2022年高 知

五台山公園〜濱口雄幸先生銅像〜
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高知駅前から「MY遊バス」に乗り「五台山展望台」下車。

五台山公園へ。

南国土佐をあとにして


 太平洋戦争当時、大陸を転戦する郷土出身鯨部族の将兵によって作りうたわれ、戦後武政英策の補作編曲により、昭和34年ペギー葉山がうたい全国民に唱されるに至った。

 この民謡の生い立ちをしるし過去と未来を結ぶ心のきずなとする。

躑躅が咲いていた。


浜口首相狙撃さる――さういふ新聞通信を見た時、私は修証義を読みつゝ行乞してゐた、――無情忽ちに到るときは国王大王親眤従僕助くるなし、たゞ独り黄泉に赴くのみなり、己れに随ひゆくは善悪業等のみなり。――

『行乞記(一)』(昭和5年11月14日)

ライオン宰相 濱口雄幸


平成12年(2000年) 3月、建立。

政治に清き流れを重ねて今願う

 四国出身者で最初に内閣総理大臣を勤められた濱口雄幸先生は、高知市五台山唐谷(現在)の水口胤平三男として明治3年4月1日誕生した。

 五台山小学校(現)県立高知中学校(旧制)第三高等学校 (旧制)続いて東京帝国大学政治学科(旧制)に進学、安芸郡田野村の濱口夏子と結婚、明治28年優等で卒業し直ちに大蔵省入省エリートコースを歩み始めた。

 山形県収税課長を振り出しに若き官僚の活躍が始まったが上司と衝突、一歩も譲らない異骨相ぶりが嫌われたのか以後地方を転々と回ることになる。そして名古屋、松山、熊本と勤務し苦労を重ねたすえ東京税務管理局長として中央に戻り、37歳にして外局ながら専売局長の要職に就く。

 その頃後藤新平伯は先生の人物を見込み次官就任を懇請するも固辞、しかし、三顧の知遇に感じ次官就任を応諾ついに政治家の道を歩み始める。

 45歳で高知県より衆議院議員に初当選し、大物政治家としての片鱗を表し始めた時、政変により辞職、そのため苦節10年の苦酸をなめることになるがその間も黙々として党務を纒め努力したことが一回り大きな政治家としての基を作る。

 そして天は人を見捨てず護憲三派加藤高朗内閣で大蔵大臣、つづいて若槻内閣でも内務大臣を勤める。先生の権謀術を好まず正々堂々の政治手法は国民の信頼を受け、立憲政党総裁に推挙され昭和4年ついに内閣総理大臣に就任することとなる。

 先生は人となり謹厳実直にして清廉潔白微塵の私心なく、政治は国民の最高道徳との理念を身を以って実践され範を示された不世出の大政治家で、特に国民経済の立て直しと軍縮に力を注いだ。しかし世界恐慌は経済政策遂行の壁となり、軍縮は軍部の怨嗟となって昭和5年東京駅頭で凶弾に倒れ、日本は泥沼への道を転げ落ちていった。

 いま政治は岐路に立っている。21世紀を迎えるこの時、ライオン宰首濱口雄幸先生を敬仰する有志あい集いこの銅像を建立、その偉業を永遠に顕彰してやまない。



 五台山は、西暦724年僧行基が竹林寺を創建する迄は、大島と呼ばれ、まわりを海に囲まれた無人島であった。

 五台山の名は、中国の聖地五台山にその姿が似ていることに由来するといわれている。

 公園としては、明治の末時の高知県知事、杉山四五郎氏が五台山公園として発足させたが本格的な整備が始まったのは、戦後で昭和30年頃に着手された。その後は高知県をはじめ五台山を愛する様々な人々の努力によって今日に至ったのです。

 今では、県下有数の都市公園として整備され浦戸湾を眼下に高知平野の連らなりと高知市街が一望出来る景勝地として、また竹林寺をはじめとする数々の歴史の足あとをたどり牧野植物園、椿園など 訪れる人々を土佐の風土と文化の世界にいざない温かく深い感銘を与えて飽かせることがない。

 五台山公園は高知県民の心のふるさとである。

展望台に上がる。

浦戸湾


高知市街


ホテル日航高知旭ロイヤルが見える。

竹林寺の五重塔が見えた。


躑躅が咲いている。


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