遊行寺の総門の冠木門で、日本三大黒門のひとつといわれます。参道の石段は48段あることから、いろは坂と呼ばれています。 |
清浄光寺が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。 宗祖は一遍上人(1239年〜1289年)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修業された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325年)遊行四代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。 宝物として、国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。 境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜、ふじ、花菖蒲の名所で、観光百選の一つにもなっています。 |
文明18年(1486年)、道興准后は遊行寺を訪れている。 |
藤沢の道場、聞えたる所なれば一見し侍りき。ある寮にて茶を所望し侍り、暫く休みけるに池の紅葉のちりけるを見て、 沢水もかけは千いろの木の葉かな 道場の前に、ふりたる松に藤のかゝりければ、 紫の色のゆかりの藤さはにむかへの雲をまつぞ木たかき |
元禄3年(1690年)10月2日、鬼貫は藤沢に泊まり遊行寺に参詣している。 |
藤澤にとまりて、二日の朝遊行の御堂にまいる。看經の聲たふとく、我も無念の念佛す。 十月の二日も我もなかりけり |
遊行寺 十人の殿等強し梅もどき 桃隣 |
宝暦7年(1757年)、白井鳥酔は遊行寺を訪れている。 |
遊行寺にて 手渡しの落葉を得たり法の場 |
享和元年(1801年)2月、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸へ赴く途中で遊行寺の鉦を聞いている。 |
遊行寺の鉦はけんけんとなりて雉の声に似たり。松風のひまに聞なしたれば、父はゝの頻りに恋しと申されし高野にも思かへて尊とし。 |
享和元年(1801年)2月28日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で遊行寺を訪れている。 |
山あひの墓原をへて、藤沢山清浄光寺のうら門より入て見るに、本堂・観音堂・鐘楼・経蔵などつきづきし。方丈のかた見やるゝに、上方に富士見の亭高し。かの白川候(侯)のかゝせ給へる清音の額もこの所なるべし。堂の側に桜咲出たり。山門を出て額をあふぎ見るに、藤沢山とあり。従二位藤原道基卿のかゝせ給へるとぞ。 |
親子ともせちに畄めけるも聞かす遊行 寺にまうて、小栗の墓像なと拝ミゆくに 雷雨しけゝれハ、 立や秋遊行の砂の雨さめて やうやうと戸塚に到る。 |
明治38年(1903年)10月、高浜虚子は戸塚から藤沢まで歩いて遊行寺へ。 |
東海道。戸塚の衆を誘うて藤沢まで二里の夜道を歩く。 七人の大いなるかな月の暈 遊行寺。 静かさや藤沢寺の月の暈 月の暈二更の星の低く飛ぶ 起きて居る蕎麦屋も月の暈の下 |
昭和15年(1940年)6月28日、星野立子は鎌倉俳句会で遊行寺へ。 |
六月二十八日。鎌倉俳句会。藤沢遊行寺。 山門は古くよりなく夏木立 噴水や思ひだんだん映るまゝ 奥の間の梅雨の畳の波うてる |
昭和17年(1942年)5月4日、高浜虚子は遊行寺に遊ぶ。 |
五月四日。みづほ 素十 中村桐花と遊行寺境内に遊ぶ。 緑して装ひ成りし大樹かな 境内やところどころに大夏木 墨をもて描きし如き夏木かな |
昭和41年(1966年)11月13日、星野立子は玉藻探勝会で遊行寺へ。 |
十一月十三日 玉藻探勝会 藤沢 遊行寺 |
遊行寺はなつかしき寺時雨れをり |