2008年滋 賀

義仲寺〜芭蕉の句碑〜
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石山寺から京阪石山坂本線で義仲寺へ。


朝日山義仲寺


単立の寺院である。

 国指定史跡

義仲寺境内

 義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところから来ていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。

 門を入ると、左奥に俳聖松尾芭蕉の墓と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。

 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。

 また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。

 昭和42年(1967年)11月に国指定の史蹟となりました。

大津市教育委員会

木曽塚


 寿永3年(1184年)正月20日、木曽義仲は源範義、義経の軍勢と戦い、討ち死に。

木曽の情雪や生ぬく春の草

『芭蕉庵小文庫』(史邦編)

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄五甲(ママ)ノとし」とする。

巴塚


 義仲の側室巴御前は尼僧となり、義仲墓所の辺に「無名庵」を結び、日々供養した。

義仲寺境内には芭蕉の句碑を始めとして19の句碑がある。



古池や蛙飛こむ水の音

 元禄3年(1690年)3月、芭蕉は「無名庵」に滞在。各務支考は無名庵に芭蕉を訪ねて門下となる。



行春をあふミの人とおしみける

出典は『猿蓑』

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未ノとし」とする。

同年7月23日〜9月12日、芭蕉は「無名庵」に滞在。

月見する座にうつくしき貌もなし
   翁

『卯辰集』(北枝)

 元禄3年(1690年)9月21日、鬼貫は江戸に向う旅の途上、木曽塚を訪ねている。

松本を過てもころ川に至る。人の家のうしろに柿の木ありて、

      義仲塚

   柿葺や木曾が精進がうしにて


同年9月28日〜9月30日、芭蕉は「無名庵」に滞在。

元禄三年の秋ならん、木曾塚の旧草にありて、敲戸の人々に対す

草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
   翁

『笈日記』(支考編)

 元禄4年(1691年)春、新「無名庵」落成。

6月
25日、芭蕉は「無名庵」に滞在。


秋、句空は「無名庵」に芭蕉を訪ねた。

8月
15日、義仲寺で月見。


   三井寺の門たたかばやけふの月


16日、浮見堂に吟行。

9月
島崎又玄は「無名庵」滞在中の芭蕉を訪ねる。

又玄の句碑


木曽殿と背中合わせの寒さかな

『己が光』(車庸撰)には「木曽殿と背(せなか)を合する寒さ哉」とある。

元禄4年(1691年)9月、又玄が無名庵に滞在中の芭蕉を訪ねた時の句。

又玄は伊勢の俳人。

 『芭蕉句鑑』(元禄三年午)に「木曽殿とうしろ合の夜寒かな」と収録されているが、誤伝である。


同年9月28日、芭蕉は江戸へ旅立つ。

句空は「無名庵」を訪ねる。

木曾塚のほとりに、むすびすてられたる翁の庵にしばらく侍りて

すてゝゆく庵見よとや遅桜
   句空


元禄7年(1694年)
6月15日、芭蕉は「無名庵」に滞在。


7月5日、京都の去来宅へ。



旅に病で夢は枯野をかけ廻る

元禄7年(1694年)10月
12日、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で死去。


13日、遺骸を義仲寺に運び入れる。


14日、木曽塚の右に並べて埋葬。

八日の夜伽の人々に賀の句を望たまふ。翁も病中の吟あり

旅にやんで夢は枯野をかけまはる

時つもり日移れともたのもしげなく、翁も今はかゝる時ならんと、あとの事をも書置。日比とゞこほりある事ともむねはるゝばかり物がたりし偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰は東西のちまたさゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便わづらはしからし。乙州敬して約束たがはしなどうけ負ける。

『芭蕉翁行状記』(路通編)

芭蕉翁墓


湖南・江北の門人おのおの義仲寺に会して、無縫塔を造立す。面には芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。

なきがらを笠にかくすや枯尾花
   其角

   温石さめてみな氷る声
   支考

『笈日記』(支考編)

 元禄9年(1696年)、内藤丈草は義仲寺境内の龍ヶ丘に仏幻庵を営み、芭蕉を供養するために法華経塚を建てた。

 元禄10年(1697年)6月5日、下里知足は木曾塚の「芭蕉翁墓」に立ち寄っている。

膳所の町はつれ木曾塚といふ所に、先師芭蕉翁桃青の墳墓あり。此たひの幸ひに立よる。門の入口青めなる石に芭蕉翁の三字をしるせり。

『多日万句羅』

 元禄13年(1700年)、服部嵐雪は義仲寺の「芭蕉翁墓」を訪れる。

義仲寺の師父の廟は、芭蕉しげり芭蕉破れて、七とせの露霜を送り迎へ、苔生ひ給へり。

   色としもなかりけるかな青嵐


 延享3年(1746年)8月25日、白井鳥酔は義仲寺に詣でた。

粟津義仲寺碑前
□□廿五日
雀さへ粟津慕ふや墓の秋


 延享4年(1747年)、雲裡坊無名庵五世となる。『諸国翁墳記』を編纂。

 『諸国翁墳記』は初期は宝暦11年(1763年)3月の序文を持つ小冊子から代々の義仲寺貫主に引継がれて、安政5年(1858年)の建立のものを含むものまでの数十種類の冊子が知られている。

義仲寺に今は無い。

義仲寺には、もうひとつ芭蕉の句とされる碑があった。


三日月の影を延すな蕎麦の花

現在、この句は文献で芭蕉の句と確認できない。

 俳諧一葉集』に「三日月の地はおぼろ也蕎麥の花」の句がある。

 『芭蕉句鑑』(元禄五甲(ママ)年)に「三日月に地は朧なり蕎麥の花」の句がある。

寛延3年(1750年)、文素建立。

 宝暦13年(1763年)、時雨会。記念集蕉翁七十回忌粟津吟』(浮巣庵文素)

 明和元年(1764年)8月19日、多賀庵風律は東国行脚の途上義仲寺を訪れている。

十九日膳所の義仲寺に詣すはせを翁の墓にて

   寐まち月朝日と申す隣あり


 明和2年(1765年)、蓑笠庵梨一は義仲寺の翁塚に詣でている。

   義仲寺の翁塚に詣て其余沢を感す

茂るものゝ先目にたちてはせを哉


 明和6年(1769年)、蝶夢法師義仲寺中興。

蝶夢の句碑


初雪や日枝より南さり気なし

 明和8年(1771年)、加舎白雄は義仲寺に詣でている。

   詣粟津墓

ひともとのばせをはかれずなりけり。噫元禄のむかし蕉風ひろごりてすたれる国なし。吁、元禄のむかし

すり寄て墓の秋風きく日哉
   しら尾


 安永7年(1778年)、沂風第六世無名庵主となる。

 寛政2年(1790年)、蝶夢の援助で粟津文庫を創設。

 寛政4年(1792年)、重厚無名庵七世となる。

資料館に芭蕉像があった。


 寛政7年(1795年)10月12日、小林一茶は義仲寺の芭蕉忌時雨会に参加している。

義仲寺へ急候はつ時雨


 享和元年(1801年)3月9日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で義仲寺を訪れている。

左のかたに義仲寺あり。聞しにも似ずあさまなる所にして、門を入れば左に堂あり。木曾殿の像を安置す。堂の前に墓あり。木曾義仲墓とゑりて、前なる石灯に奉進徳音院殿墓前としるせり。此墓の右に芭蕉墓ならびたてり。


 文化6年(1809年)10月12日、倉田葛三は義仲寺の時雨会に列席。

   義仲寺にて

淡海のあはにもうれし初時雨


矢島蟻洞の句碑


よい處へちればさくらの果報かな

蟻洞は俳諧を富岡乙也に学ぶ。無名庵十二世。

明治15年1月8日(1882年)、81歳で死去。

明治15年(1882年)12月、建立。

乙也の句「行燈のひとり消けりけさの秋」の碑もあったようだ。

 明治23年(1890年)8月29日、正岡子規は石山寺に向かう途中で義仲寺を訪れている。

つぐの日朝人力車にて石山寺へと志す 通にて義仲寺の前を過ぎりしかばいたく喜びて車を下り門をはいりて見るにいとささやかなるいほりあり 庭の前に義仲の墓と芭蕉の墓と背中合せなすも哀れなり。義仲の塚は五輪の搭苔むしてふるび芭蕉の塚はかたはらに一もとの芭蕉いまだ野分せず 其ほとりに芭蕉庵一宇ありて前に門弟の發句畫像をかきつけたる額數多かけたり 其前に萩朝皃(あさがほ)のありてさびしげに笑ひかかるも身にしみて有難く覺ゆ 芭蕉の塚の前の石に

   行燈のひとり消えけりけさの秋   乙也

とゑりつけあり 乙也とは如何なる人やらん

   白露のこぼれたあとや塚一つ

   さびしさのうれしさうなる芭蕉哉


岡田魯人の句碑


月の湖鳰は浮きたりしづミたり

魯人は無名庵十四世。

明治38年(1905年)5月8日、68歳で没。

明治42年(1909年)6月、建立。

 昭和2年(1927年)12月、荻原井泉水は義仲寺を訪れている。

正面に、右手を向いているのが、木曽義仲の墓、石を以て高く築いた上に、宝篋印塔に似た形をした墓碑である。それに並んで、奥寄りにあるのが芭蕉の墓、高い台石の上に、細長く尖って下ぶくれのした自然石を載せて標とし、刻して「芭蕉翁」とある三字は丈草の筆だという事。ここにも芭蕉が一株、塚の後ろに植えてあり、薄が一むら、横手に生えて黄いろく枯れている。

『随筆芭蕉』(義仲寺)

瀬川露城の句碑@


栗津野に深田も見えず月の秋

瀬川露城は無名庵十五世。

昭和3年(1928年)5月8日、78歳で没。

瀬川露城の句碑A


   秋草をうゑこみて

さまざまの露ひとむらのさかり哉

西尾其桃の句碑


鴬の頻に鳴くや雨の花

西尾其桃は無名庵十七世。

昭和6年(1931年)4月8日、和歌山白浜で客死。

 昭和8年(1933年)、斎藤茂吉は義仲寺に案内された。

わが友に導かれ來し義仲寺のせまきくまみの萩咲かむとす


 昭和18年(1943年)11月21日、高浜虚子富安風生と共に義仲寺無名庵の芭蕉忌法要に参列。

無名庵に冬籠せし心はも

湖の寒さを知りぬ翁の忌

      十一月二十一日 大津義仲寺無名庵に於ける芭蕉忌法
      要。膳所小学校に於ける俳句大会。


   義仲寺なる芭蕉二百五十回忌に列す 二句

家並欠け葱畑の上に鳰の湖

師に倶する仕合せかなひ翁の忌

『村住』

寺崎方堂の句碑


むべ三顆翁を祀るけふにして

寺崎方堂は無名庵十八世。神戸生。瀬川露城の門人。

昭和38年(1963年)、没。

 昭和35年(1960年)12月1日、久保田万太郎は義仲寺を訪れている。

   義仲寺(三句)
    ――“げにも所は、ながら山、田上山をか
    まへてさゞ波も寺前によせ、漕出る舟も觀
    念の跡をのこし、云々”と、其角の“芭蕉
    翁終焉記”にしるされたる芭蕉ゆかりのこ
    の寺も、いまは街道筋となり、はなはだふ
    ぜいに乏し。

義仲寺のいまはむかしの冬田かな

句碑ばかりおろかに群るゝ寒さかな

池寒く主(あるじ)いまなし無名庵

『流寓抄以後』

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