旅のあれこれ文 学


永井荷風ゆかりの女性

吉田ひさ

銀座タイガ女給大正十五年中

『斷腸亭日乘』(昭和11年1月30日)

大正15年(1926年)

太訝の婢お久來る。年は二十五六なり。もと藥研堀邊に住みし商家の娘にて、十七八の頃株屋に嫁ぎしが不縁となり、其後は處々のカツフヱーを渡り歩き、老母を養へる由、當人の述懐なり。

『斷腸亭日乘』(10月24日)

歸途葵山林和の二氏と銀座太訝に飲み、婢お久を四谷の家に送り一茶して歸る。

『斷腸亭日乘』(10月26日)

歸途太訝の婢お久に逢ふ。この日晴れて風寒し。

『斷腸亭日乘』(10月31日)

此夜氣候順調。風寒からず。銀座通り人出多し。お久來りて一宿す。

『斷腸亭日乘』(11月3日)

銀座出て太訝に憩ふ。林和成彌在り。婢お久お榮お小夜を拉し汁粉屋梅月に徃き、四谷見附にて三女と別れ、家に歸る。

『斷腸亭日乘』(11月5日)

夜太訝に飯す。成彌、長十郎、英兒、撫象、葵山の四(ママ)子前後相踵いで來る。夜半酒肆燈を滅し、戸を鎖さむとする時、英兒は婢お葉お糸の二女を拉し、成彌はお小夜を拉し、予はお久を携へ、裏通の汁粉屋梅月に憩ひ、各自好む所の婢を自働車に載せて去る。是この酒肆の婢に戯れ巫山一夜の夢を買はむとする者の好んでなす所なり。

『斷腸亭日乘』(11月20日)

晴れて暖なり。夜酒肆太訝に赴見るに近藤經一夫婦、生田葵山、市川小太夫等在り。巌谷撫象、中村成彌亦來る。お久を伴ひて家に歸る。

『斷腸亭日乘』(11月21日)

よく晴れたり。正午お久去る。

『斷腸亭日乘』(11月22日)

朝九時過牛乳を煮んとて臺所に降り行きしに、老婆告げて曰く、一昨夜おいでになりし御婦人、今朝六時頃突然おいでになり、七時過までお目覚めになるを待ち居られしが、雨も激しく降り出せしかば自働車を申付けお歸りになりしと。夜太訝に行く。お久に逢ひしが今朝の事は此方より避けて問はず。

『斷腸亭日乘』(11月23日)

夜初更、突然家の中に人の跫音す。室の戸をひらき見るに太訝のお久なり。御女中さんも誰も居ないのと問ふ。余答へて曰く、僕は寐てゐるからわからない。下に誰もゐなければ家には誰も居ないのさと。お久携來りし香橙林檎を切りて薦む。先刻より渇を覺えて堪えがたき折なりしかば、香橙をコツプに入れ、熱湯を注ぎて飲む。汗流れ出で心氣俄に快くなりぬ。お久四谷なる朋輩の家に赴きて一泊すべき約あればとて、三更自働車を命じて去りぬ。

『斷腸亭日乘』(12月2日)

太訝に登りて見るに、成彌、邦枝、日高等居合せたり。吉井、梅嶋、瀬戸等來る。瀬戸突然予の傍に坐し、怒罵して曰く、足下何ぞ妄にわが情婦お久を奪ひたりやと。言語陋劣聽くに忍びざるものあり。吉井伯來て瀬戸生に代り、其無禮を謝し之を拉し去れり。蓋し婢お久なる者曾て尾張町獅子閣に在りし時より瀬戸と情交あり、又菊池の門生酒井某なる者とも今猶慇懃を通ずといふ。余始之を知らず、既にして知る事を得たれども又如何ともすべからず、遂に今日に及べるなり。省れば瀬戸酒井兩生の怨恨さぞかしと同情に堪えざるなり。此夜お久亂醉し頻に余の家に來り宿せむことを請ひしが、二生の心事を推察し、獨艶福を恣にすることを欲せざれば別れて去る。秋來銀座の情事もとより其場の酔醉に過ぎざれども、その殺風景なること此夜至つて遂に忍可らざるものあるに至れり。嗤ふべく、又歎息すべきなり。寒月皎々たり。

『斷腸亭日乘』(12月22日)

薄暮太訝に徃きて飯す。お久操に歳暮の祝儀を與ふ。

『斷腸亭日乘』(12月30日)

昭和2年(1927年)

好晴、午後太牙の婢阿久操の二嬌相携へて來る、操といへるは震災の頃新橋の妓なりしと云ふ、靈南阪下喫茶店に入りて茶を啜り倶に銀座に至れば日既に暮る、

『斷腸亭日乘』(3月1日)

細雨糠の如し、正午家に歸る、門外にて偶然舊太牙酒肆の婢お久の來るに會ふ、避けんと欲すれども道なし、客間に案内して來意を問ふ、酒肆を去りてより復び纏頭を得ず大に窮迫せりといふ、遂に金壹百三拾圓を與へて去らしむ、此の際邦枝君來りお久のはなし濟むまで靈南坂下の一酒肆に赴きて余の來るを待つべしと云ふ、それより倶に銀座に出で太牙に憩ふ、

『斷腸亭日乘』(9月28日)

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