐に在り〜

午後より雨。終日病蓐に在り。

日本政府獨逸と同盟を結ぶ。

   12月14日〜深川八幡〜

晩食の後深川八幡境内より洲崎遊廓を歩み、銀座のきゆぺるに小憩してかへる。風やゝ寒し。

昭和12年(1937年)

   1月1日〜雜司ヶ谷墓地

舊十一月十九日くもりて風なく暖なり。朝十一時眠よりさめて紅茶にK麺麭を食すること二片(きれ)ばかり。午後一時晝飯を食して家を出づ。谷町より圓タクを倩ひ雜司ヶ谷墓地に赴き先考の墓を掃ひ、又成島柳北の墓前に香花を供ぐ。

   2月3日〜自炊をなす〜

家に至るに名鹽君來りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生其情婦を携へ來る。奇事百出。筆にすること能ふぁざるを惜しむ。此日より當分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るゝには新聞に募集の廣告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生歸りて後臺處の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。疊の上に寐るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。

   2月24日〜飯茶碗南京皿等〜

曇りて暖なること彼岸前後の如し。正午に起き、湯殿の側なる押入にしまひたる古道具の中より飯茶碗南京皿等を取出して洗ふ。此等の食器は大正七八年築地に僑居せしころ使用せしもの、麻布移居の後は下女の破壊せむ事をおそれてしまひ置きしなり。思へばその頃わが六兵衞の茶碗洗ひしお房も既に世になき人とはなれり。

   3月20日〜獨居自炊の日〜

くもりて風さむし。下女を雇はず獨居自炊の日をたのしむこと早くも一個月半になりぬ。嘗て築地本願寺の畔に住みし時しばらく自炊せしことありしが、その折は淋しく果敢(はかな)き思に堪へやらぬこともありしが、今は下女の家に在らざること、家内の靜寂をみださず、且はまた臺處を心のまゝに使ひ得れば、おのづから口にあひたる物をつくり得るなり。

   3月24日〜武田谷齋翁〜

燈下假名垣魯文の手澤本四冊をよむ。林若樹舊藏のものと云ふ。

南陀迦紙亂の中に紅葉山人と其父とに關する記事あり。左の如し。

角彫工武田谷齋翁は現時小説家に名ある紅葉山人尾崎徳太郎(二十四)の實父なり。谷齋翁その男に學ひの道明らか成らしめんとするに、獸角に彫物せる手間賃にては中學費足るへくもあらすと、中頃本職を廢て、赤羽織を服(?)にまとひ専ら幇間者流に加はり、此處彼處の宴席に侍り、冨者の纏頭に過分の金を得て、その子徳太郎に卒業の名譽を得さしむ。されど徳太郎氏正學を外にして新聞雜誌の小説を記述し、一時世に行はるゝも、老父の本來面目にはあらしかし。紅葉山人父母の家を去りて牛込横寺町四十七番地神樂坂裏手に住ふ。魯氏これを知り狂歌一首を戯吟す。 妙々道人

  紅ひの葉織着流すいとなみに我子寶の仕立榮せり

荷風曰。余幼少のころ回向院相撲場にて見物の際赤羽織の谷齋を屡見たることあり。又谷齋の角彫の根付も一時秘藏せしが今はなし。

   3月30日〜古美術の保護〜

天氣快晴。春色正に爛漫たり。正午過芝公園を歩む。台徳院御靈屋惣門の裏側に浮浪人數名小屋をつくり破鍋にて物を煮てゐたり。通行の人もこれを見て怪しまず、巡査も亦捨て置きてとがめざるが如し。日本人の古美術の保護に冷淡なるは驚くに餘りあり。増上寺本堂は明治四十一二年の頃乞食の焚火により灰燼となりし實例もあるにあらずや。

   4月25日〜せまき我家〜

日曜日。細雨烟の如く新緑更にこまやかなり。午前寫眞製作。午後二階の几案を下座敷に移す。大正九年この家に來りし當初には二階を書齋となせしが、姑(しばら)くにして玄關側の一室にて物書き馴るゝに至りぬ。癸亥の秋大震の起りし時にはこの室にて細井平洲の文集をよみゐたりしなり。お榮とよぶ妾を蓄るに及び机を二階に運上げていつか十四五年の歳月を過したり。老い來ればせまき我家の中に在りても、兎角感概(ママ)に沈めらるゝ事多きぞ是非もなき。

   6月15日〜眞崎稻荷

七時頃樓を下るに空くもりて風凉しければ、大門前よりバスに乘り白髯橋に至る。早朝の川景色を眺めんとてなり。橋の兩岸には工塲多く煤烟濛々たり。瓦斯タンク裏の眞崎稻荷に賽す。稻荷の社殿は石濱神明宮の境内に在り。恰も祭禮の當日にて若者神輿をかつぎ出し、神官は裝束きて白馬に跨り白丁を從へて境内を出でむとするところ。

   6月22日〜目黄不動の祠〜

日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに、大關横町と云ふバス停留場のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。香烟脉々たり。掛茶屋の老婆に淨閑寺の所在を問ひ、鐵道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を圍らしたる寺即是なり。門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗の色の殘りたるに、三十餘年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。

若紫恚L

女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の號なり。明治三十一年始めて新吉原角海老樓に身を沈む。樓内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双ひなかりしが、不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫怩ニ名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。

  明治卅六年十月十一日

    七七正當之日           佐竹永陵誌

又秋巖原先生之墓。明治十年丁丑二月十日歿。嗣子原乙彦受業門人中建之。ときざみし石あり。

   7月11日〜日支交戰の號外〜

午前土州橋病院に行き藥を求め銀座に晝飯を喫す。日支交戰の號外出づ。

   8月24日〜東京住民の生活〜

花川戸の公園に至り見れば深更に近きにも係らず若き男女の相携へて歩めるもの多し。皆近鄰のものらしく見ゆ。余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相應に滿足と喜悦とを覺ゆるものゝ如く、軍國政治に對しても更に不安を抱かず、戰爭についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり。

   8月27日〜出征の兵を送る〜

昏暮銀座に夕飯を喫し、上野を歩む。出征の兵を送るもの停車場前に雜踏す。省線電車に乘るに新宿澁谷五反田の各停車場も兵卒見送人にて雜踏す。五反田より電車にて家にかへる。片月樹頭にかゝり、虫語喞々たり。

   9月12日〜民家に兵士宿泊〜

再び眠らむとすれども得ず、門を出て近巷を歩む。市兵衞町より箪笥町の邊にも民家に兵士の宿泊する處多く、空地に天幕を張り憲兵の立番するを見たり。

   9月13日〜増上寺境内〜

晴。午後寫眞機を提げて芝山内を歩む。怠(ママ)徳院廟の門前を過きむとする時、通行の僧余を呼留め増上寺境内に兵士宿泊するがため其周圍より山内一圓寫眞を撮影することを禁じたり。憲兵に見咎められ寫眞機を没収せられぬやう用心したまふべし。と云ふ。余深くその忠告を謝し急ぎて大門を出づ。芝神明宮祭禮にて賑なり。

   9月21日〜牛肉戰爭の爲値上げ〜

(※「日」+「甫」)下淺草廣小路松喜に夕食を喫す。牛肉戰爭の爲値上げとなる一人前ヒレ六十錢の處七十錢餘となる

   10月13日〜出征する者〜

東武鐵道乘車場は出征兵士見送人にて雜沓す。見送人の大半は酒氣を帶び喧騒甚しく出征者の心を察するが如きものは殆どなきやに見ゆ。玉の井の知る家に小憩し松喜に飯して不二地下室に入る。安藤大和田空庵歌川の諸子に會ふ。銀座邊住民中出征する者既に二百五十餘名に達すと云ふ。

   10月14日〜一人の乞食〜

この夜不二地下室に尺八を携へたる一人の乞食入り來りボーイを脅喝して珈琲を啜り又いやがらせの爲尺八を吹鳴せり。其去りたる後ボーイに問ふに辻順(ママ)と云ふ狂人にて時折物乞ひに來ると云ふ。辻順は十年前銀座尾張町のカフェータイガにて余を脅喝したる貧文士なり。今夜これを見るも其容貌全く一變しボーイの話をきくまで余は心づかざりし程なり。

   10月16日〜送別の式〜

歩みて玉の井に至るにまたもや降り來る雨の中を樂隊の音樂を先驅となし旗立てゝ歩み行く一群に逢ふ。路地の口々には娼婦四五人ヅゝ一團になりて之を見送り萬歳と叫ぶもあり。思ふに娼家の主人の徴集せられて戰地に赴くなるべし。去年の暮より余が知れる家に至りて様子をきくに、出征する者は二部何番地の家の息子にて見送りの人々は共に白鬚神社まで徃き社殿にて送別の式をなして歸るが例なりと云ふ。

   10月16日〜地方にて徴集

朝十一時床より起きて着物きかへむとする時古本屋中村來る。去月信越方面に古本買出しに行きしにその地方にては徴集せらるゝ兵士甚多く、旅館はいづこも混雜してゐたりと云ふ。

   11月5日〜鷲神社一の酉

一の酉なれど雨のためか市立つあたりの町々車留とはならず、大音寺前の大通も暗くして人出少し。仲の町の籬には菊の花さかりなり。茶屋浪花屋に立寄り房いろ小槌の三妓を招ぐ。大引頃芝口茶漬飯屋金兵衞のおかみ板前の男をつれ熊手買ひに來る。雨は歇まざれど糠の如くこまかなれば一同茶屋を去り鷲神社に賽す。鳥居の前にて圓タクに乘れば東の空ほのかに白みかゝりぬ。

   11月15日〜月嶋の渡船場

快晴。朝丸の内に用事あり。銀座を過ぎて月嶋の渡船場に至る。風靜にして歩みつゞくる時汗出る程のあたゝかさなり。正午歸宅。

   11月16日〜淺草オペラ館〜

銀座不二地下室に飯して後今宵もまた淺草オペラ館の演技を看る。余淺草公園の興行物を看るは震災後昨夜が始めてなり。曲馬もこのオペラ館も十年前に比較すれば場内の設備をはじめ衣裳背景音樂等萬事清潔になりたり。オペラ館の妓藝は曾て高田舞踊團のおさらひを帝國劇場にて見たりし時の如くさして進歩もせず。唱歌も帝國劇場にありし頃のものと大差なし。されど丸の内にて不快に思はるゝものも淺草に來りて無智の群衆と共にこれを見れば一味の哀愁をおぼへてよし。

   12月19日〜むさゝびの冊子〜

日曜日。雨。午後佐藤春夫君來話。其著むさゝびの冊子を贈らる。

   12月23日〜オペラ館女優〜

出でゝハトヤ喫茶店に入る。夜既に一時になんなんとす。オペラ館男女の藝人七八人在り。皆近巷に住むものゝ如くジヤムトーストを携へかへる女優もあり。人をして可憐の思をなさしむ。余震災前帝國劇場の女優と交り其生活を知れり。彼等は技藝甚拙きに係らず心おごりて愛すべきところ少し。今夜圖らずオペラ館女優の風俗を目撃し、その質素なるを見てますます可憐の思をなしたり。

昭和13年(1938年)

   1月25日〜ムーラン、ルージユ〜

晴。燈刻銀座に飯し新宿ムーラン、ルージユの演技を觀る。此一座昭和五六年の頃より始まりし趣番組に記されたり。歸途追分藝者家町を歩む。曾てわが知りたる牛門の妓簪子といへるがこの土地に住替へして園香といひしを折々尋ねたるも、思返せば早や七八年むかしとはなりしなり。

   2月2日〜ムーランを立見〜

半晴。寒氣強し。燈刻銀座に飯し新宿ムウランを立見してかへる。讀書未明に至る。

   2月9日〜ムーランルージユ〜

終日眠を貪る。初更新宿に至りムーランルージユ立見。銀座に飯してかへる。空くもりて雪ならんとす。

   2月17日〜支那戰地視察〜

午後中央公論社佐藤氏來り支那戰地視察の事を勸む。

   2月25日〜ムーランルージユ〜

夜新宿ムーランルージユを立見し銀座不二地下室に至る。空庵安東竹下歌川の諸子在り。風寒し。

   2月27日〜オペラ館の舞臺稽古〜

晴れて風暖になりぬ。午後川上典夫來り話す。誘はれて淺草に至りカツフヱーヂヤポンに飲む。夜十一時川上と共にオペラ館の舞臺稽古を見る。館主田代旋太郎作者堺某小川丈夫俳優清水金一其他の人々と閑款話して二時ごろに歸る。

   3月7日〜俳優清水金一〜

微雨晩に霽る。銀座に飯して後淺草オペラ館樂屋に至る。閉塲の時刻を待ち俳優清水金一、女優西川千代美、文藝部員淀橋太郎其他二人とカフヱーヂヤポンに一酌し車にて吉原角町の茶漬飯屋壽美禮に至りて飲み又食ふ。淺草邊にては十二時過ぎて後ゆつくり飲む店はなしと云ふ。この夜一時過ぎてより藝者連の客三四組ありて店内空席なき好況なり。二時頃盃を収め郭内を歩み清水金一の借間に至る。京町二丁目裏通より程近き曲角にて、下は何とやら云ふ喫茶店なり。金一の妻は藝名を柴野治子と云ひ、金一と同じ一座の踊子なり。此夜オペラ館に稽古ありて今方歸り來りしところなりとて既に敷延べたる夜具を片寄せ茶をすゝむ。兎角する中弟子の踊子一人又歸り來る。借間の様子を見るに、二方に廣き窓あり。人形寫眞繪葉書扇子などにて室内賑かに見ゆ。出入口の扉の中に贔屓の客より贈りし紫色の納廉を下げたり。三時ごろ外に出で、園タクにて西川千代美を入谷の狭き横町の家に送る。千代美は老母と二人ぐらしなりと云ふ。

   3月10日〜喫茶店中西〜

薄暮淺草公園オペラ館樂屋に行く。閉塲後西川千代美、其妹の踊子絹子、文藝部の小川氏等とに憩ふ。偶然河合壽美子に逢ふ。

   3月11日〜花環の代金〜

軽陰。午後丸ノ内に徃き、それより淺草公園中西喫茶店に至り待乳山人の來るを待つ。山人小田歌川渡邊の諸子と共にオペラ館の演技を看る。閉塲後踊子高杉智惠子石田文子の二女を拉し一同千束町のお好燒屋ます田に至る。午前二時家にかへる。此夜西川千代美柴野治子の二人に花環の代金を贈る。花環八圓芝居表方へ心附二圓〆十園なり幟一流三圓表方心附一圓なりと云

   3月28日〜女優西川姉妹〜

淺草オペラ館樂屋に徃き女優踊子と共に森永に飯す。夜半舞臺稽古を見て四時に至る。細雨歇まず。女優西川姉妹を園タクにて入谷の裏町に送り五時近く家に歸る。

   4月4日〜女優西川千代美〜

女優西川千代美と共に丸屋に夕飯を喫して後家に歸る。夜氣冷なり。

   4月5日〜志那蕎麦屋品芳樓〜

九時過オペラ館樂屋に至る。閉場後稽古を見る。淀橋小川の二氏女優西川等と共に志那蕎麦屋品芳樓に小憩して深更に歸る。

   4月20日〜奇談を耳にす〜

閉塲後踊子の一群と森永に飯し、車にて日本橋西仲通の路地に木村時子の營む喫茶店に至り。夜半過踊子をそれぞれ其家に送りてかへる。此夜時子より奇談を耳にす。女優西川千代美の情婦菊池某大道具かにやの背景画工余と西川との關係を邪推し暴行をなさむとする虞れありとのはなしなり。

   4月24日〜洋食店シヤトル〜

余は踊子の大部屋に留り晝飯は霞輝夫西川千代美と共にたぬき横町の洋食店シヤトルに、夕飯はまるやに至りて食す。

   5月2日〜踊子の生活〜

夜既に一時を過ぐ。風雨やまず。車にて踊子三四人を吉原郭外及入谷邊の家に送りて麻布に歸る。三月以來毎夜踊子の生活を觀察するに悲哀言ふべからざるものあり。

   5月3日〜中傷の記事〜

この日毎夕新聞余及西川千代美に對して中傷の記事をかゝぐ。

   5月9日〜樂屋頭取長澤〜

小川氏來りて用談ありと言ふ。再びオペラ館に至る。小川氏のはなしは下の如し。余が樂屋に出入し踊子女優を誘ひ食事に出るは甚世間体よろしからず。樂屋頭取長澤と云ふ人甚不快に感じ居れり。又其のたびたび文藝部の作者等の余と共に飲食するも甚その意を得ざることなりと、頭取言出せしより小川氏と頭取との間に口論ありし由なり。余小川氏をなぐさめ燒鳥屋蔦屋に一酌し二時過車にて家にかへる。余小川氏の談話をきゝ今日まで緊張したりし興味一時に消ゑ失せし思をなせり。好事魔多しとは盖これ等の事を謂ふなるべし。余の初めて川上典夫に導かれて樂屋に至りしは今春二月二十七日の夜なりき。それより今日まで數ふれば六七十日の間余の晩餐は可憐なる舞群女優の伴侶あるがためにいと賑なりき。余は食事の時葡萄酒の外他の飲料を口にせざりしが女供の中に折々ビールを飲むものありて、余も遂に此酒の味を知るに至れり。明日よりいよいよ葛飾情話の稽古はじまる筈なれど、踊子等と共に飲食する事能はずなりては稽古場に行く心も起らず。淺草に對する興味もこの夜をかぎり、既に過去の思出になりしこそ悲しき次第なれ。

後日ノ噂ニ竹下よしみハ頭取長澤ノ妾ナリ其ノ爲コノコトアリシト云

   5月10日〜西川千代美〜

此夜絹子より其姉西川千代美舞台を退きし由を聞く。

   6月17日〜西川千代美姉妹〜

十時車にて淺草に至る。西川千代美姉妹の來るに逢ひ森永に憩ふ。

   6月30日〜新古今集

天氣恢復せず。病猶痊えず。終日蓐中に在り。たまたま新古今集雜ノ部をよむに

  秋をへて月をなかむる身となれりいそぢの闇をなになけくらむ
前大僧正慈圓
  ながめてもむそぢの秋は過にけりおもへばかなし山のはの月
藤原隆信朝臣

   7月1日〜村田某召集〜

丘道子の情人村田某常磐座俳優召集令を受けたりとて、道子涙にくるゝさま見るに忍びず。雨またふり出して歇まず。

   7月15日〜蔦屋の主人〜

オペラ館終演後眞弓永井菅原と森永に飯す。眞弓と共に西川千代美の家を訪ふ。妹絹子をいざなひ共に合羽橋通の蔦屋に一酌す。蔦屋の主人は左團次の門弟なり。

   8月8日〜料理屋兼旅館〜

立秋。午後土州橋に行き藥價を拂ひ、水天宮裏の待合叶屋を訪ふ。主婦語りて云ふ。今年郡部の人の勸めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼地に徃き、歸り來りて賣春婦三四十名を募集せしが、妙齡の女來らず。且又北京にて陸軍將校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋其他の費用のみにて少くも二萬圓を要す。軍部にては一萬圓位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといはれたれど、北支の氣候餘りに惡しき故辭退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、舊二十九軍將校の宿泊せし家なりし由。主婦は猶賣春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他をかたりぬ。

   8月23日〜オペラ館男女下廻の給金〜

晴。早朝丸ノ内及土州橋に行く。歸途バス乘場にて去年五月頃オペラ館に出演しゐたりしコーラス女姓名失念に會ふ。オペラ館男女下廻の給金四拾圓より六拾圓までの由。

   9月3日〜夜來大雨〜

夜來大雨今朝にて(ママ)至つて纔に歇む。午後土州橋病院に徃き藥を求む。病院南に向ひて箱崎川の岸に在り。二階破損甚しと云ふ。淺草オペラ館に至り見るにこの小屋は風を避けたるため損害なし。樂屋の噂をきくに千住大橋兩岸一日の朝は河水氾濫して人家の床上に上りたり。小松川平井町一帶は今日に至るも水退かずと云ふ。龜井戸天神川以東水は人の胸に達す。天神裏の私娼窟は水びたしにて女共二階の窓より遊客田舟に乗りて來るものを呼入れ商賣をなすと云ふ。淺草公園池の島の汁粉屋破損し岸の樹木大かた倒れたり。オペラ館閉場後男女俳優と共に森永に會食すること例の如し。

   9月6日〜杉野兵曹長〜

大風の餘波尚しづまらず時々急雨來る。

   噂の噂

神田須田町の街頭に廣瀬中佐の銅像と共に杉野兵曹長の銅像の立てることは世人の知る所なり然るに杉野は戰死せしに在らず其後郷里浦和に居住し此程老齡に達し病死せしと云杉野翁の孫なる人現に浦和に在り近鄰の人々も杉野翁の事をよく知り居れりと云

小説生きた(ママ)兵隊作者石川達三中央公論社雨宮庸藏其他一名禁錮四個月猶豫三個月の宣告を受く

   12月11日〜廣小路の交番〜

日曜日晴。薄暮玉の井を歩む。私服の刑事余を誰何し廣小路の交番に引致す。交番の巡査二人とも余の顔を見知り居て挨拶をなし茶をすゝむ。刑事唖然として言ふ處を知らず。亦奇觀なり。

   12月14日〜偶然お歌に逢ふ〜

(※「日」+「甫」)下谷中生來話。共に出でゝ淺草に徃かむとする途上谷町通にて偶然お歌に逢ふ。十年前麹町に圍ひ置きたる女なり。其妹なるもの氷川町邊に住めるを訪ふところなりと云ふ。

   12月17日〜現代の官吏軍人〜

仲店の羽子板市を見る。大なる羽子板には折々淺草香煙何々家何子様賣約濟とかきし紙をつけたり。北廊を漫歩し公園に立戻りて汁粉屋梅園に憩ふ。夜既に二時を過ぎしに藝妓を連れたる客幾組もありて賑なり。恰も此日の新聞に大藏次官三越店内を視察し羽子板買ふものゝ多きを見憤慨して此玩具にも戰時税を課すべしと云ふ談話筆記あるを思合せ、余は覺ゑず微笑を浮べたり。現代の官吏軍人等の民心を察せず世の中を知らざる事も亦甚しきなり。鴎外先生が蘭軒の傳に、征露出陣の兵士が其途上嚴嶌を參拜せし事、また黒船渡來の最中旗本の士が邸内の初午祭に茶番を演じてよろこびし事をしるしたり。櫻花は戰時と雖春來れば花さくものなるを知らずや。

   12月21日〜馬場先門〜

若し電車に乘りて道を京橋に取れば馬場先門跡を通る時脱帽敬禮を強制せらるゝを以て、芝口銀座の道を取りて雷門に至る。

昭和14年(1939年)

   1月24日〜お歌來る〜

晴。ホ(※「日」+「甫」)下お歌來る。七八年前富士見町にて世話せし女なり。今麹町四谷見附内に住すと云ふ。

   1月28日〜藝人中韓某〜

踊子等と森永に淺酌すること例の如し。酒間踊子よりきゝたる噂に、オペラ館出演の藝人中韓某とよべる朝鮮人あり。一座の女舞踊者春野芳子といふ年上の女とよき仲になり大森の貸間を引拂ひ、女の住める淺草柴崎町のアパートに移り同じ部屋に暮しゐたりしが、警察の知るところとなり十日間劇場出演を禁じられたりと云ふ。朝鮮人は警察署の許可を得ざれば随意に其居所を變更すること能はざるものなりと云ふ。此の話をきゝても日本人にて公憤を催すものは殆無きが如し。

   3月10日〜菊池寛賞〜

地下鐵社内にて偶然高橋邦太郎氏に逢ふ。近年文壇に賞金の噂多し。菊池寛賞と稱するもの金壹千圓此度徳田秋聲之を受納せしと云ふ。高橋君の談なり。余は死後に至りても文壇とは何等の關係をも保たさゞ(ママ)らむことを欲す。余が遺産の處分につきては窃に考るところあり。今は言はず。

   3月21日〜鶯の鳴く〜

晴天。日は暮れかゝりて風寒き折から不圖窓外に鶯の鳴くを聞く。幾年となく聞き馴れしこの聲今年の春には一度も聞くことなかりし故、これも亂世のためと思ひあきらめ居たりしに、圖らずも再びこれを耳にしたる喜び譬へむに物なし。

   3月29日〜根岸笹の雪

オペラ館終演の後踊子等と森永に少憩し、其中の一人三河島二丁目警察署裏に歸るものを送りて後、陋巷を歩み、道に迷ひて根岸笹の雪のほとりに出づ。

   4月1日〜私娼上りの女〜

夜九時別れてひとり人形町の聡美に至り、その主婦と相談し道子とよぶ私娼上りの女を外妾とすべきことを約す。十一時過其女來りたれば伴ひて家にかへる。

   4月2日〜横町の貸二階〜

日曜日正午に起き道子を伴ひて里美に徃く。淺草公園近傍のアパートに住はせ置かむと思ひて、心あたりへ電話にて問合せしが空室なし。旅館も四五軒問合したれど亦滿員なりとて斷られたり。下女にたのみて水天宮近傍の貸間をさがさせしがこれさへ思ふが如くならず。薄暮に至り新大橋向の河岸近き横町に貸二階を見つけたりとの知らせを得て、様子はわからねど借受の約定をなす。夜もふけそめ雨も降り出したれば再び道子を伴ひ電車にて家にかへる。

   4月11日〜道子の身元〜

晴。終日鶯語をきく。道子早朝轉居のため辭して去る。余老年に達し自炊にも稍疲勞をおぼゆる日の多くなり行きたれば、道子の身元判明するを待ちわが方へ引取らんと思ひ居たりしかど、其性行あまりに淫蕩なるのみならず大坂者にて氣風甚氣に入らぬ事多きを以て、体よくこの日かぎり關係を斷つことゝなせり。

   5月10日〜町の辻々〜

この頃町の辻々に日獨伊軍事同盟のビラ政黨解散を宣言するビラ貼り出さる。

   7月2日〜戰爭物を演ずる〜

オペラ館は來週戰爭物を演ずる由、そのため憲兵隊より平服の憲兵一人來り稽古を檢分す。其筋の干渉ますます過酷となりたるを知るべし。谷中氏來りたれば女優踊子等と共に森永に會談す。歸途月よし。

   8月10日〜西銀座の裏通〜

晴。秋風颯々たり。夜銀座食堂に飯す。久しく西銀座の裏通を歩まざれば試に杖を曳く。二丁目より三丁目邊に軒を並べたるカフヱーは數年前と變りなく猥陋甚しき様子なり。麥酒コツプ一杯七拾錢。テーブル代と稱して祝儀二圓。これが最低の値段なり。これに一圓女給の祝儀を加ふれば女給は膝の上にまたがりてその爲すがまゝの戯れをなす。女給は皆地方出のものにて年頃十七八のものもあり。

   8月28日〜平沼内閣〜

停車場前の路上には新聞の賣子大勢號外を配布せんとしつゝあり。平沼内閣倒れて阿部内閣成立中なりと云ふ。これは獨逸國が突然露國と盟約を結びしがためなりと云ふ。通行の若き女等は新聞の號外などに振返るもの一人もなし。夜淺草オペラ館に行きて見るに一昨日までヒトラーに扮して軍歌を歌ふ場面もありしが、昨夜警察署よりこれを差留めたりとの事なり。

   8月29日〜銀座通〜

銀座通人出おびたゞし舊七月十五夜の月よし。街の辻々に立てられし英國排撃の札いつの間にやら取除けられたり。日獨伊軍事同盟即事斷行せよ又は香港を封鎖せよなど書きしもの其種類七八樣もありしが皆片付けられたり。此と共にソ聯を撃てといふ對露の立札も又影をひそめたり。

   9月2日〜獨波開戰〜

此日新聞紙獨波兩國開戰の記事を掲ぐ。シヨーパンとシエンキイツツの祖國に勝利の光榮あれかし。

   9月7日

泉鏡花歿名鏡太郎加州金澤人

   9月15日〜女子の洋裝〜

黄昏花村に至り夕飯を喫して後、三越店頭に立ちて電車を待つ。女の事務員賣子等町の兩側に群をなして同じく車の來るを待てり。颯々たる薄暮凉風短きスカートろ縮らしたる頭髪を吹き飜すさま亦人の目を喜ばすに足る。余は現代女子の洋裝を以て今は日本服のけばけばしき物よりも遥に能く市街の眺望に調和し、巧に一時代の風俗をつくり出せるものと思へるなり。見るからに安ツぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛とを露出して大道を濶歩する其姿は、薄ツぺらなるセメントの建物、俗惡なるネオンサインの廣告、怪し氣なるロータリーの樹木草花などに對して、渾然たる調和をなしたり。之を傍觀して道徳的惡評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるが故なり。

   9月19日

獨露兩國ノ兵波蘭土ヲ占領ス

   9月23日〜バタ及チーズ〜

銀座のモナミに夕食を喫す。バタ及チーズ品切なりとて之を用ひざれば料理無味殆ど口にしがたし。この二品は日本政府これを米國に送り小麥及鐵材を買ふなりと云ふ。東京市内いづこの西洋料理も今年三四月頃よりバタの代りに化學製の油を用うるがため膓胃を害する者多しといふ。

   10月11日〜豚肉鷄卵品切〜

頃日市中に豚肉鷄卵品切となる。淺草松喜の店先に豚肉當分品切となる。

   12月1日〜白米禁止〜

舊十月二十一日晴。終日家に在り。世の噂をきくに日本の全國にわたりて本日より白米禁止となる由。わが家の米櫃には幸にして白米の殘りあり。今年中は白米を食ふことを得べし。

昭和15年(1940年)

   1月8日〜マツチ〜

煙草屋にもマツチなき店次第に多くなれり。飲食店にて食事の際煙草の火を命ずる時給仕人マツチをすりて煙草に火をつけ、マツチの箱はおのれのポケツトに入れて立去るなり。

   1月17日〜町の風呂屋〜

晴。芝口の千成屋に夕飯を喫す。女中のはなしに町の風呂屋今まで午後二時より開業のところ、午後四時となりしため入浴の時間なく、且又女湯込合ひて入ること能はざるほどなりと云ふ。

學生の飲酒を禁ず

   1月28日〜學生禁酒の令〜

日曜日 陰後に晴。銀座を歩むに學生禁酒の令出でしに係らず今猶ビヤホールの卓に椅るものを見る。怪しむべきなり。

   2月16日〜高見順〜

谷中氏に逢ふ。同氏のはなしにこの日の午後文士高見順踊子二三人を伴ひオペラ館に來れるを見たり。原稿紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度實に驚入りたりと云ふ。

   5月5日〜興亞何とやら〜

銀座邊の噂に、本月一日例の興亞何とやらと稱する禁慾日にて、市中の飲食店休業す。藝者も休みなり。女供この日を書入れとなし市外の連込茶屋また温泉宿へ行くもの夥しく、殊に五月の一日は時候もよき故遊山の女づれ目に立ちしかば、警察署にては女給藝者等を内々に取調べ、當日遊山に行きしものは營業禁止の罰を加へんとすと云ふ。

   6月14日〜巴里陷落〜

晴。植木屋來りて庭を掃ふ。巴里陷落の號外出でたり。

   6月19日〜新聞の記事〜

夕方くもりしが夜に入りて月よし。都下諸新聞の記事戰敗の佛蘭西に同情するものなく、多くは嘲罵して憚るところなし。其文辭の野卑低劣讀むに堪えず。

   8月1日〜ぜいたくは敵だ〜

此日街頭にぜいたくは敵だと書きし立札を出し、愛國婦人会辻々に立ちて通行人に觸書をわたす噂ありたれば、其有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり。尾張町四辻また三越店内にては何事もなし。丸の内三菱銀行に立寄りてかへる。今日の東京に果して奢侈贅澤と稱するに足るべきものありや。笑ふべきなり。

贅澤ハ敵也ト云フ語ハ露西亞共産黨政府創立ノ際用タル街頭宣傳語ノ直譯也ト云

   10月16日〜招魂社の祭〜

くもりて靜なり。連日のむし暑さに藪蚊多し。終日庭を掃ふ。夜に入りて雨來る。招魂社の祭今年は臨時なりとのことなれど此神社の祭りに晴るゝ日は少し。銀座邊にも全國の僻地より驅り出されたる田舎漢隊をなして横行するを見る。尾張町四辻にも淺草ちんや前に見るが如く木柵立てらる。鐵のくさりに木の柵繩に綱の如きもの到るところに目につくやうになりぬ。

   11月4日〜出獄放免〜

世の噂をきくに二月廿六日の叛亂の賊徒及濱口首相暗殺犯人悉出獄放免せられしと云ふ。

   11月5日〜銀行預金〜

此夜町の噂をきくに市中銀行預金引出しは最大額一口壹萬圓をかぎりとなし、且その用途を申告するなりと云ふ。預入の塲合は三萬圓以上は同じく其収納の里由を明にするなりと云ふ。國家破産の時期いよいよ切迫し來れるが如し。

   11月10日〜二千六百年〜

私娼二人居合せ赤飯をくらへり。今日は紀元二千六百年の祭禮にて市中の料理屋カフヱーにても規則に依らず朝より酒を賣るとの事なれば待合茶屋また連込旅館なども臨檢のおそれなかるべしと語り合ひ、やがて打連れていづこかに出で去りぬ。

   11月16日〜炭配給券〜

陰。町會のもの來りて炭配給券を渡しくれたれば早速出入の炭屋に行く。程なく炭一俵持來りしが以前の如く親切に炭は切りなどせず俵のまゝ門口に置き認印を請ひて去れり。今年は炭團煉炭も思ふやうには賣られぬ由なり。

   11月27日〜老公の薨去〜

いつもの如く銀座に行かむとて箪笥町の陋巷を歩みながら不圖思ふに、老公の雨聲會には齋藤海軍大將も二度程出席したりき。此人は二月内乱亂の時叛軍の爲に慘殺せられし事は世の周知する所。老公も亦襲撃せらるべき人員の中に加へられ居たりしことも裁判記事にて明なり。而して叛亂罪にて投獄せられし兇徒は當月に至り一人を餘さず皆放免せられたるに非らずや。二月及び五月の叛亂は今日に至りて之を見れば叛亂にあらずして義戰なりしなり。彼等は兇徒にあらずして義士なりしなり。然るに怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介拂ひとなさず却て哀悼の意を表し國葬の大禮を行はむとす。人民を愚にすることも亦甚しと謂ふべし。

昭和16年

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