2012年静 岡

駿府城公園〜徳川家康公之像〜
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静岡駅から駿府城公園まで歩く。


二ノ丸堀


駿府城

 今から約650年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。9代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。永禄3年(1560年)今川義元桶狭間織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1168年)武田氏により駿府を追われました。

 徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582年)に追放した後、同13年(1585年)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正18年(1590年)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城主になりました。その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長10年(1605年)に将軍職を息子秀忠に譲り、同12年(1607年)大御所として三たび駿府に入りました。この時に天正期の城が拡張修復され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が巡り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。

 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が賦役を命じられ、各地から優秀の技術者が多数集められました。

 また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が作られました。

静岡市教育委員会

駿府城本丸跡に徳川家康公之像があった。


制作は堤達男。静岡県加茂郡仁科村(現:西伊豆町仁科)出身。

昭和48年(1973年)11月、静岡市観光協会創立40周年に建立。

昭和63年(1988年)、堤達男は70歳で没。

 徳川家康公は天文11年(1542年)三河の岡崎に生れ、幼名を竹千代といい、8才から19才まで今川義元の人質となり、駿府に住んだ。義元戦死後は岡崎にかえり、以来戦国武将の間にあって次第に名望を高め、海道一の弓取りと称された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦で決定的な勝利を収めて戦乱の世を収拾し、江戸幕府を開き260余年の安定政治の基を築いた。

 慶長10年(1605年)、将軍職を秀忠公にゆずり、同12年大御所として駿府城に移った。

 元和2年(1616年)75才でこの地に没するまでの10年間は、駿府の黄金時代といわれ、江戸に次いで繁栄した。

 この間、家康公は安倍川の流路を定め、街並を整え、或は所業を興し、学問を奨励する等、東海の雄都静岡市発展の基盤をつくられた。

巽 魯


 享和元年(1801年)3月2日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で駿府に着いた。

やゝありて府中につく。駿府の御城は、慶長のとし、かけまくもかしこき神のましませし所ときくにも空恐しく、輿のうちに蹲りてすぐ。実に御城下の賑ひ他に異なり、去年焼し処もみえたり。


 平成21年(2009年)8月11日、静岡沖地震により、中堀や外堀などで石垣の一部が崩壊。

 平成23年(2011年)3月15日、復旧工事完了。

 平成24年(2012年)4月1日、駿府公園を駿府城公園に改称。

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