街 道東海道


見付宿と阿多古山一里塚

磐田市三ヶ野の旧東海道に松並木が残っている。


旧東海道の松並木


 弘安2年(1279年)10月23日、阿仏尼は見付の里に泊まった。

 今宵は遠江(とをつあふみ)見付の里といふ所にとゞまる。里荒れて物恐ろし。傍に水の井あり。

   誰か来て見付の里と聞くからにいとゞ旅寝ぞ空恐ろしき


 仁治3年(1242年)8月、『東関紀行』の作者は鎌倉へ下る途中、見付に泊まっている。

 遠江の国府今の浦に着ぬ。爰に宿かりて一日二日泊りたるほどに、蜑の小舟に棹さして浦のありさま見めぐれば、塩海水うみの間より、洲崎とを(ほ)く隔りて、南には極浦の波袖をうるほし、北には長松の風心をいたましむ。名残おほかりし橋本の宿にぞ相似たる。昨日の目うつりなからずは、是も心とまらずしもはあらざらましなどおぼえて、

   浪の音も松のあらしもいまの浦にきのふの里の名残をぞ聞く


旧東海道を見付宿に向かうと、愛宕神社がある。


見付宿と阿多古山一里塚

 見付宿は、江戸日本橋から28番目、京都三条大橋から26番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言『磁石』に「見付は長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば東木戸から、東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸まで並び、ほぼ中央には南北両本陣や脇本陣が置かれました。西に天竜川を控え、東海道各宿の中でも重要な宿の一つでした。

 この見付宿の東側の入口に、阿多古山一里塚があります。この塚は見付の町を見下ろす高台にあり、京へ向かう旅人は、ここから宿場を眺めてほっとしたことでしょう。

 一里塚は、江戸時代の初期(1604年以降)に整備されました。阿多古山一里塚は江戸から62里、京から64里の位置にあります。一里塚が残っている所は少なく、さらに阿多古山一里塚のように街道の両脇に塚が現存する例は極めて珍しく、昭和42年に磐田市の指定史跡になっています。

木戸風モニュメント


 木戸とは、江戸時代の都市において隣り合う二町の境界、武家町・町人町の境界または町と在との境に設けられた保安用の門のことです。2本の親柱の間に門扉を付けたもので、昼間は扉を開いており通行自由でありましたが、非常の場合や夜にはこの扉を閉じて通行を停止していました。

 見付宿では、東と西の入口に木戸が設けられておりました。

 貞亨元年(1685年)、貝原益軒は見付宿のことを書いている。

見付の宿、東の入口に坂あり。其坂を下り、右へ三町程のぼりゆけば、天神の社有。舞車と云謡に此天神の事を作れり。

鷺去の原、ここの橋をさぎさりの橋という。

見付の台、富士よく見ゆ。

大久保村、三ヶ野坂、東西両方松原見事。

美香野橋あり。宗尊親王の歌あり。

西島村、ここより左に岩井村あり。いにしえの鶴、今にすむという。

『吾妻路之記』

大井川河川敷に文学碑がある。

 享和元年(1801年)3月4日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で見付宿に入る。

大久保村三本松をも過て、見付の宿にいる。たれか来て見つけの里といひし阿仏尼の時にかはりて、今は旅寝もやすかるべし。


 文化2年(1805年)11月12日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で見付宿に泊まる。

又畑の中をゆけば、切通しの坂を下りて人家のある所にいたる左側なり餅うるものあり。これ見付の宿の藪下といふ所にして、宿の中なる人家の裏より小路に出たり。見付の宿の主を三川屋甚三郎といふ。


 嘉永4年(1851年)4月1日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、浜松から舟で天龍川を渡り見付に至る。

一、四月朔日  晴。卯後、濱松を發す。舟にて天龍川を渡り、便道を取ること一里にして見付に抵る。大道に由れば則ち二里許りと云ふ。


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