芭蕉ゆかりの地


〜幻住庵〜

大津市国分に幻住庵がある。


幻住庵の遊歩道に芭蕉の句碑がある。

遊歩道を登りつめると、大きな椎の木があった。


 芭蕉の門人菅沼曲翠が義仲寺で生活していた芭蕉の隠棲地として、伯父幻住老人定知(さだとも)の旧庵に手を加えて提供したもの。

 元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで芭蕉は幻住庵に滞在した。47歳の時である。

 元禄3年(1690年) 6月、之道は芭蕉を幻住庵に訪ねて入門。

頓て死ぬけしきは見えず蝉の声


芭蕉が幻住庵で秋之坊に示した句だそうだ。

むかし湖南の幻住庵に。一夜の夢をむすびしが。其夜もしらずよみしやすらん。にくみしやすらん。無常迅速の一句をあたへて。先師も麓までおくりは申されしか。

「示秋之坊辭」(支考)

福井の俳人洞哉は越人と幻住庵を訪れている。

啼やいとヾ塩にほこりのたまる迄
   越人

   越人と同じく訪合て

蓮の實の供に飛入庵かな
   等哉


 元禄3年(1690年)9月21日、鬼貫は江戸に向う旅の途上、幻住庵を訪ねている。

もどりに芭蕉がいほりにたづねて、

   我に喰せ椎の樹もあり夏木立


後、幻住庵も頽廃していたようだ。

   幻住菴頽廃の跡一見して

霜原や窓の付たる壁のきれ
    丈草

『続有磯海』(浪化編)

明和4年(1765年)、既白は加賀を去って幻住庵に滞在。

芭蕉翁幻住庵舊趾


明和9年(1772年)10月12日、五升庵蝶夢建立。

此日国分山に登りて、人々とともに椎柴をかり、萩すゝきの枯しをかなくり、かの石を建ける折ふし、三上の山・水茎か岡のかたよりうち時雨来りて、「芭蕉翁幻住庵旧跡」と書たる石の面も、あたりの草木もさなからぬれて、一きわしみしみと見えわたり、そゝろにむかし覚えて哀なれは

ふりし世の庵もかくや夕しくれ
   蝶夢


去年の冬、蝶夢法師の建られし石のしるしを見て、こゝなん庵の跡よと懐旧のなみたをなかす。そも祖翁此山に住給ひしは、元禄三年の夏にして、ことしまては、八十四年に成ぬれは、礎のひとつも見えす。その世の名残とては、たゝまつたのむの椎の木立のみ今もしけれり。

されはこそ小笹にうつむ椎のから
   重厚


芭蕉翁經塚


愚按、幻住菴記は、猿蓑集にあり。國分山の菴の跡には、蕉翁八十年に當り給ふ時、予しるしの石を建つ。又石經を埋み給ふ上には、勢田の住人、雨橋、扇律等經塚の二字の石を立てぬ。

『芭蕉翁繪詞傳』(五升庵蝶夢)

かたへの岨に石の高く見えたるは、一夏こゝに山籠りし給ひて、法華経を一字一石に書写し埋み給ひし経塚とか。枯し萩すゝきをかなくり、土をうかちぬるに、さゝやかなる石に、朱にて「有」といふ文字のあるをさかし得たり。

雪に霜にきえすや法の玉柏
   吾東


 享和2年(1802年)3月23日、太田南畝は石山寺を訪れる途中で「幻住庵記」のことに触れている。

去年見ざりし事のこり多ければ、こゝに輿かくものをまたせて、かちよりゆく。右は山のそばにして、左は勢田の川なり。右に國分寺道あり。かの芭蕉翁が幻住庵記にかける所なるべし。


 文政10年(1827年)4月27日、鶴田卓池は岡崎を出発、長崎へ旅立つ。

   幻住庵のあとを問て

ひやひやと苔に膝置わかばかな


椎の木の下に芭蕉の句碑があった。


先たのむ椎の樹もあり夏木立

「幻住庵記」結びの句である。

天保14年(1843年)閏9月、建立。梅室筆。

「幻住庵記」の俳文碑


『猿蓑』に収録されている。

 明治23年(1890年)8月30日、正岡子規は石山寺から幻住庵の跡を訪れている。

石山寺より横に曲りて十町許り行けば國分村なり 路やうやうに細くなりて車の通るべくもあらず 獨えいあるきながら百姓に路を尋ねて山を登り行くに木立茂りて石燈籠路をはさむ。登り盡せばみやしろあり 其横に僅か三坪餘りの土地ありて草のみおひたり これこそ芭蕉の住みし幻住庵の跡なれ 椎の木ばかりは今も多くあり。むかしは知らず木立の茂れる爲眺望多からず 奉納の發句多し

   まぼろしのいづこに住んで草の露


 明治44年(1911年)4月3日、河東碧梧桐は幻住庵の跡を訪ねている。

 近津尾神社と額の掛った野中の鳥居を潜って、田圃道をなお少し行くと立木で丸くなった丘に突き当る。これが国分山だという。立木は多くの松樫の常盤木で、中には椎も交る。日の暮近い静かな雨で振り返って見る石山の頂きには薄い靄が棚引いておる。山に上る道は近頃修理でもしたのか、かなりの広さで掃除も行届いておる。幻住庵の記に、山に上る三曲五十歩にして、というようなことがあったが、成程その通りだと和露がいう。頂きにささやかな八幡宮がある。舞殿もある。宮から左に反れた僅かな広場が幻住庵の跡だというので石碑が建ててある。句碑も一二その側に見える。先づたのむ椎の木は、と仰ぐ頭上に左右から椎の枝が雨の雫を滴らせておる。


 大正15年(1926年)6月、荻原井泉水は幻住庵を訪れている。

つまり国分山の中腹なる自然の平地に八幡宮を勧請してあり、その傍の山を少し崩して地をならした所へ、幻住老人が庵を構えたものなのである。勿論、現今、その庵の跡は何も残っていないが、家の跡らしくきれいに平(なら)されてある土に――凡そ七八十坪もあろうか――「芭蕉翁幻住庵旧蹟」という石と、

   まづたのむ      梅室拝書

      椎の木もあり夏木立

という碑が建ててある。椎の木が二本、松が数株、松笠が落ちている。その実からしぜんに生えた芽松が出ている。「まづたのむ」の句は源氏物語の「たちよらんかげとたのみし椎がもと空しき床になりにけるかも」に拠ったものと思われるが、昔からこの山に椎の木が多くて、その実感であったことも察せられる。他に「芭蕉翁経塚」というものが建ててある。芭蕉が一石一字の法華経を書写してここに埋めたという伝説なのだが、之は信じていいかどうか解らない。

『随筆芭蕉』(幻住庵)

 昭和8年(1933年)8月8日、斎藤茂吉は比叡山を下り幻住庵址を訪れている。

   幻住庵址

      八月八日比叡山をくだる。藤田清ぬしの案内にて同人等芭蕉
      の幻住庵址を訪ふ

瀬田川にみだりて降れる夏雨のやうやくにしてうつりけるらし

この山をある宵くだり村里に風呂をもらひし翁おもほゆ


幻住庵


 昭和14年(1939年)10月17日、高浜虚子は幻住庵で句会。

淋しさの故に清水に名をもつけ

      十月十七日 幻住庵句会。大津ホトトギス会主催。


 昭和28年(1953年)8月、中村草田男は帰郷途次、幻住庵址を訪れた。

   幻住庵址にて

蝉聲ほのぼの「三曲二百歩」一段づつ

いちめんに呼名「落穂」の松落葉


 昭和40年(1965年)、山口誓子は幻住庵の跡に芭蕉の句碑を訪ねている。

 神社は東へ向き、その左に戸を鎖した社務所があって、その東南の地を幻住庵の跡という。句碑は社務所に背を向けて立っている。直立してはいない。やや仰向いている。おりからの小雨に濡れて、滑らかなその自然石がよけいに滑らかだ。かたわらの松の幹もその小雨に濡れて黒い。

 句は石いっぱいに書いてある。

   先たのむ椎の樹もあり夏木立

 梅室のその字はいい。「堂のむ」「安里」などと書いてあるが、字はいい。

   (中略)

 幻住庵に来て真先にたのみとしたのは、夏木立の中の、この大きな椎の木であった。この、「椎の木蔭に身を置いて、ここにしばらく住むことにしよう。「椎の木もあり」の「も」は「もまた」の「も」ではなく、存在の軽い主張である。建立は天保十四年。


 平成3年(1991年)10月、「ふるさと吟遊芭蕉の里」事業の一環として幻住庵が再建されたそうだ。