2013年京 都

東福寺〜通天橋〜
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京都市東山区本町に東福寺(HP)がある。


 恵日山と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎2年(1236年)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256年)完成した。その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治14年(1881年)に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。

 三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の座禅所)、東司(便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。

京都市

通天橋・開山堂の拝観料は400円。

通天橋


 明和8年(1771年)、加舎白雄は通天橋の紅葉を見ている。

通天橋紅葉見に参て、

 くらべこしふたつの橋の夕もみぢ

『春秋菴白雄居士記行』

 寛政3年(1791年)、森々庵松後は伊勢に向かう途上、東福寺を訪れている。

   東福寺通天橋

通天や紅葉にかゝる冬の虹

『杖のはじめ』

 享和元年(1801年)3月10日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で東福寺を訪れ通天橋のことを書いている。

名におふ通天橋は桁行十二間二尺、梁一間五尺、深き谷にかゝり、額は普明禪師の筆なりとぞ。橋のほとりに莚しきて、香煎うるものあり。しばらく憩ひてむかひの橋を見れば、臥雲橋なり。


 享和2年(1802年)3月22日、大坂銅座詰の任を終え江戸へ帰る旅で東福寺を訪れている。

稲荷の社にぬかづきて東福寺にいれば、今年開帳ありて、五大堂・開山塔・客殿・伝衣閣・ 方丈・法堂・仏殿・山門ことごとく、もろもろの宝物をかゝげて人々に拝せしむ。まだ朝のほどなれば、まいり来る人もまれなり。


通天橋の先に芭蕉の句碑があった。


古池や蛙とびこむ水の音

出典は『蛙合』(仙化編)。

貞亨3年(1686年)春、深川芭蕉庵で詠まれた句。

明治26年(1893年)11月19日、芭蕉の二百回忌に不識庵聽秋建立。

通天橋を見上げる。


昭和15年(1940年)、阿波野青畝は東福寺を訪れた。

跫音の通天冬に這入りけり

『国原』

 句を作りに京都東福寺に杖をひいたその日が立冬であった。ひっそりと静寂につつまれた境内は一条の谿谷に貫かれ、三つの架橋があった。その中央の屋形橋は通天橋と支那風に呼ばれている。開山堂に詣でるのにこれを渡るので、雲水姿の僧のゆききが一幅の画になってよかった。川端茅舎が「通天やしぐれやどりの俳諧師」と詠んだのが私の頭にあって感心したのであった。

 赤黒い冬紅葉の多少のこった空山といった趣の只中に、からころからころ――と足音がしてくる。板ばりの通天橋を今誰か小走りに過ぎる足音とわかった。この禅寺にあってのその足音が殊さらめかしくひびきわたり、強く興をひいたのである。

 先年伊勢湾台風がこの通天橋を崩壊した。今の改装された頑丈な橋になってから、この句のできた当時の趣は遠いものになって惜しまれる。


 昭和45年(1970年)7月19日、高野素十は入院中の日赤から東福寺を訪れた。

   同十九日、日赤近く東福寺あり通天橋に小憩、橋の突き当りは開
   山堂らし。清文同行。

通天を行く三人の盆の僧

『芹』

開山堂


 弘安3年(1280年)10月17日、円爾弁円は79歳で入寂。賜号は聖一国師。10月17日は開山忌である。

 元禄9年(1696年)、北枝は開山忌に東福寺を訪れている。

   開山忌の日通天橋にのそむ

もみち葉よ忌日の後にま一日


 大正12年(1923年)10月28日、荻原井泉水は妻を失い、翌年1月31日、母を失う。4月1日、井泉水は京都に来た。

   四月一日、家を出づ、京都に至りて、さる上人
   にすがり、寺に入らんと心を定めて

闇に梅の咲きしらむ家をはなれる


東福寺の塔頭に天徳院がある。

天徳院の庭に荻原井泉水の句碑がある。


石のしたしさよしぐれけり

昭和45年(1970年)5月10日、建立。

京都春季大会

勝手まがりくねつた枝のきまま芽をふく
五月十日

天徳院句碑除幕

老師焼香一喝我が石として芽をふく


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