2006年長 野

旧中山道碓氷峠〜妙義山〜
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旧中山道坂本宿から国道18号の旧道を行き、碓氷峠を越える。


軽井沢町入り口で右折し、旧軽井沢を通って旧中山道碓氷峠に向かう。

日本の道100選


旧中山道

旧中山道碓氷峠道跡

 江戸時代五街道の1つ。江戸から上野、信濃、美濃を経て東海道に合する。

 この谷間の道が五街道の1つ中山道で坂本宿を経て峠に至り軽井沢宿への入り口になっていた。この道の険しさを旅人は、

旅人の身を粉に砕く難所道石のうすいの峠なりとて

苦しくも峠を越せば花の里みんな揃って身は軽井沢

と唄っていた。峠の頂上には道中安全の神、熊野権現が祀られている。

 現在の道(舗装路)は明治天皇巡幸道で、明治11年に改修された道である。

軽井沢町教育委員会

 延享2年(1745年)4月6日、横井也有は尾張公のお供をして江戸から中山道を下る。9日、碓氷峠を越え、追分に泊まる。

 九日

 碓氷峠を越侍る。般若石といへる嶮阻をすぎてより、さのけはしからねば歩行にて行。山谷の桃桜夏としもなく、木のめなど打けぶるやうなるもあり。


 宝暦13年(1763年)、蝶夢は松島遊覧の途上、碓氷峠を越えている。

 海野小諸を歴て、浅間の嶽の下にいたる。五六里にわたりて不毛の地なりと。けふは山風はげしく土砂をあぐるに、雨さへそひて煙も見えず。血河は、あたかも人の血のほと走るかと、おそろし。遠近の里を跡に、碓日の峠は思ひしよりもめやすく、絶頭より望めば、関東の国々薺の如し。「我嬬」と呼玉ひしも、爰よりとなむ。


 安永3年(1774年)4月、加舎白雄は碓氷峠を越える時に句を詠んでいる。

   碓氷嶺をこゆる二句

鄙曇かならずよ山ほとゝぎす

鷹の糞見つゝなツ山しげきかな

白雄坊

 「鄙曇かならずよ山ほとゝぎす」は上田を去って1年ぶりに江戸へ帰る途上の作。

漢字ばかりの句碑が上田城跡公園本丸跡にある。

 天明5年(1785年)、白雄は兄吉重一周忌のため、碓氷峠を越えて上田へ。

 このかミなくなりて既一周(すでにひとめぐり)。せめてもの老がつえもどかしくも碓氷嶺を越つゝ猶子里彦が家に芒鞋(わらじ)をときてこの日の法会にあふ。

   月に日にセまる涙かはるの雨

「兄一周忌追悼」

熊野皇太神社に向かう途中、面白い歌碑があった。


渡辺重石丸(いかりまろ)の数字の歌

四八八三十一十八五二十百万三三千二
五十四六一十八三千百万四八四

世は闇と人は言ふとも正道(まさみち)
勤しむ人は道も迷はじ

重石丸

幕末の国学者。渡辺重石の孫。乃木将軍の師。

読めるはずがない。

昭和43年(1968年)10月、山口誓子は碓氷峠を訪れている。

熊野皇太神社には山口誓子の句碑があった。


剛直の冬の妙義を引寄せる

山口誓子句碑

朝日俳壇で活躍していた山口誓子の作を刻んで昭和50年に建立されました。

見晴台には万葉の歌碑。


日の暮にうすひの山をこゆる日はせなのが袖もさやにふらしつ

『万葉集』(第14巻)

 寛政3年(1791年)3月26日、小林一茶は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。4月16日(5)日、碓氷峠を通りがかって、この歌に触れている。

 十六(五)日 碓井峠にかゝる。きのふの疲に急ぎもせぬ程に、はや太山(みやま)烏は夕を告て、雲を洩る日は渓にかたむく。「せなのがう(そ)でもさやにふ[ら]しつ」といふ万葉しふの姿も、けふ日の暮の景色に思ひ添へて、千歳のいにしへなつかしく、絶頂に有は国分仁王といふ。


以後、小林一茶は江戸と柏原を往復するたびに碓氷峠を越えた。

ひなくもりうすひの坂をこえしだにいもが恋しくわすらえぬかも

『万葉集』(第20巻)他田部子磐前(をさだべのこいはさき)

万葉集歌碑

 わが国最古の歌集である万葉集に碓氷峠の歌が2首のっています。その歌2首の歌碑は碓氷の自然石を使って昭和42年に建立され、表面には読みやすいように現代語で刻まれています。

 文政7年(1824年)4月26日、護物は江戸を旅立ち、碓氷峠で句を詠んでいる。

      碓氷嶺

鶯、ほとゝぎすしばしば鳴、山桑と云る白き花、橡の木、藤の花みな盛也。

   夏山の四五丁つゞく荷牛哉
   ゝ


 文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。碓氷峠を越える。碩布75歳の時である。

 扨臼井の難所にかゝるに雨後の面を覆ひ、腰袋ゆり直すいとまもなくたとりたとり靄を踏てのほる

   ほとゝきす舞遊ふかと思ひけり

 老か突杖かひなくも蚋を拂うて軽井沢に膝を憩ふ

   近よりて見えぬ浅間の暑さ哉

『善光寺詣』

見晴台から妙義山(標高1,104m)が見えた。


 明治24年(1891年)5月、正岡子規は横川から馬車で碓氷峠を越える。

 上野より汽車にて横川に行く。馬車笛吹嶺を渉る。鳥の声耳元に落ちて見あぐれば千仭の絶壁、百尺の老樹、聳え聳えて天も高からず。樵夫の歌、足もとに起つて見下せば蔦かづらを伝ひて渡るべき谷間に腥き風颯と吹きどよめきて万山自ら震動す。遙かにこしかたを見かへるに山又山峩々として路いづくにかある。寸馬豆人のみぞ、かれかと許り疑はれて、

   つゝら折幾重の峯をわたりきて雲間にひくき山もとの里


 明治27年(1894年)6月、高浜虚子は汽車で碓氷峠を越える。

夕雲の空覚束なく三峰に分るゝ者は妙義山なり。雲垂れて暮色遠くより至り窓外山飛び森行く。行方に三日月は煙に消えて碓氷峠のトンネル二十六出つ入りつ、汽笛木魂に響きて物凄し。

   短夜の闇に聳ゆる碓氷かな

「木曽路の記」

 明治43年(1910年)、若山牧水は碓氷峠を越えて追分に向かう。

 日光(ひざし)の淡い日であった。

 正午(ひる)少し下った頃、私は独り碓氷峠の絶頂の古茶屋の庭の床几に腰かけて居た。ツイ眼のまえのから幾多の山が浪を打って遠くの方へ続いて居る。 曇ったともつかぬ淡い雲の中の大要は夫等の峯から峯、峡(はざま)から峡へ鈍紫(にびむらさき)の澱(よど)んだ光を投げている。中にも鋭い角度をなして幾つともなく空に突き出て居る妙義山の峯々の輪郭がしょんぼりとその光線の中に浮いているのが取分けてうら寂しい。

「火山の麓」

 大正2年(1913年)10月2日、高浜虚子は碓氷峠を越える。

十月二日。碓氷峠。

 紅葉客熊の平にどかと下りぬ


 大正12年(1923年)、北原白秋は碓氷峠を越え、前橋を訪れた。

 信州の沓掛ではまだ冬だったが、碓氷峠を越えると、妙義へかけて燃ゆるやうな新緑であつた。そのところどころに また深山つつじが咲き盛つてゐた。晩冬から初夏へ一二時間で飛び越して了つた。それから前橋まで下るといよいよ夏らしくなって、楓の花などが、そこらの寺の庭にちりしいてゐた。桑の畑も緑が深かつた。

「詩と音楽」(大正12年6月号)より

松井田町坂本の「アプトの道」に白秋の歌碑がある。

浅間山は雲に隠れて見えなかった。


 昭和41年(1966年)、富安風生は碓氷峠を訪れた。

   碓氷峠

雲居せる白き日輪冬峠

雲流れ峠路の冬急ぐなり

『傘寿以後』

岩松院へ。

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