連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501年)2月越後上杉氏の許を発ち、弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文亀2年(1502年)7月30日箱根湯本で客死した。(享年82歳)。
弟子たちは、宗祇の遺骸を担いで箱根を越え、富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長「宗祇終焉記」)。
江戸時代に入ると多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。蕉門の服部嵐雪は元禄12年(1699年)宗祇墓前で「石塔を撫でてはやすむ一葉かな」の句を詠み、幕府歌学方の北村季吟は同14年(1701年)宗祇二百年忌の連吟を早雲寺に奉納している。
稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学び、正徳4年(1714年)住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪して祇空と号し、江戸浅草を中心に活躍したのち、享保16年(1731年)再び早雲寺を訪れ、境内に石霜庵なる草庵を結んで、宗祇の墓守として晩年を送った。同18年4月23日没(享年70歳)。
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湯本早雲寺は小田原豊饒氏五代の菩提所なり。古墓五ッ、つくづくと並べり。元祖新九郎氏茂は永正六うのとし八月十五日に逝去ありしとかや。今早雲寺殿瑞公大居士と苔を削り、なき名を拜む。
早雲寺名月の雲はやきなり
宗祇の廟、
石塔を撫でゝは休む一葉かな
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宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、早雲寺を訪ねに宗祇の石塔を見ている。
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八里の坂に巖窟の堂を見、おそろしき地獄の山路入、ほとゝぎす雨に聞て湯本の早雲寺をとふ。山陰に宗祇の石塔有。
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元文2年(1737年)5月、佐久間柳居は箱根に湯治し、祇空の墓に詣でている。
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早雲寺祇空墓
千年の墓かと見えて散松葉
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延享2年(1745年)秋、白井鳥酔は箱根塔ノ沢一の湯に湯治した。
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早雲寺を手にとるやうに見なして爰の米まんちうを力とし右の草径へ入る。
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安永9年(1780年)4月18日、蝶夢は江戸からの帰途、早雲寺に参詣している。
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十八日、すこし曇る。坂を登り、湯本の早雲寺に参る。北条五代の廟あり。それにならびて、宗祇法師の墓あり。竹木うちかこみて物ふりにたり。
道もあらずたゞ咲苔の匂かな
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享和元年(1801年)2月29日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で早雲寺に立ち寄っている。
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一むら竹のかこひして何某の荘園にやと思ふに、門前に下馬札ありて、金湯山といふ額あり。朝鮮国雪峰書にて、方丈の額も同じ筆なり。これ早雲寺なめりと。輿より下りて入るに、京桜みだれたり。鐘楼銘をさぐり見るに、文字摩滅してわづかに元徳弐年の四文字みゆ。ふところにせし蝋墨もてうつす。
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明治43年(1910年)、大町桂月は早雲寺を訪れている。
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關東の覇氣長へに銷沈して、潮は小田原の空城を打ち、箱根八里の古道人なくして、須雲川古今に流る。並木の老松わづかに數株ばかり殘りて、早雲の古刹荒れたり。左甚五郎の作と稱する山門傾きて倒れんとし、五墳相竝びて蒼苔を帶ぶ。嗚呼、後北條氏は如何にして興りしや、又何にして亡びしや。
「後北條五代の墓」 |
昭和9年(1934年)6月9日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は早雲寺を訪れている。
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早雲寺やや荒れたるが身に沁みぬ武将のむいかし如何にともあれ
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時雨より箱根の霧にそなへたる宗祇法師の笠塚ならん
早雲寺伊勢新九郎興りたる初めを云はず四五代を説く
「いぬあぢさゐ」 |
昭和18年(1943年)8月13日、高浜虚子は早雲寺を訪れている。
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自転車に花や線香や墓参り
大いなる蚊が出て喰らふ早雲寺
幾本の蝉の大樹や早雲寺
八月十三日 箱根、早雲寺。
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正眼寺へ。
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