2021年東 京

早稲田大学〜碑巡り〜

JR山手線高田馬場駅下車。

高田馬場駅前から都営バス「早大正門」行きで早稲田大学へ。

 天保9年(1838年)2月16日、大隈重信は佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に生まれる。

 明治15年(1882年)10月21日、東京専門学校開校。

 明治16年(1883年)、坪内逍遥は東京専門学校の講師(後に教授)となる。

 明治35年(1902年)9月2日、「早稲田大学」と改称。

 明治40年(1907年)、創立25周年祝典に合わせて校歌「都の西北」を制定。

 大正11年(1922年)1月10日、大隈重信は83歳で没。

 昭和3年(1928年)10月、演劇博物館建設。

 昭和6年(1931年)、応援歌「紺碧の空」誕生。

 昭和7年(1932年)10月、総長大熊老侯像建立。

 昭和10年(1935年)2月28日、坪内逍遥は77才の天寿を全うした。

 昭和27年(1952年)、学生歌「早稲田の栄光」(岩ア巖作詞・西条八十補助 作詞・芥川也寸志作曲)選定。

大隈記念講堂


大隈記念講堂の左手に「早稲田の栄光」の碑があった。


平成19年(2007年)、創立125周年を記念して建立。

早稲田大学校歌碑


早稲田大学校歌碑建立について

 校歌制定90年と作詞者相馬御風生誕115年に当る意義あるこの佳き年に校友各位の浄財にて校歌碑を建立することと決めた。

 石は相馬氏生誕地新潟県糸魚川市(市長木島長右エ門)姫川の銘石を特別に県外搬出を許可され、相馬氏直筆の校歌は親戚の林純雄氏が所蔵の逸品を快く提供され、茲に目出度く立派に建立された。

平成9年(1997年)10月20日、建立。

會津八一記念博物館


 明治33年(1900年)、會津八一は新潟尋常中学校卒業後、東京専門学校に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。

 明治43年(1910年)、坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。

 大正2年(1913年)、早稲田大学講師を兼任。

 大正14年(1925年)、早稲田大学図書館竣工。今井兼次の設計である。

 昭和12年(1937年)、今井兼次は早稲田大学教授に就任。

 平成10年(1998年)、會津八一記念博物館が旧図書館に設置された。

入場無料。

総長大隈老侯像


 昭和7年(1932年)10月、早稲田大学創設50周年と大隈重信没後十回忌に建立。製作者は朝倉文夫

杉原千畝のレリーフ


外交官としてではなく
 人間として当然の
  正しい決断をした
      命のビザ発給者
杉原千畝

昭和61年(1986年)、鎌倉にて逝去。享年86年。

平成23年(2011年)10月24日、除幕式。

演劇博物館


新宿区指定有形文化財 建造物

 正式には早稲田大学坪内博士記念演劇博物館という。

 昭和3年(1928年)10月に坪内逍遥の古稀と「シェークスピヤ全集」の完訳を祝って学界・演劇界の有志1500余名の協賛により建設された。建物の意匠は逍遥の発案によりイギリスのエリザベス朝(16世紀後半)の様式で、シェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模して設計されている。

 鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、建坪は約400平方メートルで、内部は逍遥記念室をはじめ8つの展示室、図書閲覧室がある。

 また、外部は実際にシェイクスピア劇ができるようになっており、館の正面は舞台、2階の廊下は上舞台、建物の両翼は桟敷、前庭は一般席となる。

 なお、正面舞台上に掲げてあるラテン語は「全世界は劇場なり」という意味で、シェイクスピア時代の劇場グローブ座に掲げてあった看板の句である。

 東京都新宿区教育委員会

今井兼次の設計である。

晩間風月堂に飯してして後太牙樓に憩ふ、山内義雄吉井拍の來るに逢ふ、是日午後早稻田演劇博物館開館の式に赴きし歸りなりと云ふ、


坪内逍遥胸像


坪内逍遥胸像と台座歌碑

台座上の坪内逍遥胸像は、彫刻家、長谷川榮作氏の願望により昭和37年(1962年)に鋳造されてもので、逍遥の「シェイクスピア」講義の姿である。

また、台座は、早稲田大学後援会事業資金、池田恒雄氏、近桂一郎氏の協力により演劇博物館創立70周年記念に建立され、歌碑の内容は逍遥を偲んだ会津八一の自筆の和歌である。

むかしひと
 こゑも
ほからに
 たくうちて
とかしし
 於もわ
みえ
 きたる
  かも
秋神道人

大隈会館の前に「紺碧の空」の歌碑があった。


「紺碧の空」誕生の由来

 早稲田大学の応援歌「紺碧の空」は昭和6年春大学体育会應援部創設にあたり、歌詞は應援部により学内学生から公募して誕生した。

作詞 住 治男   作曲 古関裕而

 選者の西条八十教授は高等師範部3年生の住治男氏の「紺碧の空」を1字の修正もなく選出した。

 作曲は当時無名の若き新進作曲家であった古関裕而氏に決定した。

 この応援歌は同年春の早慶戦で披露され、今や代表的応援歌として広く愛唱されている。

 碑は歌の生誕45年を記念して、春秋会の募金活動により昭和51年に建碑された。

 ここに「紺碧の空」誕生80年、春秋会設立60周年にあたり、その由来を記す。

早稲田大学春秋会

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