餞乙東武行 |
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梅若菜まりこの宿のとろゝ汁 | 芭蕉 |
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かさあたらしき春の曙 | 乙 |
けんくハする夫婦ハ口をとがらして |
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鳶とろゝにすべりこそすれ |
連歌師宗長は57歳の頃に丸子宿吐月峰へ草庵「柴屋」を営み晩年を過ごした。 |
その日は、草庵の隣家斎藤加賀守安元、一折とありしかば否びがたくて、発句、 風に見よ今かへり来ん葛葉かな 「別れ路に生ふる」といふ古言を思ひ出で侍るばかりなるべし。このほどは、丸子といふ山家にぞありし。 |
寛文2年(1661年)3月、西山宗因は柴屋寺に参詣している。 |
長公柴屋寺に参りて、 柴の戸のしばしの名こそ世々の春 |
元禄11年(1698年)6月7日、岩田涼莵は柴屋を訪ねている。 |
柴屋に尋入に、古めとも名を知られたる庭 のおもて物ふりて、岩木に似たるむかしか なと玄仍の句、梅の若葉なるもなつかし。 くさふかき庭に物有蝸牛 |
宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、柴屋寺を訪ねる。 |
宇津の屋の東、鞠子のにしに柴屋寺といふ小院、宗長すめる跡なりと尋ね行たるに、天柱山吐月峯七曜の池をたゝへ古墓なを殘る。苔の下道いとさびしき。 蝸牛笹のすべりや車道 |
延享3年(1746年)、佐久間柳居は柴屋寺を訪ねている。 |
まり子の柴屋寺を尋ぬ此所は宗長の旧庵の花にして正真に天柱山あり流し吐月峰有更ひかへの椎しら樫も前置のさつきもすへてかの老のものすきに残されしまゝのよしむかし忍はしく此庭にしはし彳みて |
什物の木鋏見はや若葉垣 |
明和元年(1764年)9月、多賀庵風律は田子の浦の帰途、柴屋寺を訪れている。 |
さてまり子の宿なり右の方六丁計行て柴屋寺有是連哥師宗長隠遁の所也其庭乾の方に天柱山ありいと高くて幅狭く松少ありておかしけなる山の姿也吐月峯あり池あり植置ける柏松梅有墓ありすへて此地山中の谷にて木深く苔むしたりさすかに宗長のすみやか也 宗長も蕷を堀けり柴屋寺 |
明和8年(1771年)4月19日、諸九尼は宗長の草庵「柴屋」跡を訪ねている。 |
むかしの蔦の細道は、若葉茂りて、それともみえわかざりき。柴屋寺宗長ほう(ふ)しの跡を尋入る。夏山の陰ふかく、仏間の香のけぶり、外面なる木草の葉末をわたりてうちかほり、谷水をせき入たる池水に、吐月峯の影すゞし。松栢の下に墓所あり。苔の花匂ひなつかしく、遅ざくらの散のこりたるに、心とゞまれり。 閼伽棚に春やむかしの夏花つむ |
享安永9年(1780年)4月21日、蝶夢は江戸からの帰途、鞠子の宿で柴屋寺に立寄っている。 |
鞠子の宿より、古静とおのれと柴屋寺に立よる。海道よりは引入りたる山ふところに、心細く住なしたる草庵なり。わざとならぬ庭の草木、雨の中に一きはしみじみとみゆ。前に立し山のするどく天をさゝへたるごとくなれば、「天柱峯」といひ、後の山より月のさし登れは、「吐月峯」とは名付しなるべし。宗長、此所にかくれし事は、みづから書し『宇都の山の記』にあれば、人もしれる所也。 |
天明8年(1788年)4月23日、蝶夢は昼に「とろゝ汁」を食べている。 |
府中・阿部川四十五文・丸子、とろゝ汁に昼したゝめ、宇津の山路に望(臨)。「駿河なるうつの山辺ののうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり」とありしはむかしのことにして、今の道はゆきゝ絶ず。さながら物うき山の奥に、宗長の旧地とて尋ぬ。柴屋寺の庭めぐりに、天桂山吐月峯とて奇なる山有。 |
鶯も老にけらしな柴屋寺 |
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血をはける鳥や吐月峯の上 | 老師 |
享和元年(1801年)3月2日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で鞠子の宿に入り、とろろ汁を求めた。 |
鞠子の宿にいり、右のかたなる寿徳院といふ寺に輿かきいれてしばらくいこふ。寺に大きな楠の木あり。木のもとに小祠あり。芭蕉翁が発句に梅若菜とめでし薯蕷汁いかゞならんと、人してもとむるに、麦の飯に青海苔とろゝかけて来れり。 右に柴屋寺あり。宗長の跡もしたはれ、吐月峰もみまほしけれど、甲斐なくて見過しぬ。 |
文化2年(1805年)11月14日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中丸子宿で休憩する。 |
十四日よべの雨晴たり。卯の時にやどりを出て岡部をすぎ、うつの山をこゆるほどに日出ぬ。丸子の宿のこなたより、吐月峰のかたにいるに、人家まゝあり。泉谷(イツミカヤ)といふ所にして、梅の花のとく咲たるもおもしろし。去年もみし宗長の墓にぬかづきかへりみがちにたちいでゝ、丸子の宿横田三左衛門がもとにやすむ。 |