関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
そこで慶長5年(1600年)、徳川家康は六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688年)7月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
渡船は、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709年)3月、川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
川崎市 |
六郷大橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。
享和元年(1801年)2月27日、大田南畝は江戸を出て六郷の渡しを輿に乗って渡る。
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よく一盃の酒を尽して、肩輿のうちにねぶり給ひねかしといふによりて、酔心地に人々とわかれて、肩輿にのり、六郷のわたりにのぞめる比、同里の三子 井上子瓊 作左衛門 鈴木猶人 文左衛門 辻知篤 忠左衛門 送り来て手をわかつ。あかずかへりみがちながら、つゐに輿にゆられて臥しぬ。従者なるもの、やゝお目さまし給へ。こゝは金川の台にて候といふ。
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文化2年(1805年)11月19日、大田南畝は長崎から六郷川を渡り江戸に入った。
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十九日天氣よし。まだくらきにやどりを出て、六郷の川をわたりて田間をゆくに、井上作左衛門鈴木文左衛門の二子島田氏順藏弟島崎氏金土郎吉見氏の甥儀助これかれ迎にとて來れるもうれし。
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嘉永4年(1851年)4月9日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、川崎から六郷川を渡り品川へ。
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一、九日 翳。丑半時に河崎を發す。舟にて六郷川を渡り、品川に抵る。乃ち天明けたり。
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「明治天皇六郷渡御碑」があった。

明治元年9月20日、明治天皇は東京行幸のため京都御所を出発され、10月12日、川崎宿に御到着された。その当時、多摩川には橋が架けられていなかったため、地元では対岸まで23艘の船を並べて船上に板を敷き、渡御を仰いだ。とき、まさに近代への夜明けであった。
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明治7年(1874年)1月、鈴木左内が私費で左内橋を架けた。
明治27年(1994年)、正岡子規は六郷橋までやってきた。
六郷の橋まで来たり春の風
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稲毛神社に句碑がある。
平成9年(1997年)、現在の六郷橋の工事が完了した。
古代の東海道は「矢口の渡し」を渡ったようだ。
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