東海道


『改元紀行』(大田南畝)

寛政13年(1801年)2月5日、享和に改元。

 享和元年(1801年)2月27日、大田南畝が江戸を出て大坂銅座に赴任する旅の紀行。

改元紀行 巻之上

2月27日〜保土ヶ谷まで

享和とあらたまりぬる年、難波なるカク銅の座にのぞむべきおほせごとうけ給はりて、二月廿七日卯の刻すぐる比に出たつ。

折から雨そぼふりて、渭城の塵もうるほふばかりなるべし。市谷赤坂を過ぎ、赤羽根のはしの前なる立場にいこふ。品川大仏の前なる鍵屋といへる高どのにて酒くみかはし、あるは歌よみ詩つくり聯句などして、別れをしまぬにしもあらず。こゝにて送来れるものをかへす。

よく一盃の酒を尽して、肩輿のうちにねぶり給ひねかしといふによりて、酔心地に人々とわかれて、肩輿にのり、六郷のわたりにのぞめる比、同里の三子 井上子瓊 作左衛門 鈴木猶人 文左衛門 辻知篤 忠左衛門 送り来て手をわかつ。あかずかへりみがちながら、つゐに輿にゆられて臥しぬ。従者なるもの、やゝお目さまし給へ。こゝは金川の台にて候といふ。

本町のはしをわたれば、程ヶ谷の宿(ゞ)き也 俗に棒鼻といふ 右に円海山道の碑たてり。中の橋をわたり、右がはなる沢瀉屋彦右衛門といへる宿りにつく。酉の時に近し。床に掛し画に夷曲うたあり。

  くたびれてやうやう足もおだやかやよい程がやの宿をとりけり

いかなる人にやとおかし。

2月28日〜小田原まで

阿蘭陀人献上物といへる札たてたり。四夷八蛮も訳をかさねて来る事おさまる御代のいさほしなるべし。桃青翁のほくに、阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍、といひし事など思ひあはせらる。右に大山路五処橋供養とかける碑みゆ。左に十九番桜木観音堂あり。松間をすぎ土橋をわたり、戸塚の宿にいるに、雨ふりきぬ。左に観音堂あり。行基菩薩の作なりといふ。右に淡島明神の道あり。

左のかたの岨に一本の桜さきそめたり。げにあづまぢのかざしなるべし。千本杉といへるわたりは老杉雲をしのぎて高し。藤沢の宿にいたり、橋をわたり道場坂を上りて、小栗堂にいる。照手姫尼の像あり。

山あひの墓原をへて、藤沢山清浄光寺のうら門より入て見るに、本堂・観音堂・鐘楼・経蔵などつきづきし。方丈のかた見やるゝに、上方に富士見の亭高し。かの白川候(侯)のかゝせ給へる清音の額もこの所なるべし。堂の側に桜咲出たり。山門を出て額をあふぎ見るに、藤沢山とあり。従二位藤原道基卿のかゝせ給へるとぞ。

遊行寺の総門


藤沢の宿屋つくりよろし。白幡大明神の社ありしときゝしが、輿かくものいそぎて見過しぬ。左に弁才天の鳥居あり。江島道といへる岬(碑)あり。二ツばかりあり 右に松山あり。伊賀屋の山なりといふ。

此あたりに虎御前のやしき跡ありといふ。大磯の宿を過て、名におふ虎御石みんと延台寺に入れば、鬼子母神堂・虎池・弁才天の宮あり。石に太刀疵矢疵といへるものありて、曾我十郎が身がはりにたてるなど、寺僧のかたるも覚束なし。寺は延山十九世法雲院日道上人慶長年中に草創せるとぞ。十郎慷慨愛於菟といへる羅山子の詩の句も思出られておかし。

橋をわたりて、かの三千風がいとなみしといふ鴫立庵にいり、西行法師の像をみる。

西行旅姿の像


庵の中に短冊あり。庵の中に短冊あり。
   やよひの比鴫たつ沢に立より侍りて
 あはれさは秋ならねどもしられけりしぎたつ沢のむかし尋ねて 雅章拝
これは飛鳥井亜相のなり。また、
    宝永二年の秋とをりけるとき
  いまも猶むかしの秋を思ふぞよ鴫立澤の夕ぐれの空  乗邑
これは松平左近将監とて享保の頃政とれる人なるべし。又色紙あり。西行法師の筆なりといふ。
  つれもなくなりゆく人の言のはぞあきよりさきの紅葉也けり
西行の杖なりとてあるは、なくてもありなん。例の三千風がかな文、かたへの石にゑりてたてり。笈さがしといへるもの見侍りし事ありしに、三千風が歌に、
  ありし世の鴫の羽おとはさてもなくていまは沢辺に馬駕籠ぞたつ
といへるも中々まことの風情ならめ。

酒匂川の水落て瀬浅し。土橋三ツあり。三月六日には橋をひくといふ。河原広くして蛇籠などもみゆ。かの梶原が、ければぞ波はあがりける、といひけん鞠子川もこれなるべし。山王の橋のほとりにて日くれぬ。小田原の宿より出むかへて、小田原宿御用といへる挑灯高く両行にかゝげて先を払ふ。やゝ城下にいれば、右の方に番所あり。宮の前といへるあかし屋源四郎が家にやどりぬ。けふの道十二里にあまりて遠ければ、従者もつかれしにや、 鼾かきてふしぬ。

2月29日〜沼津まで

二十九日 よべより雨こぼすがごとくふりて、をやみなし。けふは名におふ箱根の山こえんに、かくてはあゆみぐるしかるべく、夜あけぬほどはつい松の火もうちけたるべきなど、 従者のかたみにいひあへるもことはりなり。これ王尊が馬をいさふ所と思ひおこして、卯時の酒二つきばかり傾け、従者にものませて出たつに、夜はほのぼのと明けわたりて、雨もやゝをやみぬ。城下のさまにぎはゝし。右のかたに、八棟づくりの家みゆるは、名におふ外郎の薬うるなるべし。

一むら竹のかこひして何某の荘園にやと思ふに、門前に下馬札ありて、金湯山といふ額あり。朝鮮国雪峰書にて、方丈の額も同じ筆なり。これ早雲寺なめりと。輿より下りて入るに、京桜みだれたり。鐘楼銘をさぐり見るに、文字摩滅してわづかに元徳弐年の四文字みゆ。ふところにせし蝋墨もてうつす。

早雲禅寺


p角坂、かしの木坂、猿すべり、てうしの口など、さがしきにさがしきをかさねて、やゝ平かなる老が平といふ所にいたる。ここに四阿たてゝ、あま酒ひさぐものあり。

猶くらき坂をのぼり、御関所を守もれるものゝかたに従者をもていひつかはせしに、すでに問屋のものよりいひおこしぬれば、改めていふにをよばずといふにぞ、笠ぬぎ、中貫の沓はきて関をすぐ。長持の櫃はすでにさきだちて通りぬ。これより輿にのり、湖を右にし、石橋をわたりゆく。左右に寺などみゆ。宿のさまひなびて、湯本・畑の立場にはたちもをよばず。

やゝ行きて霧はれわたり、四方の山々あざやかにみゆ。富士見だいらといへる所のよしきゝつるに、ふじの山のみくもりて見えぬぞうらみなる。

富士山


今井坂を下り、かはら前の橋をわたり、三島の宿につく。右に三嶋の神社あり。神池の橋をわたりてひろ前にぬかづき、けふ事ゆゑなく険き道をわたり来れる事など思ひつゞけて、ぬさ奉る。

車返しといふ所を過て、沼津の城下に入る。水野出羽守の家士、問屋のものとゝもに出てそのよしをもうす。川を左にして行けば、右に浅間の社あり。けふ、はこねの山をこしてより、にはかに鄙びたる風俗にして、だみたることばきく。あかしや金兵衛が家をやどりとす。

3月1日〜江尻まで

右のかたに石坂あり。三曲にして門にいれば清見寺なり。庭に大きなる梅の木横たはれり。客殿の椽に永世孝享の額あり。また諸仏宅の三字は朝鮮の青螺山人の筆なり。此門前は清見がせきの跡なりといふ。春の海づらきよくして、右に三穂の松原さしいでゝ、田子の浦とをし。かゝる詠めをさしをきて、書院の庭に石を畳み、水はしらせたらんもいかゞならんと、さしのぞきしまゝにて出ぬ。

清見寺総門


寺をいでゝ吟行すれば、夕日なゝめなるに、石の間を流るゝ細き川あり。はたうち川といふ。これ庵崎のすみだ川にや。十六夜の日記に、岩こす波の白き絹をうちきするやうにみゆるといひて、清見潟のながめは心にしみて、かたしく袖の露に月もやどさまほしき夕ぐれなり。庵原川をわたりて江尻の宿につきぬ。府中屋茂兵衛が家をあるじとす。

3月2日〜金谷まで

やゝありて府中につく。駿府の御城は、慶長のとし、かけまくもかしこき神のましませし所ときくにも空恐しく、輿のうちに蹲りてすぐ。実に御城下の賑ひ他に異なり、去年焼し処もみえたり。

駿府城二ノ丸堀


鞠子の宿にいり、右のかたなる寿徳院といふ寺に輿かきいれてしばらくいこふ。寺に大きな楠の木あり。木のもとに小祠あり。芭蕉翁が発句に梅若菜とめでし薯蕷汁いかゞならんと、人してもとむるに、麦の飯に青海苔とろゝかけて来れり。

右に柴屋寺あり。宗長の跡もしたはれ、吐月峰もみまほしけれど、甲斐なくて見過しぬ。

日もはや暮なんとするに、こよひかならず大井川を徒わたしせんとて、輿かくものゝ足はやし。従者もをくれじもをくれじとはせつきぬ。くらうなりて嶋田の宿につきぬれば、見過せる所多かるべし。嶋田の宿には挑灯・たい松星のごとくかゝげて、河原にむかふ。藤枝のほとりより雨すこしふり出しが、こゝにいたりて西風はげしく、空は墨をすりたらんやうなるに、雨さへふりまさりぬ。藤枝のほとりより雨すこしふり出しが、こゝにいたりて西風はげしく、空は墨をすりたらんやうなるに、雨さへふりまさりぬ。輿は蓮台の上にゆひつけて高くかゝげ、たい松うちふりて、海(河)上のかたにあゆみゆく。河原の石のおとなりわたりて物すごきに、もろ人よいとよいとといへる声を出して、高くかゝげゆくめり。聞しにも似ず河の水あせて、思ふさまにむかひの岸につく。また河原を右へ、土橋をわたり、足なふみあやまちそなどかたみにいましめて、くらき道をたどりたどり挑灯の光をたのみて、金谷の宿につく。酉の時なかば過比なるべし。宿を松屋十右衛門といふ。名におふ大井川も、やすらかにこしたりと思ふにうれしく、衾かづきてふしぬ。是より遠江の國なり

3月3日〜浜松まで

金谷坂をのぼる。道ことに険し。こゝは初倉山といへる処なりとぞ。坂の上より右のかたをみれば、金谷の駅の人家目の下にみえて。よべわたりし大井川の流もみゆ。

金谷坂の石畳


輿よりおりて菊坂をのぼる。俗に青木坂といふ。円位法師が命なりけりと詠(ながめし)小夜中山をこゆるに、ことしはじめての旅なれば、うれしきもうきもわすれてとの給ひし烏丸光広卿の春のあらしも今まのあたりきく心地す。

掛川の城にいれば、家ごとに葛布うるもの多し。此城いにしへ今川氏真のこもれる城也とぞ。今の執政太田備中守殿 資愛 の城なり。

大久保村三本松をも過て、見付の宿にいる。たれか来て見つけの里といひし阿仏尼の時にかはりて、今は旅寝もやすかるべし。

浜松の城には馬込川をわたりていれり。城下の賑ひよのつねならず。板屋町・田町・神明町・伝馬町・旅籠町などたてつゞきたり。井上河内守の城なり。

浜松城


3月4日〜赤坂まで

むかひに人家のごときものみゆるは、荒井の御関所也などきくもたのもしく、とかくするまに、はやむかひの河原につく。こゝにて従者をもめしぐして、輿より下り、御関所の前をすぐ。

吉田の城の郭にいり、城門に入れば田下町是也。東鍛冶町也。右に城門あり。又大手の鴟吻(しび)みゆ。田本町を過て城門の外にいづれば、坂下町、田町などあり。

吉田橋の長さは百二十間となん。豊川の流にかゝれり。右に豊川いなり道あり。城主は今の執政松平伊豆守殿なり。

小坂井村に人家あり。茶屋町の立場にいれば、左の方に腰瓦の屋つくりしたる薬店あり。良香散といへる薬をひさぐ。さくら町を過て、神明の宮あり。国府町を過て、御油なはての松原にかゝる。左のかたの松に桜のやどり木あり。まないた橋をわたれば、御油の宿なり。問屋場に御秤頂戴所といへる札あり。御油より赤坂までは十六町にして、一宿のごとし。宿に遊女多し。おなじ宿なれど御油はいやしく、赤坂はよろし。

3月5日〜宮宿まで

藤川の宿を過て、左に芭蕉句塚あり。こゝも三河紫麦のかきつばたと記せり。紫麦は高野麦といへるもの也とぞ。左の畑の中に大なる石二ツあり。これ西尾道のしるしなりといふ。かんば崎といふ立場を過て、橋をわたる。

まこと岡崎の城は、本多中務大輔の城にして、其賑ひ駿府につぐべし。町数五十四町、二十七曲ありとぞ。城主の家士出むかへて輿の左右にたつ。その先には市人二人鉄棒をひきて町々をいましむ。市中のさまよろしくみゆ。

岡崎城城壁


右に親鸞上人御旧跡柳堂あり。十王堂あり。慶念山聖願寺に浄瑠璃御前の墓ありときゝて、立よりて見るに、本堂の前の右の方にあり。堂に義経の像・浄瑠璃(像)あり。古きものとみゆ。

牛田の立場より四町ばかり北の方に、かの八橋の跡ありとぞ。無量寺といふ寺の池に杜若ありなどきく。さはたり川を後にして池鯉鮒の宿にいる。

宿をいでて右のかたに知立神社あり。多宝塔有。嘉祥三年に多宝塔を建し所にして、山岡忠左衛門なるもの再建せしといふ。御手洗の池に石橋かゝれり。神籬門あり。げに神さびたるさまにみゆ。年ごとの四月に馬市ありて、これを池鯉鮒の市といふ。

知立神社多宝塔


永禄三年五月、駿州の太守今川上総介義元と尾州清洲の城主織田信長と此桶狭間に戦ひし時、今川方の戦死のものゝ塚なりといふ。有松村の升屋といへる家の童出来りて、絞り染の布かふ案内せんといふを先にたてゝ、桶狭間はいづこと問ふに、落合村と有松村の間、左のかたの松林のうちに石碑ありといふ。輿より下りてみれば、ひろき小松原也。近比鳴海の千代倉氏、八の石表をたてり。その一ツには今川上総介義元戦死所明和八年辛卯十二月十六日建 人見施主赤林□□ とあり。又、士隊将冢桶狭七石表之一とゑれるもの七ツ、所々にあり。松原に怐E沢桔梗などいへる草花咲きみだれて、茫々たる芝生なり。神君御在世の時、此所を過させ給ふには、必御下乗ありしときくに、今はそのところしるものもなく、輿かくおのこ馬ひくものゝいたづらにうち過ぬるぞあさましき。

有松村の人家は蔵づくりにして絞り染多し。(童の浴衣に竹の虎の形付たる、又は赤さいで白手拭に)青く絞り染たるあり。

有松の家並み


鳴海の宿にいり、鳴海の神社笠寺観音の前をも過て、宮の駅桔梗屋喜七がもとにやどる。

改元紀行 巻之下

八幡宮の前を過て、福江町にいたり、町屋川の橋をわたりて、おぶけといふ所をみれば、家々の女松のかさを焼て、蛤をむしてすゝむ。砂川の橋をわたり、朝明川を越て、富田の立場にいたれば、こゝにも焼蛤をひさぐ。右のかたに酒屋といへる家名の座敷にはあげ畳などありて、大きなるやどりなり。初冬の比の味ことによろしければ、時雨蛤といふ。

杖衝坂にかゝりてかちよりゆく。これは日本武尊東征してかへり給ふ時、御足いたみありて御剣を解て杖につき給ふより、此名ありとぞ。ばせを翁が句に、歩行ならば杖つき坂を落馬かな、といへる此所なり。坂上に芭蕉の碑あり。

史蹟 杖衝坂


右に鴨長明発心所といへる碑たてり。岡観音・兼家旧跡などあり。夷町を過て左のかたに大手の門みゆ。木戸 右に天満宮あり。市賑ひなし。馬場さきの立場をこえてゆけば、右に大岡寺山高くみゆ。大岡山とも

龍王山大岡寺


いづみの立場をこえ、横田川を舟にてわたる。河原のけしきおもしろし。川のむかひはみな山にして、大きる岩あり。

夏見といへる所には、人家の門ごとに山水を筧とし、馬にのりたる人形二つ、くるくるとまはるからくりをしかけたり。あるは唐子などもあり。みな心太をひさぐ。むべも夏見とはいへり。右のかたに名酒あり。桜川といふ。

平松といふ所の松うつくしとて、うつくし松といふよしきゝしかば、右のかたに松原の見やらるゝを目にとゞめて見しかど、さのみならざりき。すべて聞ところ見るところに異也。

草津川をわたりて右に岐路あり。右は木曾路、左は東海道いせ道なり。此所より右のかたに、矢橋道廿五町としるせり。又右のかたに家づくり大きなる餅屋あり。名づけて姥が餅屋といふ。

名におふ勢田の大橋は長さ九十六間、小橋は二十三間ありとぞ。橋の前に田原屋といへる酒家ありしも、かの秀郷のゆかりにやとおかし。

瀬田の唐橋


又国分寺やくし道あり。ばせをの翁がすみし幻住庵もほとりならんとゆかし。ゆくゆく膳所の城門に入れば、八大竜王の宮あり。

左のかたに義仲寺あり。聞しにも似ずあさまなる所にして、門を入れば左に堂あり。木曾殿の像を安置す。堂の前に墓あり。木曾義仲墓とゑりて、前なる石灯に奉進徳音院殿墓前としるせり。此墓の右に芭蕉墓ならびたてり。

塔有。これ唐院也。右に鬼子母神あり。むかひに大きなる堂あり。これ金堂也。その側の井はいはゆる御井にして、三井とも閼伽井ともいふ。天智・天武・持統三帝の産湯に用ひし水なるゆへに、御井とはいへりとなん。

三井寺金堂


名におふ通天橋は桁行十二間二尺、梁一間五尺、深き谷にかゝり、額は普明禪師の筆なりとぞ。橋のほとりに莚しきて、香煎うるものあり。しばらく憩ひてむかひの橋を見れば、臥雲橋なり。

通天橋


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