芭蕉ゆかりの地
大川端芭蕉句選
是日中洲河岸より深川にわたる新鐵橋既に工事落成せるを見たり。 |
九年(ここのとせ)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。長安は古来名利の地、空手(くうしゅ)にして金なきものは行路難しと云けむ人のかしこく覚え侍るは、この身のとぼしき故にや。 |
寛文12年(1672年)、29歳の時芭蕉は故郷伊賀上野から江戸に出て、8年間小田原町(現室町1丁目)に住んだ。延宝8年(1680年)、小田原町から深川の草庵に転居。 |
老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたゝびこの句を侘て、屋漏の句作る。其世の雨を芭蕉葉にきゝて、独寝の草の戸。 |
天和2年(1682年)12月28日、芭蕉庵焼失。「八百屋お七の火事」である。 |
ある年、菴の邊り近く火起りて、前後の家ともめらめらと燒くるに、炎熾かんに遁るゝ方あらねば、前なる渚の潮の中にひたり、藻をかつぎ煙りを凌ぎ、辛うじて免れ給ひて、いよいよ猶如家宅の理りを悟り、只管無所住の思ひを定め給ひけると也。 |
ふたたび芭蕉庵を造り営みて |
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あられきくやこの身はもとのふる柏 |
天和3年、芭蕉は都留郡谷村(現都留市)の高山麋塒(1649〜1718)を頼って逗留している。同年冬、第二次芭蕉庵完成。 |
元禄2年(1689年)3月27日、「住る方は人に譲り」、芭蕉は「奥の細道」に旅立った。8月21日、大垣で「奥の細道」の旅を終え、芭蕉は伊賀上野や膳所、京都などを漂泊。その間第二次芭蕉庵の再入手を試みたが、実現出来なかった。 元禄4年(1691年)9月28日、芭蕉は江戸へ旅立ち、同年11月1日に到着した。 元禄5年(1692年)5月、第三次芭蕉庵新築、芭蕉を移植した。 |
『泊船集』には「名月や門にさし込潮かしら」、『芭蕉句選』に「名月や門へさし來る汐かしら」とある。 |
元禄6年(1693年)12月7日、千住大橋、両国橋に続く3番目の隅田川架橋として新大橋が架けられた。 |