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明治25年(1892年)4月9日、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)に生まれる。 明治43年(1910年)2月、永井荷風は森鴎外、上田敏の推薦により、慶應義塾大学文学科教授に就任。 明治43年(1910年)、和歌山県立新宮中学校(現:和歌山県立新宮高等学校)卒業後、上京、与謝野寛の新詩社に入る。慶應義塾大学部文学科予科に入学する。 大正18年(1919年)、『田園の憂鬱』。 大正10年(1921年)、『殉情詩集』。 昭和2年(1927年)、小石川区台町(現:文京区関口)の新居に移る。 昭和5年(1930年)、谷崎潤一郎の妻千代を譲り受ける。 |
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拝啓炎暑之候尊堂益御盛榮奉慶賀候、陳者、我等三人此度合議を以て千代ハ潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成、潤一郎娘鮎子ハ母と同居致す可く、素より双方交際の儀は從前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度、何れ相當仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候、敬具、昭和五年八月
『斷腸亭日乘』(昭和5年8月20日) |
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昭和9年(1934年)1月、三好達治は佐藤智恵子(佐藤春夫の姪)と結婚。 昭和10年(1935年)、芥川賞初代選考委員となる。太宰治の「晩年」が芥川賞候補になったが結局落選すると、太宰は短篇「創世記」を書いて佐藤を批判した。 |
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先日、佐藤先生よりハナシガアルからスグコイという電報がございましたので、お伺い申しますと、お前の「晩年」という短篇集をみんなが芥川賞に推していて、私は照れくさく小田君など長い辛棒の精進に報いるのも悪くないと思ったので、一応おことわりして置いたが、お前ほしいか、というお話であった。
太宰治「創世記」 |
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昭和20年(1945年)4月、東京小石川から長野県北佐久郡平根村に疎開。 昭和23年(1948年)、芸術院会員。 昭和26年(1951年)、文京区歌制定。佐藤春夫作詞。 昭和35年(1960年)12月8日、群馬県館林高校の新校歌作詞のため館林を訪れる。 昭和35年(1960年)、文化勲章受章。 昭和35年(1960年)12月8日、群馬県館林高校の新校歌作詞のため館林を訪れる。 昭和36年(1961年)、再び館林の地を訪れ、『館林市外たたら沼』の詩を作る。 昭和39年(1964年)5月20日、佐藤春夫は72歳で没。京都の知恩院に葬られた。伝通院にも分骨され、夫人とともに眠る。 |






