下 町中央区
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聖路加国際病院〜トイスラー医師〜

東京メトロ日比谷線「築地」駅下車。

聖路加国際病院に向かうと、「浅野内匠頭邸跡」があった。


 東京都指定史跡
浅野内匠頭邸跡

 常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)藩主であった浅野長直(官職名・内匠頭)は、正保2年(1645年)に領地替えによって播磨国赤穂藩(赤穂郡とその隣接地を含めた5万3500石の所領)へ入封しました。そして長直の子・長友(官職名・采女正)の代に所領の一部を親族へ分知与して5万石となります。延宝3年(1679年)には、父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となり、後に祖父と同じ内匠頭を与えられました。

 江戸時代に鉄砲洲と称されていた当該地には、江戸中期頃まで赤穂藩浅野家の上屋敷が置かれていました。当時の赤穂藩邸は西と南の二面が川(堀割)に面した広大な敷地(およそ8900余坪)であったことが古地図からも確認できます。

 しかし、元禄14年(1701年)3月14日、勅使御馳走役(饗応役とも)を努めていた浅野内匠頭長矩が、江戸城の松之大廊下において儀式・礼儀を司る高家職の吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命ぜられました。この事件によって江戸上屋敷や所領は没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となりました。

 なお、浅野家旧臣たちは、主君の仇を討つため元禄15年12月に本所・吉良邸へ討ち入った事件は、後の世にも語り継がれる歴史的事件の一つとして知られています。

 本懐を遂げた浪士たちは、浅野家の菩提寺である泉岳寺へ向かう途中で旧上屋敷付近を通ったとも伝えられており、当該地は赤穂事件に関係する縁の地の一つとして東京都の旧跡に指定されています。

中央区教育委員会

 浅野内匠頭長矩は平川門から切腹場所となった芝田村町の一関藩屋敷に向かった。

 赤穂藩浅野家上屋敷の裏門は明治時代に泉岳寺に移築され、四十七士墓所の門になっているそうだ。

「立教学院発祥の地」の碑


 明治7年(1874年)、ウィリアムズ主教、築地に私塾を開校。

 明治23年(1800年)、立教学校と改称。

 明治29年(1896年)、築地病院開設。

 明治32年(1899年)、立教尋常中学校を立教中学校と改称。築地明石町に新校舎落成。

聖路加国際病院


 明治33年(1900年)、ルドルフ・ボーリング・トイスラーが来日。

 明治34年(1901年)1月、佃島に聖アンデレ診療所を開設。閉鎖中の築地病院を聖路加病院と改称して診療を再開、初代院長に就任。

 明治40年(1907年)、立教大学として発足。文科、商科および予科を設置。

 大正6年(1917年)、病院名を聖路加国際病院に改称。

 大正7年(1918年)、立教大学池袋に移転。

 大正12年(1923年)、関東大震災、それに続く火災で建物を失う。空襲の被害はまぬがれた。

神の栄光と人類奉仕のため


聖路加國際醫道院
 公爵徳川家達書

 昭和20年(1945年)9月、病院はGHQ(連合国軍総司令部)に接収される。

 昭和28年(1953年)、旧館建物接収解除。

 昭和31年(1956年)、本館建物接収解除。

創設者R.B.トイスラー医師


1876−1934

本院は創立以来、キリスト教精神の下に病む人を中心とした医療と看護を実践してきました。

その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。

キリスト教の愛の心が 人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、その人は生まれ変わったようになる、この偉大な愛の力を、だれもがすぐわかるように あらわせるよう、計画されてできた生きた有機体がこの病院である。

聖路加国際病院

聖路加国際病院トイスラー記念館


 昭和8年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。

 設計者は米国人建築家のJ.V.W.バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)行ないました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の2階建で、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。

 平成元年に解体工事が行われ、平成10年2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。

 室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装が見られます。

 この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。

中央区教育委員会

アメリカ公使館跡石標


 アメリカ公使館は安政6年(1859年)ハリスにより港区元麻布1−6、善福寺に開設されたが、明治8年(1875年)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。のち明治23年(1890年)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館となっている。

 最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。

 8個の石標のうち3個は昭和59年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に設置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えるものとして中央区文化財に登録されており、うち3個をここに、2個を聖路加ガーデンに設置する。

1998年5月
聖路加国際病院

昭和51年(1976年)4月7日、高浜年尾は聖路加病院に入院。

   四月十八日 病中吟

病院に聖堂ありてイースター

『句日記』(第四巻)

慶應義塾発祥の地へ。

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