徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は遠江・三河・駿河・甲斐・信濃の五カ国に及び、海道一の弓取りと武名を馳せるにいたった。そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、260余年の泰平の基礎を固めたが、やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。像は浜松時代の若き日の公の姿。手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。
昭和56年12月20日
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享和元年(1801年)3月3日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で浜松に入る。
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浜松の城には馬込川をわたりていれり。城下の賑ひよのつねならず。板屋町・田町・神明町・伝馬町・旅籠町などたてつゞきたり。井上河内守の城なり。
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嘉永4年(1851年)3月29日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、舞坂から松並木を抜けて浜松に泊まる。
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列松の間を穿つこと三里、濱松に宿す。井上河内守の居る所なり。
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