2007年神奈川

早雲寺〜宗祇の句碑〜
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箱根湯本温泉に金湯山早雲寺がある。


早雲禅寺


臨済宗大徳寺派別格地。

大永元年(1521年)、北条早雲の遺命により氏綱が建立。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めで焼失。

寛永4年(1627年)、再興。

早雲寺鐘楼


茅葺屋根で、町指定重要文化財。

本堂の前に宗祇の句碑があった。


宗祇の句碑


世にふるも更に時雨の宿りかな

出典は『新撰菟玖波集』。

   おなじ比、信濃にくだりて時雨の発句に、

世にふるもさらにしぐれのやどりかな   宗祇

『新撰菟玖波集』

飯尾宗祇(1421〜1502)

 室町時代の代表的連歌師。近江湖東または紀伊有田出身。連歌を心敬・専順に学び、一条兼良・東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受ける。自然斎・種玉庵を号し、「水無瀬三吟百韻」「指南抄」「竹林抄」などの多数の独吟・連吟、著作をのこした。勅撰「新撰菟玖波集」の選者でもあった。三條西実隆などの貴族、周防大内氏・越後上杉氏・武蔵太田氏など多くの大名・武将を指南し、柴屋軒宗長はじめ多くのすぐれた弟子を排出した。

 西行・芭蕉と並んで日本を代表する「漂泊の詩人」のひとりである。

早雲寺本堂


芭蕉は笠に「世にふるも更に宗祇のやとり哉」と書き入れていたそうだ。

 笠の端の斜めに裏に巻き入り、外に吹き返して、ひとへに荷葉の半ば開くるに似たり。規矩の正しきより、なかなかをかしき姿なり。かの西行の侘笠か、坡翁雪天の笠か。いでや宮城野の露見にゆかん、呉天の雪に杖を曳かん。霰に急ぎ時雨を待ちて、そぞろにめでて、殊に興ず。興中にはかに感ずることあり。ふたたび宋祇の時雨にぬれて、みずから筆を取りて、笠のうちに書き付けはべりけらし。

世にふるも更に宋祇のやどりかな  桃青書

「笠の記」

 芭蕉の門人は芭蕉の落歯と芭蕉自筆の「世にふるも更に宗祇のやどり哉」の短冊を東京都江東区の長慶寺境内に埋め、芭蕉時雨塚を築いた。

宗祇の供養塔


連歌師宗祇の墓

 連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501年)2月越後上杉氏の許を発ち、弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文亀2年(1502年)7月30日箱根湯本で客死した。(享年82歳)。

 弟子たちは、宗祇の遺骸を担いで箱根を越え、富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長「宗祇終焉記」)。

 江戸時代に入ると多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。蕉門の服部嵐雪は元禄12年(1699年)宗祇墓前で「石塔を撫でてはやすむ一葉かな」の句を詠み、幕府歌学方の北村季吟は同14年(1701年)宗祇二百年忌の連吟を早雲寺に奉納している。

 稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学び、正徳4年(1714年)住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪して祇空と号し、江戸浅草を中心に活躍したのち、享保16年(1731年)再び早雲寺を訪れ、境内に石霜庵なる草庵を結んで、宗祇の墓守として晩年を送った。同18年4月23日没(享年70歳)。

湯本早雲寺は小田原豊饒氏五代の菩提所なり。古墓五ッ、つくづくと並べり。元祖新九郎氏茂は永正六うのとし八月十五日に逝去ありしとかや。今早雲寺殿瑞公大居士と苔を削り、なき名を拜む。

   早雲寺名月の雲はやきなり

宗祇の廟、

   石塔を撫でゝは休む一葉かな

『杜撰集』(塔澤記)

 宝永5年(1708年)4月、l明式法師は江戸に下る途上、早雲寺を訪ねに宗祇の石塔を見ている。

八里の坂に巖窟の堂を見、おそろしき地獄の山路入、ほとゝぎす雨に聞て湯本の早雲寺をとふ。山陰に宗祇の石塔有。


 元文2年(1737年)5月、佐久間柳居は箱根に湯治し、祇空の墓に詣でている。

   早雲寺祇空墓

千年の墓かと見えて散松葉


 延享2年(1745年)秋、白井鳥酔は箱根塔ノ沢一の湯に湯治した。

 早雲寺を手にとるやうに見なして爰の米まんちうを力とし右の草径へ入る。


 安永9年(1780年)4月18日、蝶夢は江戸からの帰途、早雲寺に参詣している。

 十八日、すこし曇る。坂を登り、湯本の早雲寺に参る。北条五代の廟あり。それにならびて、宗祇法師の墓あり。竹木うちかこみて物ふりにたり。

   道もあらずたゞ咲苔の匂かな


 享和元年(1801年)2月29日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で早雲寺に立ち寄っている。

一むら竹のかこひして何某の荘園にやと思ふに、門前に下馬札ありて、金湯山といふ額あり。朝鮮国雪峰書にて、方丈の額も同じ筆なり。これ早雲寺なめりと。輿より下りて入るに、京桜みだれたり。鐘楼銘をさぐり見るに、文字摩滅してわづかに元徳弐年の四文字みゆ。ふところにせし蝋墨もてうつす。


 昭和9年(1934年)6月9日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は早雲寺を訪れている。

早雲寺やや荒れたるが身に沁みぬ武将のむいかし如何にともあれ


時雨より箱根の霧にそなへたる宗祇法師の笠塚ならん

早雲寺伊勢新九郎興りたる初めを云はず四五代を説く

「いぬあぢさゐ」

 昭和18年(1943年)8月13日、高浜虚子は早雲寺を訪れている。

自転車に花や線香や墓参り

大いなる蚊が出て喰らふ早雲寺

幾本の蝉の大樹や早雲寺

      八月十三日 箱根、早雲寺。


正眼寺へ。

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