私の旅日記〜2012年〜
瀬田の唐橋 〜芭蕉の句碑〜
大津市瀬田に唐橋公園がある。
日本三大名橋 瀬田の唐橋
俵藤太百足退治伝承の地
この地は平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)が、百足を退治したというところです。
藤太は承平年間(931〜38)、 瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁(龍神)の願いを聞き入れ、瀬田橋から三上山に住む大百足を、弓で見事に退治した伝承はよく知られています。
瀬田の唐橋
平成9年(1997年)4月26日、建立。
寿永3年(1184年)、源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曾義仲軍と戦う。木曾義仲、今井兼平戦死。
貞応2年(1223年)4月4日、京都に住む隠者が瀬田の唐橋を渡り鎌倉へ東海道を下る。
四月四日、曉、都ヲ出。朝ヨリ雨ニ逢テ、勢多橋ノ此方(こなた)ニ暫ク留(とどまり)テ、浅増クシテ行。今日明日トモシラヌ老人ヲ独リ思ヲキテユケバ、
思ヲク人ニアフミノ契アラバ今帰コン勢多ノナカミチ
寛文2年(1661年)3月、西山宗因は瀬田の橋を渡り松島に向かう。
唐橋公園に芭蕉の句碑があった。
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋
出典は『阿羅野』(荷兮編)。
瀬田の唐橋は、近江八景の一つ「瀬田の夕照」の地として有名で芭蕉翁も何度か訪れたことがあります。琵琶湖やあたりの気色のすべてが、五月雨にかすんでいる中で、さすがに瀬田の唐橋だけは、雨にも隠されることなく、長々と横たわって見えている。
五月雨に煙る湖と唐橋を詠んだスケールの大きなこの句は、貞亨5年(1688年)の夏に作られました。
大津市
元禄3年(1690年)9月21日、鬼貫は瀬田の橋を渡り江戸に向う。
唐橋から見る瀬田川
丈草の句
享和元年(1801年)3月9日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で瀬田の唐橋を渡る。
名におふ勢田の大橋は長さ九十六間、小橋は二十三間ありとぞ。橋の前に田原屋といへる酒家ありしも、かの秀郷のゆかりにやとおかし。
文化6年(1809年)、倉田葛三は九州行脚の途上、瀬田の唐橋で句を詠んでいる。
唐橋は日本の道100選に選ばれている。
「私の旅日記」〜2012年〜のトップページへ