2009年群 馬

碓氷峠越え〜熊野神社〜
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皇女和宮道は旧中山道に合流する。

思婦石(おもふいし)


ありし代にかへりみしてふ碓氷山

     いまも恋しき吾妻路のそら

群馬県室田の国学者関橋守が日本武尊の故事を詠んだ歌碑である。

熊野神社(HP)へ。

碓氷峠の熊野神社は和歌山、山形と共に日本三大熊野のひとつだそうだ。

熊野神社の石段


群馬県と長野県の県境である。

随神門


宝暦13年(1763年)4月13日、二日坊は熊野権現で句を詠んでいる。

刎石なと、おそろしき山路をのほりて、碓氷峠といふに熊野権現の社あり

ぬかつくも涼し碓氷の神の前
   坊


拝 殿


熊野神社の由緒

新宮殿
 速玉男命(はやたまのおのみこと)

本宮殿
 伊邪那美命(いざなぎのみこと)

 伊邪那美命(いざなぎのみこと)

 日本武尊(やまとたけるのみこと)

那智殿
 事解男命(ことさかのおのみこと)

 当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれたとき、八咫烏の道案内によって無事嶺に達する事ができたことにより熊野の大神を祀ったと伝えられる。

 碓氷嶺に立った尊は雲海より連想され、走水で入水された弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を偲ばれて「吾嬬者耶(あずまはや)」と嘆かれたという。(日本書紀より)

 貞享2年(1685年)、貝原益軒は日本武尊のことを書いている。

昔日本武尊東征し給ひ、碓日嶺より辰巳の方を望て、弟橘姫をしたひ三度嘆て、吾嬬者耶とのたまひしは此所成べし。是より山東の諸國を吾嬬國と云と、日本記の景行記に見えたり。


 安永9年(1780年)3月23日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、碓氷峠で日本武尊のことを書いている。

日本武尊のこの嶺より弟橘姫をしたひて「吾嬬者那(耶)」と宣し心を、

   花ぐもり京なつかしと我はいはん


 享和2年(1802年)4月3日、太田南畝は熊野権現の神主に迎えられて碓氷峠へ上った。

ひぢり沢よりから沢などいへる長き坂を上るに、此比に(の)寒さに衣をかさねたるがやゝあつき心地すれば、立場の茶屋にいこひて衣ぬがんとするに、道のほとりに麻の上下きて出てひざまづくものあり。誰ぞと問へば、此山の上なる熊野権現の神主なり。をのがやどりに案内して昼のやすみとらせんといへど、けふは熊野権現の祭とて太々講とかや、社をむすべるものよりつどひて、神楽をすゝめ酒のみ物くふさまみゆれば、人だち多き所にまじはらんもうるさく、やうやうにすかしこしらへて権現の社にもまうでず、峠の立ばにもいこはずして行過ぬ。


伊達政宗の発句

 慶長19年(1614年)4月末に峠を登ってきた政宗は「夏木立花は薄井の峠かな」と詠んだ。

しげの屋


しげの屋も県境にある。

元祖ちから餅を買う。

碓氷峠の力餅のいわれ

 中山道最大の難所である碓氷峠を越える旅人が道中安全を願い熊野神社にお参りした際、護符として餅が授与された事が力餅の始まりと伝えられる。

 また、「碓氷貞光の力餅」とも呼ばれる。碓氷貞光は、源頼光の家来の四天王(他、坂田公時、卜部季武、渡辺綱)の一人で、熊野神社の社家に生れたと伝えられる。

 日向見温泉「御夢想の湯」は、日向守碓氷貞光の夢まくらに童子が立ち、四万の病脳を治す霊泉を教えたという伝説から名付けられた古湯。

しげの屋の眺望


 昭和2年(1927年)8月18日、永井荷風は碓氷峠に登り、熊野権現に参拝している。

猶登り行くこと二十分はが(ママ)りにして峠のいたゞきに達す、左の方に熊野權現の古祠あり、華表殿堂古色蒼然たり、皇族下馬の高札を立てたり、禮拜して後尸祝に請うて厄除けの護符を購ふ、祠前細徑を隔てゝ平坦の地あり、見晴の台と稱す、


見晴台へ行くと帰りが心配なので、旧中山道を下る。

黄 葉


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