2011年愛 知

岡崎公園〜徳川家康〜
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岡崎市康生町に岡崎公園がある。


大手門


徳川家康公銅像


 天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以後持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。

 この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。

 永禄3年(1560年)、徳川家康(松平元康)は大高城で今川義元の戦死を知り、岡崎城に入った。

巽閣


巽閣の手前に芭蕉の句碑があった。


木のもとに汁も鱠も佐久良哉

出典は『ひさご』(珍碩編)。

元禄3年(1690年)3月2日、小川風麦亭において風麦、土芳たちとの歌仙を開いた時の8吟40句の発句である。

内田不賢の書

明治13年(1880年)3月、井田欣・鈴木佳啓建立。

岡崎城


平成18年度、岡崎城は「日本100名城」に認定された。

 15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。天文11年(1542年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代、岡崎城は、「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本田氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えらる。

 現在の天守閣は昭和34年(1959年)に復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。

本多平八郎忠勝公銅像


 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に従い、戦功により同6年、伊勢桑名10万石に転封された。

 明和8年(1771年)4月11日、諸九尼は矢矧の橋を渡り、岡崎に泊まっている。

 暮かゝる程に、矢矧の橋をわたる。半行て見れば、いづこをかぎりともなく、ひろびろとのどけき川づらに、月のくまなくさし出たる景色、あかず覚ゆ。そこを行ほどもあらず、岡崎の町にやどる。


 享和元年(1801年)3月5日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で岡崎城に立ち寄っている。

まこと岡崎の城は、本多中務大輔の城にして、其賑ひ駿府につぐべし。町数五十四町、二十七曲ありとぞ。城主の家士出むかへて輿の左右にたつ。その先には市人二人鉄棒をひきて町々をいましむ。市中のさまよろしくみゆ。


 文化2年(1805年)11月10日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で岡崎の宿に泊まる。

日くれぬ程にとたち出れば、岡崎の宿にちかくつきぬ。三枡屋吉三郎がもとなり。


岡崎城城壁


東海道は岡崎城を遠巻きにしてかぎ形に曲がりくねっていたという。

五十五町二十七曲り書いた女郎の文の長さよ   蜀山人

 嘉永4年(1851年)3月27日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、岡崎に泊まる。

池鯉鮒に至りて餐を傳ふ。矢橋を過ぎ岡崎に入りて宿す。橋の長さ二百八間、日本第一の大橋と稱す。岡崎に城あり、本多中務少輔居る。


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